京都府八幡市内里内に鎮座する式内社 内神社へ

10時5分頃に石田神社を出て、ほぼ東に進みます。目的地はナビに入れたので、ナビの誘導通りに進むと、いつのまにか到着してました。同じ京都府八幡市の内里に鎮座している内神社に10時12分に着きました。

CIMG6577.jpg着いたのは、東向きの鳥居前でした。見渡せば駐車場が無かったので、境内に止めました。

CIMG6579.jpg東鳥居」を入って直ぐの右手には「社務所」があります。見た所、留守だと分かったので呼鈴は押してません。

CIMG6580.jpgCIMG6581.jpgCIMG6582.jpg鳥居の先に、「狛犬」が鎮座、「手水舎」もありましたが水はありません。それと、前方の本殿が横に向いているよう・・・です。

先にある本殿は南向きに建っていました。そして南を見ると鳥居があったので、こちらが正門なんでしょう。それで、いったん外に出てみることに。

CIMG6585.jpgCIMG6587.jpgCIMG6586.jpgCIMG6591.jpgCIMG6584.jpg南側は水田が広がっています。「南鳥居」を入って右手に「手水舎」が、こちらには水が流れています。ただ柄杓は無いですね。

CIMG6593.jpgCIMG6594.jpgCIMG6583.jpg南向きの「本殿」は一間社流造、屋根は銅板葺で、2002年(平成14年)の造営。御祭神は、山城内臣(やましろのうちのおみ)、味師内宿禰(うましうちのすくね)です。

社伝では、山城内臣の死後に祀ったのが創建とされる。相殿に祀られる味師内宿禰は、山城内臣の祖神として後に合祀されたと考えられている。山城内臣の詳細は不明で、人名ではなく氏族名とも考えられ、『新撰姓氏録』には「大和国 内臣 孝元天皇皇子彦太忍信命之後也」という氏族としての内臣の記載がある。927年(延長5年)成立の『延喜式』神名帳では山城国綴喜郡に「内神社二座」と記載され、式内社に列している。中世には「春日宗像神社」と称されていた。『神社明細帳』によると、室町時代に大永の戦乱に遭い、天正年間に現在地に遷座されたという。旧社地は当社南東にあり、現在も「内里古宮」という字として残っている。2001年(平成13年)10月から2002年(平成14年)9月まで「内里区造営事業」として、現在の本殿及び境内が整備された。

この内神社では、境内に由緒が書かれてません。また、社務所にも置いて無かったので、ウキペディアの記事を参照しました。次に末社を見ていきます。

CIMG6589.jpgCIMG6590.jpg「南鳥居」を入った左側(西側)には児童公園があって、さらに奥には「稲荷神社」がありました。

CIMG6595.jpgCIMG6596.jpgCIMG6597.jpg本殿の左側(西側)には「神輿庫」があって、さらに奥に進むと立派な社殿がありました。それは・・・?。

CIMG6599.jpg本殿の左側に「旧本殿」が移築されています。京都府登録有形文化財に登録。2001年(平成13年)10月から2002年(平成14年)9月まで「内里区造営事業」として、現在の本殿及び境内が整備された際、1743年(寛保3年)の墨書銘が発見され、ある程度の建築年代特定がなされています。

CIMG6601.jpg境内の北西角に「男山八幡宮 遙拝所」がありました。ここから約5㌔北西の方向に「石清水八幡宮」はあります。

CIMG6603.jpgCIMG6604.jpg本殿」を時計回りで正面に出てきました。後ろから横から見ると、銅板葺きの一間社流造りが分かります。

CIMG6605.jpgCIMG6606.jpg最初に入った「東鳥居」に戻る左手(北側)には池があって、そこの島には「嚴島神社」がありました。御祭神は市杵島姫命でしょう。

CIMG6607.jpgCIMG6608.jpgCIMG6610.jpgその嚴島神社の向かいに移動して、こちらは「奇神社」がありました。御祭神は、少彦名神(すくなびこなのかみ)でした。

CIMG6609.jpgその横には「天照皇大神宮遥拝所」が南に向いて建っています。伊勢神宮に向いているのでしょう。

ここから東鳥居前に止めていた車に戻り、10時20分頃に出て行きました。次は京都府から少しばかり大阪府に入るつもりです。

【内神社】

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