明智光秀の首塚が残る盛林寺へ
カトリック宮津教会 聖ヨハネ天主堂を12時46分に出て、次に明智光秀の首塚がある盛林寺に向かいました。普通なら6分程度で行ける所が、着いたのが13時16分でした。これには訳があって、友人の車のナビが古く、友人はナビの誘導で「宮津天橋立IC」から京都縦貫館自動車道に入ってしまい、次の「舞鶴大江IC」で、降り再び「舞鶴大江IC」から高速に乗って、「宮津天橋立IC」で降り、今度はナビの誘導を無視し、地図を見て盛林寺に向かった訳です。それで約30分もかかってしまいました。友人には無駄なガソリン代と高速代を使わせて申し訳なかったです。



駐車場が無いので石段下に車を止めます。そして入口に幟があって「ガラシアゆかりの地」と書いてありました。そして石段を上がって行きます。
寺伝によると1577年(天正5年)6月、宮津大久保谷に創建。その寺地はあきらかでない。開山の趙室宋栢)ちょうしつそうはく)和尚は、越前瑞洞院(福井県武生市)四世、盛林寺に住して20年、1596年(慶長元年)12月示寂。生前85歳当時の頂相が寺蔵されている。開基は、当時宮津谷を支配していた一色重臣小倉播磨守と伝え、一色氏、小倉氏の過去帳・位牌が残されている。織田信長の天下平定策戦のなかで、小倉・一色両氏は細川藤孝らによって滅んだが、盛林寺と細川家は良好な関係を保った。裏山の墓地の明智光秀供養の宝篋印塔は、細川忠興の妻・玉(光秀の娘)によって建てられたことを伝えている。細川氏が関ヶ原の戦いにより豊前中津へ去ったのち、1603年(慶長8年)、寺地は上宮津谷に移り、更に1685年(貞享2年)に現在池に移った。
あとで分かったことですが、「鐘楼門」をくぐり正面に「本堂」が見えますが、あとでお参りします。




「麒麟がくる」の主人公は、明智光秀です。光秀人気でしょうか私も、ここまでやって来ました。境内には分かりやすいように、「光秀首塚」と案内が出てました。
ここから「光秀公の首塚この先60歩」と出ており、坂をぐんぐん登って行きます。ただ60歩では無かったですね
。
案内が出ているので、探すこと無くここまで来られました。こちらが「光秀の首塚」です。
高さ111㌢の宝篋印塔で、基礎の両側に、天正10年6月13日、條鉄光秀居士と刻んでいる。光秀の娘・玉が細川忠興に嫁いだのは1578年(天正6年)8月でした。その細川氏が宮津入城が二年後の1580年(天正8年)8月、そして2年後の1582年(天正10年)6月2日に父は織田信長を本能寺に攻めます。父からは細川氏に同心を求める書状が届いたが、忠興は応じず、玉を丹後山奥の味土野に幽閉し、自らは髻を払って謹慎の意を表した。光秀は信長を倒して10余日、6月13日、秀吉軍と山崎に戦って敗れ、次いで、居城坂本に退く途中に小栗須において土民に襲われ死んだ。同月17日、秀吉は光秀の首を本能寺に梟し、屍を粟田口に磔にしたという。これはさまざまな伝説がつきまとって、光秀の首が娘・玉のいる宮津に届けられて葬ったという当時の首塚の話のほかにも、粟田口下(京都市東山区梅宮町)、谷性寺(亀岡市)にも首塚が伝えられる。なお、盛林寺には光秀の位牌も祀られている。
私は、「谷性寺」と「粟田口下」の首塚に行ってます。今回「麒麟がくる」が放送されなかったら、ここは知らずにいたでしょうね。
一つ置いて、「一色氏供養塔」です。室町幕府における四職の一角である丹後守護家一色氏最後の当主は、一色 義清(いっしきよしきよ)で、細川氏によって滅ぼされました。



友人は、先に本堂に行ったので、私が降りて来たとき入れ違いに登って行きました。私はこれから本堂に行きます。
と、その前に気になるものがあったので見ていきます。「三界唯一心塔姿(さんかいゆいしんとうば)」と書かれた大板碑です。
この碑は開山趙室和尚によって建てられたもので、故地寺谷に古くよりたたり石として倒れ伏したままになっていたものか、調査の結果、基調な開山の記念碑と判明。寺檀の強力により現地に再建された。碑面は、上部に蓮華座上の円相を刻み、その下面は中央に大きく三界唯一心と縦に書き、横に五本の界線を引いて、その最上級に13名の僧名を刻んでいる。
ここから京都丹後鉄道宮津線が見えています。私は、まだ国鉄だった頃に乗ったように覚えていますが・・・。


このあと、開いている堂内に入りました。こちらは曹洞宗寺院で、ご本尊の釈迦牟尼仏が見えました。朱印は何も書いてないので、声は掛けませんでした。
「本堂」の右横が「寺務所」でしょう。こちらも開いてましたが、前途したとおり声は掛けませんでした。


帰りに「鐘楼門」に寄りました。それまでは、これが鐘楼だとは気がつかなくて、上部に梵鐘があることが分かった次第です。上に登れそうでしたが・・・止めました
。
ここを13時30分に出て行きました。この直ぐに横に、京都縦貫自動車道が通っており、友人のナビは勘違いして高速を案内したかも知れません
。
ここを出て、再び宮津天橋立ICから京都縦貫自動車道に入り、京都市内を目指します。そして、ここに来る時から友人にお願いしていた「道の駅 京丹波 味夢の里」に、14時20分に着きました。
ここは人が多かったです。車を止めるのも、最も遠いエリアにしか空いてませんでした。ここで福知山の銘菓を買えました。
レジも並びました。本当に密になってます。私らは無縁ですが GoToトラベルで多くの方が来られているのでしょう。買い物とトイレを済ませたら、さっさと外に出て14時30分に、ここを出発。友人が園部で所要があるので、それを済ませたあと、高速に乗らず、また、国道9号線も日曜日の夕方で混雑し渋滞していることから、JR八木駅の交差点を左折し、八木大橋を渡り府道477号線から越畑に入ります。この八木町にある越畑は、京都市右京区の飛び地なんです。以前から知ってましたが初めて越畑を通りました。そこから「ゆずの里水尾」に入ります。水尾の街並みも初めて通りました。ここで柚子風呂に入って、鶏鍋をいただくのがここの名物で有名です。愛宕山を清滝口から登り、水尾地区に降りてくる・・・今日も多くの人がJR保津峡駅を目指し歩かれてました。この保津峡は20歳代の頃、毎年会社の仲間と飯盒炊飯に行ってました。JR嵯峨嵐山駅(当時は、国鉄嵯峨駅)から2時間近く歩いて行くんですけど、40年近く歩いて無かった道を友人が通ってくれました。懐かしいですね、当時のしんどかったことを思い出しました。飯盒炊飯が終わったら国鉄保津峡駅から帰りましたが、再び歩いて帰る先輩もいましたね。家にはすっかり暗くなった17時頃帰りました。急遽決まったこの日の行程でしたが楽しかったです。
【盛林寺】

【道の駅 京丹波 味夢の里】





寺伝によると1577年(天正5年)6月、宮津大久保谷に創建。その寺地はあきらかでない。開山の趙室宋栢)ちょうしつそうはく)和尚は、越前瑞洞院(福井県武生市)四世、盛林寺に住して20年、1596年(慶長元年)12月示寂。生前85歳当時の頂相が寺蔵されている。開基は、当時宮津谷を支配していた一色重臣小倉播磨守と伝え、一色氏、小倉氏の過去帳・位牌が残されている。織田信長の天下平定策戦のなかで、小倉・一色両氏は細川藤孝らによって滅んだが、盛林寺と細川家は良好な関係を保った。裏山の墓地の明智光秀供養の宝篋印塔は、細川忠興の妻・玉(光秀の娘)によって建てられたことを伝えている。細川氏が関ヶ原の戦いにより豊前中津へ去ったのち、1603年(慶長8年)、寺地は上宮津谷に移り、更に1685年(貞享2年)に現在池に移った。









高さ111㌢の宝篋印塔で、基礎の両側に、天正10年6月13日、條鉄光秀居士と刻んでいる。光秀の娘・玉が細川忠興に嫁いだのは1578年(天正6年)8月でした。その細川氏が宮津入城が二年後の1580年(天正8年)8月、そして2年後の1582年(天正10年)6月2日に父は織田信長を本能寺に攻めます。父からは細川氏に同心を求める書状が届いたが、忠興は応じず、玉を丹後山奥の味土野に幽閉し、自らは髻を払って謹慎の意を表した。光秀は信長を倒して10余日、6月13日、秀吉軍と山崎に戦って敗れ、次いで、居城坂本に退く途中に小栗須において土民に襲われ死んだ。同月17日、秀吉は光秀の首を本能寺に梟し、屍を粟田口に磔にしたという。これはさまざまな伝説がつきまとって、光秀の首が娘・玉のいる宮津に届けられて葬ったという当時の首塚の話のほかにも、粟田口下(京都市東山区梅宮町)、谷性寺(亀岡市)にも首塚が伝えられる。なお、盛林寺には光秀の位牌も祀られている。
私は、「谷性寺」と「粟田口下」の首塚に行ってます。今回「麒麟がくる」が放送されなかったら、ここは知らずにいたでしょうね。






この碑は開山趙室和尚によって建てられたもので、故地寺谷に古くよりたたり石として倒れ伏したままになっていたものか、調査の結果、基調な開山の記念碑と判明。寺檀の強力により現地に再建された。碑面は、上部に蓮華座上の円相を刻み、その下面は中央に大きく三界唯一心と縦に書き、横に五本の界線を引いて、その最上級に13名の僧名を刻んでいる。











ここを出て、再び宮津天橋立ICから京都縦貫自動車道に入り、京都市内を目指します。そして、ここに来る時から友人にお願いしていた「道の駅 京丹波 味夢の里」に、14時20分に着きました。

レジも並びました。本当に密になってます。私らは無縁ですが GoToトラベルで多くの方が来られているのでしょう。買い物とトイレを済ませたら、さっさと外に出て14時30分に、ここを出発。友人が園部で所要があるので、それを済ませたあと、高速に乗らず、また、国道9号線も日曜日の夕方で混雑し渋滞していることから、JR八木駅の交差点を左折し、八木大橋を渡り府道477号線から越畑に入ります。この八木町にある越畑は、京都市右京区の飛び地なんです。以前から知ってましたが初めて越畑を通りました。そこから「ゆずの里水尾」に入ります。水尾の街並みも初めて通りました。ここで柚子風呂に入って、鶏鍋をいただくのがここの名物で有名です。愛宕山を清滝口から登り、水尾地区に降りてくる・・・今日も多くの人がJR保津峡駅を目指し歩かれてました。この保津峡は20歳代の頃、毎年会社の仲間と飯盒炊飯に行ってました。JR嵯峨嵐山駅(当時は、国鉄嵯峨駅)から2時間近く歩いて行くんですけど、40年近く歩いて無かった道を友人が通ってくれました。懐かしいですね、当時のしんどかったことを思い出しました。飯盒炊飯が終わったら国鉄保津峡駅から帰りましたが、再び歩いて帰る先輩もいましたね。家にはすっかり暗くなった17時頃帰りました。急遽決まったこの日の行程でしたが楽しかったです。
【盛林寺】
【道の駅 京丹波 味夢の里】
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