「霧の寺」として、じわり人気を広げている獨鈷抛山 千手寺へ
谷性寺を出て、次の目的地をナビに入れて出発すると直ぐに「目的地周辺に着きました」と案内されます。左手の山中に次の目的地があるのは事前に調べて知ってましたが、どうも友人のナビが古いので道案内が出来ないようです。その山下まで行き近所で散歩されている人に友人が聞いてくれて、山の南側ではなく東側からの登り口がありました。
ここから登りが始まります。それも道が狭い・・・離合はむりでしょうね。友人はスイスイ登って行きますが、途中で歩いて登られている人も居ました。

12時26分に到着しました。ここも明智光秀ゆかりの地として来て見た次第です。
ここは獨鈷抛山(とこなげさん)千手寺といって、八木城を拠点とする内藤氏との戦で、明智光秀がここを拠点としたと言われ、1577年(天正7年)6月に兵火にあって寺院の大半が破損したと伝わる。境内の上には砦跡があるとされる。
ここは、2020年(令和2年)9月27日付けの京都新聞で紹介されたこともあって本日来て見た次第です。
諸堂を見るのは後回しにして、急いで「山門」までやって来ました。先ず前提に、亀岡市は良く冷えた朝には間違い無く霧が発生するほど霧の町として有名です。それでは京都新聞の記事を引用します。
千手寺では、雲海から日の出「霧の寺」として、近年眺望が人気です。ご住職自ら山林を整備され、山門では「額縁」の景色も楽しめます。この寺からは南東が望める筈ですが・・・さて?。
「山門」から額縁のように見える景色です。地域住民の要望で電柱も撤去されたそうですね、綺麗に亀岡盆地が見えました。

この時、12時30分頃だったので霧はありません・・・と言うより、今日は亀岡盆地には霧は発生しなかったようです。
ここからは山門の瓦屋根や山麓に広がる鹿谷の水田が望め、遠くは篠町や老ノ坂、京都縦貫自動車道まで見渡せました。


こちらは「鐘楼門」です。入母屋造り、淺瓦葺、一間一戸の楼門形式となっています。山門の両側には阿吽二躰の仁王像を安置。上層には梵鐘を吊し、鐘楼堂を兼ねた豪壮な造りの鐘楼門です。
元々愛宕大権現・白雲寺の山門であったが、明治新政府の神仏分離政策により愛宕大権現は愛宕神社となり、仏様はすべて離山、あるいは破却された。この鐘楼門は1870年(明治3年)に千手寺へ移築された。現在吊されたてる梵鐘は、戦時の供出を免れ、仁王像は江戸期の愛宕山白雲寺の建造物として残れた、数少ない貴重な文化財です。
そして石段したまで降りて来ました。車は左側から登りましたが、この風景を撮りたくて私だけ降りて来た次第です
。


降りて来ても亀岡盆地は見えますが、イマイチだったので再び石段を上がって撮りました。多分、最近は霧が出ることが多いので多くの人が早朝から来られるのでしょう
。
寺伝によると807年(大同2年)弘法大師空海により開創。遣唐使として唐に渡り、密教の奥義を伝授された大師が帰国に際し、本国に向かって「独鈷(とっこ)」を天に投げたところ白雲を引いて飛び去ったといいます。帰国後その行方を奈良の 春日神社にうかがい「丹波国佐伯の庄山内村の北峰、娑婆山の松の枝にかかっている」との神託により、白鹿に導かれてこの地に来られたということです。以来この地を「鹿谷(ろくや)」山号を「獨鈷抛山(とこなげさん)」と呼ぶようになった。大師は香木を用いて、十一面千手観音を刻み、安置したことで「千手寺(せんじゅじ)」というよ うになりました。その後、当寺は廃寺となりましたが、1403年(応永10年)鎌倉建長寺の止菴和尚が復興し真言宗から臨済宗に移りました。その後、1577年(天正5年)にも兵火にかかり、妙心寺の禅岩和尚が 再興して妙心寺派に属するようになりました。なお、戦国時代に八木城を拠点とする内藤氏との戦いで、明智光秀がここを拠点としたと言われ、1579年(天正7年)6月に兵火に遭って伽藍の多くが破損したと伝わり、境内の上には砦跡があるとされている。

千手寺の見解では、「八木城を攻める際に明智光秀が当寺を拠点にしたという情報が散見されますが、当寺には内藤側の陣所になったと伝わっています。山中には砦跡があるという情報も散見されますが、当寺にはそのような言い伝えは残っておりません」でした
。


再び楼門から綺麗な眺望を見てから境内に入りました。今度は伽藍を見ていきます。最初は「虚空蔵堂」でした。

次が「薬師堂」で、ここも何も書いて無いので詳細は分かりません
。お薬師さんでも祀られてるのかなぁ?。



次が本堂と思いきや「観音堂」でした。堂内には入れませんが内陣は覗き見られました。1921年(大正10年)の建立。内陣には十一面千手観音菩薩坐像が祀られています。

次が修復工事がほぼ終わっているような「開基堂(弘法堂)」でした。先の観音堂が完成するまで、ご本尊の十一面千手観音菩薩坐像は、こちらで祀られていたようです。

次が書院のようでしたが、案内では「本堂」でした。でわ、堂内の様子は?と気になりますね
。
下から歩いて登られていた方も到着されたようですね、盛んに写真を撮られていました
。
12時39分に車に戻り、ここを出て行きました。帰りも狭い山道を下って行きますが1台すれ違いました。
下に降りたときに時計を見ると12時45分でした。約5分ぐらいかかるようです。次もナビをセットし、そちらに向かいました。
【獨鈷抛山 千手寺】




ここは獨鈷抛山(とこなげさん)千手寺といって、八木城を拠点とする内藤氏との戦で、明智光秀がここを拠点としたと言われ、1577年(天正7年)6月に兵火にあって寺院の大半が破損したと伝わる。境内の上には砦跡があるとされる。


千手寺では、雲海から日の出「霧の寺」として、近年眺望が人気です。ご住職自ら山林を整備され、山門では「額縁」の景色も楽しめます。この寺からは南東が望める筈ですが・・・さて?。



ここからは山門の瓦屋根や山麓に広がる鹿谷の水田が望め、遠くは篠町や老ノ坂、京都縦貫自動車道まで見渡せました。



元々愛宕大権現・白雲寺の山門であったが、明治新政府の神仏分離政策により愛宕大権現は愛宕神社となり、仏様はすべて離山、あるいは破却された。この鐘楼門は1870年(明治3年)に千手寺へ移築された。現在吊されたてる梵鐘は、戦時の供出を免れ、仁王像は江戸期の愛宕山白雲寺の建造物として残れた、数少ない貴重な文化財です。






寺伝によると807年(大同2年)弘法大師空海により開創。遣唐使として唐に渡り、密教の奥義を伝授された大師が帰国に際し、本国に向かって「独鈷(とっこ)」を天に投げたところ白雲を引いて飛び去ったといいます。帰国後その行方を奈良の 春日神社にうかがい「丹波国佐伯の庄山内村の北峰、娑婆山の松の枝にかかっている」との神託により、白鹿に導かれてこの地に来られたということです。以来この地を「鹿谷(ろくや)」山号を「獨鈷抛山(とこなげさん)」と呼ぶようになった。大師は香木を用いて、十一面千手観音を刻み、安置したことで「千手寺(せんじゅじ)」というよ うになりました。その後、当寺は廃寺となりましたが、1403年(応永10年)鎌倉建長寺の止菴和尚が復興し真言宗から臨済宗に移りました。その後、1577年(天正5年)にも兵火にかかり、妙心寺の禅岩和尚が 再興して妙心寺派に属するようになりました。なお、戦国時代に八木城を拠点とする内藤氏との戦いで、明智光秀がここを拠点としたと言われ、1579年(天正7年)6月に兵火に遭って伽藍の多くが破損したと伝わり、境内の上には砦跡があるとされている。





















下に降りたときに時計を見ると12時45分でした。約5分ぐらいかかるようです。次もナビをセットし、そちらに向かいました。
【獨鈷抛山 千手寺】
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