後鳥羽天皇とその御子を祀る水無瀬神宮へ

10時20分頃に京都府八幡市の内神社を出て東に進むと国道1号線(京阪国道)に入り南下します。途中、八幡一ノ坪の交差点に入るので、そこを右折し府道735号線に入り八幡市内をほぼ北上します。途中府道22号線(八幡木津線)乗り換えると、以前訪問したことがる「単伝庵(らくがき寺)」の前を通りました。そして「木津川御幸橋」を渡ると、春には桜が咲き誇る「背割堤」を横目で見ます。以前、桜が満開時に来ましたが、桜が咲いていない時期に来たのは初めてで、桜が無いとガラガラなんですね。そして「淀川御幸橋(宇治川)」を渡り、次に桂川に出ますが橋が無いので、しばらく府道13号線を北上します。そして納所の交差点を左折しますが、京都競馬場近くにある交差点のためガードマンさんが多数交通整理をされています。それで、この近くに「妙教寺」があって、春の特別公開時に行ったことを思い出しました。その時は歩いて納所の交差点を渡ったんですが懐かしいですね。左折すると府道204号線に入り直ぐに「宮前橋」を渡って桂川を越えます。ほどなく直進し、東海道新幹線や名神高速道路の高架下を通ると、次に国道171号線でるので、そこを左折し大阪方面に入ります。171号線は少し渋滞してましたが、江川の交差点を右折すると、ほどなくして目的地に着きました。

淀川の西岸、大阪府と京都府の府境に、後鳥羽天皇らを祀る水無瀬神宮に11時頃に着きました。ここは駐車場(無料)も広く、車も多数止まっており、参拝者も非常に多かったです。

CIMG6611.jpgCIMG6638.jpg正面には石造りの「神明鳥居」があって、この向かって右側に広い駐車場があります。ただ参拝者ではない方が多いような・・・?。

両手に持ちきれないほどのペットボトルを持って、多くの方が向かわれます。答えは境内に入ったら分かりました

CIMG6613.jpgCIMG6630.jpg神明鳥居の先には「神門」があって、桃山時代の造営で、薬医門造りとなっています。

CIMG6614.jpg私は気づかなかったんですが、「石川五右衛門の手形」が残っているとか。神宝の太刀を盗もうとして、ここまでやって来ましたが神威に打たれ一歩も足が出ず立ち去ったとき残したとか。

水無瀬神宮は、第82代・後鳥羽天皇とその御子二柱を祀る社です。承久の変で敗れ隠岐に配流され、1239年(延応元年)に同地で崩御した上皇を偲び、離宮だった水無瀬殿に御影堂を建てたのが起源とされています。

CIMG6615.jpgCIMG6616.jpgCIMG6621.jpgCIMG6623.jpgCIMG6622.jpg御祭神は、第82代・後鳥羽天皇、第83代・土御門天皇、第84代・順徳天皇の三柱です。

後鳥羽天皇は、鎌倉時代の1221年(承久3年)「承久の乱」に敗北したため隠岐の島に配流され、1239年(延応元年)に同地で崩御。後鳥羽天皇の第一皇子の土御門天皇は、土佐、阿波に流さ1231年(寛喜3年)10月に崩御。後鳥羽天皇の第三皇子の順徳天皇は佐渡島へ配流となり、1242年(仁治3年)に崩御。1240年(仁治元年)に創建された水無瀬神宮は、当初「法華堂」と称し、仏式で慰霊していたが1873年(明治6年)に神式に宗旨を替え土御門天皇と順徳天皇を合祀し三柱の社に改めました。

境内は初詣の参拝者も多く居ましたが、それよりここの手水舎に大行列が出来ています。初めて来たので何事かと思いましたが、見ていると大体分かりました。その行列の人たちは、皆さんペットボトルやポリタンクを持参されています。ここの神水を汲みに来られているようです。ここから歩いて15分ぐらいの所に「サントリー 山崎蒸溜所」があります。山崎の名水で有名ですが、ここでも名水が汲めるのでしょう、次回は私もペットボトルを持参してきます

chouzu1-1.jpgkikusui25.jpgHPでは1月7日まで書いてありましたが、この日も手水には菊水がありました。綺麗でしたね、でも行列に割り込みたくないので見てるだけ・・・でした

この湧き出ている「離宮の水」は全国名水百選として大阪府下唯一つ環境庁より選ばれています。

CIMG6625.jpg授与所」は空いてました。御朱印をお願いしたら書いていただき、由緒書きも貰えました

本殿前が空くのを待っていましたが、今日は無理そうですね。最後に、境内の南側にあった境内社を見ています。

CIMG6617.jpg最初は「春日神社」で、御祭神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)、経津主命(ふつぬしのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、比売神(ひめのがみ)が祀られています。

CIMG6618.jpg次は「柿本(かきのもと)神社」で、御祭神は柿本朝臣人麻呂(あきのもとあさんひとまろ)が祀られています。飛鳥時代の歌人ですね。

CIMG6619.jpg星阪(ほっさか)神社」で、御祭神は星阪但馬守正茂命(ほっさたじまのかみまさしげのみこと)が祀られています。星阪正茂は子能茂とともに後鳥羽上皇に仕え、能茂は遺骨を洛北大原の法華堂に納め、出家して西蓮と号し上皇の冥福を祈って諸国を行脚したそうです。

CIMG6620.jpg最後が「稲荷神社」で、御祭神が倉稲魂命(うかのみたまのみこと)が祀られています。

CIMG6624.jpgここを出て行く前に、境内の中央・・・本殿の前にあった「都忘れの菊」を見ました。

順徳天皇は「承久の変」にて佐渡に配流されたが、水無瀬の里をこよなく愛され、殊の外菊花を好まれた父君後鳥羽上皇を偲び行在所に咲く可憐な野菊を「都忘れの菊」と命名し佐渡より移植したものです。

CIMG6626.jpg「拝殿・幣殿・本殿」が縦に連なる建物で、奥の本殿は京都御所の内侍所でした。江戸時代初期の寛永年間(1624~1645)の移築と伝わります。

kyakuden1.jpgCIMG6627.jpg安土桃山時代末期に豊臣秀吉が寄進したとされる「客殿」は、国の重要文化財に指定されています。水無瀬神宮では他に、「茶室」も指定されていますが、予約拝観でした。

拝殿に向かって左側に「客殿」(重文)あります。豊臣秀吉が家臣の、福島正則に造営奉行を命じ寄進したと伝えられています。桁行六間、梁間五間の入母屋造、桟瓦葺。全体の形式手法は書院形式で、規模、形式ともに標準的で比較的簡素な造りになっています。

CIMG6631.jpgCIMG6634.jpg駐車場に戻る途中、神明鳥居の側に「水無瀬駒発祥の地」と書かれてた石碑がありました。水無瀬駒・・・知らないですね。

水無瀬駒とは、能筆家で知られる公家の水無瀬家が4代にわたり作成してきた将棋の駒のことをさします。現在でも多くの将棋ファンに愛される「水無瀬書」と呼ばれる、ゆったりとした風格のある字体が特徴的で、一駒一駒、墨または漆で筆書きされています。そして、水無瀬家4代の中でも特に美しい文字を書いたとされるのが水無瀬兼成(水無瀬神宮の13代目の宮司)です。

時の天皇より、「駒に字を書いてよろし」との特別な許可を賜り、「将棋駒の銘は水無瀬家の筆をもって宝とす、この筆跡の駒、免許なきもの弄すべからず」との江戸時代の言葉が示すように、後陽成天皇や豊臣秀次、足利義昭やなどに納められ、「水無瀬駒」は当時の権力者にとって憧れのようなものでした。実際現在においても水無瀬駒は美術的にも歴史資料的にも価値のあるものとされています。

CIMG6639.jpg11時12分に、駐車場ら戻り出て行きました。ここの駐車場は広いので観光バスも止められそうですね。ただ道幅がそんなに広くはありませんが・・・。

ここは、混雑していたので時間が取れれば再訪したいです。「離宮の水」も飲んでみたいしね。ここ大阪府三島郡島本町は、大阪府ですが、市外局番は(075)で、NTT収容局(京都)と行政区域(大阪)が合わない所です。兵庫県尼崎市はちなみに06エリアで、ここま合わないです。ここから再び京都府に戻り、まだまだ散策は続きます。

【水無瀬神宮】

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