京都府八幡市の神仏習合が残る石田神社へ
水度神社がある京都府城陽市から、八幡市に移動します。友人が次の目的地をナビに入れると、ナビは高速道路経由を案内します。両市の間にある木津川を渡るのに高速を利用する方が便利だったためです。高速は城陽ICから田辺北ICまで京奈和自動車道を利用し、降りると府道22号線を北上。9時48分に目的地の石田神社に着きました。ただこちらには駐車場は無いので鳥居前のスペースに車を止めました。
こちらの鳥居は、東に向いてます。その東には木津川が流れており、有名な「流れ橋」がありました。
上津屋里垣内にある石田神社は、里・浜・東(木津川対岸城陽市)の三集落の氏神で牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)と称し、明治になって石田神社と改称した。祭神は素戔嗚神で牛頭天王と同体で、当地が度々木津川の水害に見舞われたためか、疫病に対する守護神として信仰された。石田神社に伝わる「天王神社記」によると、起源は702年(大宝2年)隣村内里の山中に現れた素戔嗚神を上津屋の地に祀ったことに始まるという。1180年(文治4年)源頼朝により神事料を寄進された。その後「元弘の乱」で笠置山参陣に楠木正成が石田神社に立ち寄り願文を奉納したと記されている。鳥居東の神輿蔵横に立つ十三の石塔は、その形状から南北朝時代のものという。近年社殿から発見された棟札によると、1558年(永禄元年)社殿造営の後定期的に檜皮葺の葺き替え修理が行われていた。現在の本殿は1851年(嘉永4年)の造営になり、神社に残る古文書や浜津屋の伊佐家文書からも社殿普請や運営等むの様子がうかがえる。他には庄屋伊佐政微が175年(明和2年)奉納した算額(和算問題を図入りで示す)があり、京都府で八坂神社に次ぐ古さをもつ。
鳥居をくぐって左手に「手水舎」があって、正面に「本殿」がありました。御祭神は、建速須佐之雄命(たてはやすさのおのみこと)でした。
正面から本殿が見えないので、左に回って見ました。その奥には「若宮神社」があって、「天之忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)」「活津日子根命(いくつひこねのみこと)」「天之菩日命(あめのほひのみこと)」「熊野久須日命(くまののくすびこのみこと)」「天津日子根命(あまつひこねのみこと)」「市寸嶋毘賣命(いちきしまひめのみこと)」「田露毘古命(たつゆひこのみこと)」「於岐津毘根命(おきつひねのみこと)」が祀られていました。
本殿の右に回り込んで正面に出ました。そして参道を鳥居の方向に戻ると、次に「天照皇大神伏拝」がありました。こちらが南東の方向に向いていたら伊勢神宮がありますが、どうも南側に向いてるようですが?。
その向かい・・・北側には「大神宮社」があって、御祭神は、天照皇大御神と書いてありました。
再び参道の南側を見ると、「香取神宮」がありました。御祭神は健甕槌命(たけみかづちのみこと)が祀られていました。
「社務所」がありましたが、どうも常駐はされてないように思えました。連絡先が京田辺市にある棚倉孫(たなくらひこ)神社でしたね。
正面の鳥居の前には「神輿蔵」があって、その前には「十三の石塔」がありました。その形状から南北朝時代のものと伝わります。
石田神社の前に観光案内図があったので、それを見ると時代劇でよく使われる「流れ橋」が、この近くにあることを知り行って見ることにしました。
石田神社から直ぐの所に木津川が流れていて、最初に堤防を登ります。その堤防上から「流れ橋」を撮りました。
堤防を降り、「流れ橋(上津屋橋)」の入口までやって来ました。向こう岸まで行くつもりはありませんが途中まで行ってみます。
橋を渡り始めて、1/3ぐらい来たところで振り向くと軽トラックがこちらに向かってきます。まさか、車が・・・?!。
車は来なかったです。自転車は降りて押すことになってますが、乗ったままで渡る人、降りて押す人いろいろでしたね。でも、柵が無いので危ない乗ったままは危ないと思います。
木津川沿いには茶畑もあったりして、流れ橋は予想していた以上に丈夫だなぁ・・・と思いました。木津川の水位も低いので、流されるなんて想像できないですね。
10時5分頃に石田神社に止めていた車に乗り込んで出発しました。次の目的地は観光案内図の左下に載っていた神社です。ただこれを見て決めた訳ではありません。当初の予定通りです。
【石田神社】
【流れ橋】
こちらの鳥居は、東に向いてます。その東には木津川が流れており、有名な「流れ橋」がありました。
上津屋里垣内にある石田神社は、里・浜・東(木津川対岸城陽市)の三集落の氏神で牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)と称し、明治になって石田神社と改称した。祭神は素戔嗚神で牛頭天王と同体で、当地が度々木津川の水害に見舞われたためか、疫病に対する守護神として信仰された。石田神社に伝わる「天王神社記」によると、起源は702年(大宝2年)隣村内里の山中に現れた素戔嗚神を上津屋の地に祀ったことに始まるという。1180年(文治4年)源頼朝により神事料を寄進された。その後「元弘の乱」で笠置山参陣に楠木正成が石田神社に立ち寄り願文を奉納したと記されている。鳥居東の神輿蔵横に立つ十三の石塔は、その形状から南北朝時代のものという。近年社殿から発見された棟札によると、1558年(永禄元年)社殿造営の後定期的に檜皮葺の葺き替え修理が行われていた。現在の本殿は1851年(嘉永4年)の造営になり、神社に残る古文書や浜津屋の伊佐家文書からも社殿普請や運営等むの様子がうかがえる。他には庄屋伊佐政微が175年(明和2年)奉納した算額(和算問題を図入りで示す)があり、京都府で八坂神社に次ぐ古さをもつ。
鳥居をくぐって左手に「手水舎」があって、正面に「本殿」がありました。御祭神は、建速須佐之雄命(たてはやすさのおのみこと)でした。
正面から本殿が見えないので、左に回って見ました。その奥には「若宮神社」があって、「天之忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)」「活津日子根命(いくつひこねのみこと)」「天之菩日命(あめのほひのみこと)」「熊野久須日命(くまののくすびこのみこと)」「天津日子根命(あまつひこねのみこと)」「市寸嶋毘賣命(いちきしまひめのみこと)」「田露毘古命(たつゆひこのみこと)」「於岐津毘根命(おきつひねのみこと)」が祀られていました。
本殿の右に回り込んで正面に出ました。そして参道を鳥居の方向に戻ると、次に「天照皇大神伏拝」がありました。こちらが南東の方向に向いていたら伊勢神宮がありますが、どうも南側に向いてるようですが?。
その向かい・・・北側には「大神宮社」があって、御祭神は、天照皇大御神と書いてありました。
再び参道の南側を見ると、「香取神宮」がありました。御祭神は健甕槌命(たけみかづちのみこと)が祀られていました。
「社務所」がありましたが、どうも常駐はされてないように思えました。連絡先が京田辺市にある棚倉孫(たなくらひこ)神社でしたね。
正面の鳥居の前には「神輿蔵」があって、その前には「十三の石塔」がありました。その形状から南北朝時代のものと伝わります。
石田神社の前に観光案内図があったので、それを見ると時代劇でよく使われる「流れ橋」が、この近くにあることを知り行って見ることにしました。
石田神社から直ぐの所に木津川が流れていて、最初に堤防を登ります。その堤防上から「流れ橋」を撮りました。
堤防を降り、「流れ橋(上津屋橋)」の入口までやって来ました。向こう岸まで行くつもりはありませんが途中まで行ってみます。
橋を渡り始めて、1/3ぐらい来たところで振り向くと軽トラックがこちらに向かってきます。まさか、車が・・・?!。
車は来なかったです。自転車は降りて押すことになってますが、乗ったままで渡る人、降りて押す人いろいろでしたね。でも、柵が無いので危ない乗ったままは危ないと思います。
木津川沿いには茶畑もあったりして、流れ橋は予想していた以上に丈夫だなぁ・・・と思いました。木津川の水位も低いので、流されるなんて想像できないですね。
10時5分頃に石田神社に止めていた車に乗り込んで出発しました。次の目的地は観光案内図の左下に載っていた神社です。ただこれを見て決めた訳ではありません。当初の予定通りです。
【石田神社】
【流れ橋】
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