篠町山本村の領主宇野氏の居城跡に建つ如意寺(山本城跡)へ
神蔵寺を出て国道9号線に入り。途中「銀座 に志かわ 亀岡店」に寄り、再び国道9号線に戻って東に進み「野条」の交差点を左折します。そこかせほぼ北に進み、JR馬堀駅の前を通ってからは住宅街に入り、ナビの誘導により鵜ノ川を渡ると登りに入り、道幅も狭くなった突き当たりに、この日最後の訪問地である「如意寺」に13時45分着きました。
駐車場は、車2台は止められます。この上にも駐車場ありましたが、如意寺では無かったように思います。
山本城跡(如意寺)は、篠町山本村を拠点とする領主宇野氏の居城である。 宇野豊後守は、明智光秀が丹波進攻を行う際に京都の案内人として桂川の対岸まで光秀軍を迎えに行ったと伝わる。明智光秀が信長への謀反を企てた際、宇野豊後守秀清に助力を求められたが、逆に光秀を諫めたため、その後、秀清は刺客の明智孫十郎の手により暗殺されたと伝わる。
ここに山本城があった面影は無いようです。取り急ぎ石段を上がって寺の中に入ります。
石段を上がると「山本城」と書かれた石が置いてあります。山本城は、「旧事日記」によれば天正年間(1573-1592)に木村駿河守が拠ったとあるが、明智光秀軍に攻められ落城したと伝わります。
今日は、「建国記念日」のため国旗が掲揚されています。そのためか、どうも堂内から人の声が聞こえてきます。
如意寺は、山号を宝珠山と称し臨済宗天龍寺派に属し開山は1396年(応永3年)特賜仏日常光国師(ぶつにちじょうこうこくし)(空谷明応・くうこく みょうおう)により篠の地に如意庵という名で建てにりたと伝えられる。その後、1564年(永禄7年)開基・宇野豊後守清秀が、亡き父である秀治の菩提供養のため土地を寄進し篠から山本に移したと伝えられ、1582年(天正10年)には宝珠山如意庵と名も改められた。現在の堂宇は、1828年(文政11年)当寺十二世琢道和尚により再建されたものである。当寺門前の薬師堂に安置の薬師如来像は、もと観音芝の地に安置されていたが、後に山本の東栄寺に祀られ1875年(明治8年)如意寺に授けられたもので「北向薬師」と呼ばれている。
ここまで来たので「山門」から入ってみます。正面は「庫裏」でしょうか、ここから僧侶の方が出て来られたのでご挨拶はさせてもらいました。
ご住職さんでしょうか、忙しいそうに行き来されてるので、御朱印の有無は聞きそびれました。ただ、見た所、書き置きも何も置いて無いのでのでね。
こちは「本堂」に上がる「玄関」でしょうか?。山門から聞こえてきた声は、ここからでした。
本堂では集まりがあるようで、数名の人の声が聞こえてきます。それで堂内の見学は諦めました。調べると、内陣中央に、秘仏の薬師如来坐像が、左右には新しい日光月光菩薩像が祀られているようです。
「本堂前庭」も綺麗にされており、山門から境内に入れただけでも良かったです。ただ、かつての城跡の雰囲気は無かったですね。
ここで如意寺を出て、車に戻らずに少し登って見ました。そこには、明智光秀が本能寺へ向かい際の、進軍ルートが残されていたからです。
1582年(天正10年)6月1日夜。中国攻めをしている羽柴秀吉に援軍するためと称し、光秀は軍勢を率いて居城の「亀山城(京都府亀岡市)」を出立します。ルートは、現在の国道9号とほぼ平行する山陰道を進軍したとされる説。やがて軍勢は現在の京都市と亀岡市の境に位置する老ノ坂峠を越え、沓掛にさしかかります。右へ行けば中国方面につながる西国街道の山崎へ、左へ行けば京という分かれ道。本能寺への道は、この山陰道一本だったのだろうか?。
この如意寺から奥に、明智軍が本能寺に向かった時に通ったとされる「唐櫃越(からとごえ)」の入口がありました。
明智光秀が本能寺に織田信長を襲うには、織田信長には絶対に知られないようにすることです。そのため、手勢を3つのグループに分けて京都を目指したといいます。明智光秀本隊は、一番北の「明智越(あけちごえ)」と呼ばれる亀岡市保津町から山を越えるルートで、「本能寺」を、もう2隊は老ノ坂の手前、王子から「唐櫃越(からとごえ)」を通って嵐山から松尾に出て洛中に入り「本能寺」を目指し、もう1隊は、「老ノ坂峠」を越えて桂川を渡り洛中に入って「本能寺」を目指したと伝わります。
これは先般訪れた「麒麟がくる京都亀岡大河ドラマ館」での、”本能寺の変”出陣の道のりを航空写真を利用して紹介されていました。ここでは2ルートでしたけど。
今日は、「唐櫃越(からとごえ)」の入口だけ見ました。と言っても、この先、日を改めて越える予定はありませんが。この狭い山道を大勢の軍隊が通ったのだろうか? 信長に知られてしまったら謀反の計画も失敗に終わるので、大勢の軍隊をどうして本能寺まで進軍できたのか謎ですね。
13時55分に、車に戻り出て行きました。これで亀岡市における光秀ゆかりの地はすべて回ったことになります。後は兵庫県の丹波市だけです。
帰りには2018年(平成30年)に訪問した「篠村八幡宮」と「王子神社」の前を通りました。「篠村八幡宮」では、本能寺に向かう光秀が必勝祈願したとか、また、「王子神社」は、老ノ坂から別隊がここを通って「唐櫃越(からとごえ)」から本能寺に向かった訳です。そうこう思いながら国道9号線から老ノ坂を越えて京都に帰りました。
【如意寺】
駐車場は、車2台は止められます。この上にも駐車場ありましたが、如意寺では無かったように思います。
山本城跡(如意寺)は、篠町山本村を拠点とする領主宇野氏の居城である。 宇野豊後守は、明智光秀が丹波進攻を行う際に京都の案内人として桂川の対岸まで光秀軍を迎えに行ったと伝わる。明智光秀が信長への謀反を企てた際、宇野豊後守秀清に助力を求められたが、逆に光秀を諫めたため、その後、秀清は刺客の明智孫十郎の手により暗殺されたと伝わる。
ここに山本城があった面影は無いようです。取り急ぎ石段を上がって寺の中に入ります。
石段を上がると「山本城」と書かれた石が置いてあります。山本城は、「旧事日記」によれば天正年間(1573-1592)に木村駿河守が拠ったとあるが、明智光秀軍に攻められ落城したと伝わります。
今日は、「建国記念日」のため国旗が掲揚されています。そのためか、どうも堂内から人の声が聞こえてきます。
如意寺は、山号を宝珠山と称し臨済宗天龍寺派に属し開山は1396年(応永3年)特賜仏日常光国師(ぶつにちじょうこうこくし)(空谷明応・くうこく みょうおう)により篠の地に如意庵という名で建てにりたと伝えられる。その後、1564年(永禄7年)開基・宇野豊後守清秀が、亡き父である秀治の菩提供養のため土地を寄進し篠から山本に移したと伝えられ、1582年(天正10年)には宝珠山如意庵と名も改められた。現在の堂宇は、1828年(文政11年)当寺十二世琢道和尚により再建されたものである。当寺門前の薬師堂に安置の薬師如来像は、もと観音芝の地に安置されていたが、後に山本の東栄寺に祀られ1875年(明治8年)如意寺に授けられたもので「北向薬師」と呼ばれている。
ここまで来たので「山門」から入ってみます。正面は「庫裏」でしょうか、ここから僧侶の方が出て来られたのでご挨拶はさせてもらいました。
ご住職さんでしょうか、忙しいそうに行き来されてるので、御朱印の有無は聞きそびれました。ただ、見た所、書き置きも何も置いて無いのでのでね。
こちは「本堂」に上がる「玄関」でしょうか?。山門から聞こえてきた声は、ここからでした。
本堂では集まりがあるようで、数名の人の声が聞こえてきます。それで堂内の見学は諦めました。調べると、内陣中央に、秘仏の薬師如来坐像が、左右には新しい日光月光菩薩像が祀られているようです。
「本堂前庭」も綺麗にされており、山門から境内に入れただけでも良かったです。ただ、かつての城跡の雰囲気は無かったですね。
ここで如意寺を出て、車に戻らずに少し登って見ました。そこには、明智光秀が本能寺へ向かい際の、進軍ルートが残されていたからです。
1582年(天正10年)6月1日夜。中国攻めをしている羽柴秀吉に援軍するためと称し、光秀は軍勢を率いて居城の「亀山城(京都府亀岡市)」を出立します。ルートは、現在の国道9号とほぼ平行する山陰道を進軍したとされる説。やがて軍勢は現在の京都市と亀岡市の境に位置する老ノ坂峠を越え、沓掛にさしかかります。右へ行けば中国方面につながる西国街道の山崎へ、左へ行けば京という分かれ道。本能寺への道は、この山陰道一本だったのだろうか?。
この如意寺から奥に、明智軍が本能寺に向かった時に通ったとされる「唐櫃越(からとごえ)」の入口がありました。
明智光秀が本能寺に織田信長を襲うには、織田信長には絶対に知られないようにすることです。そのため、手勢を3つのグループに分けて京都を目指したといいます。明智光秀本隊は、一番北の「明智越(あけちごえ)」と呼ばれる亀岡市保津町から山を越えるルートで、「本能寺」を、もう2隊は老ノ坂の手前、王子から「唐櫃越(からとごえ)」を通って嵐山から松尾に出て洛中に入り「本能寺」を目指し、もう1隊は、「老ノ坂峠」を越えて桂川を渡り洛中に入って「本能寺」を目指したと伝わります。
これは先般訪れた「麒麟がくる京都亀岡大河ドラマ館」での、”本能寺の変”出陣の道のりを航空写真を利用して紹介されていました。ここでは2ルートでしたけど。
今日は、「唐櫃越(からとごえ)」の入口だけ見ました。と言っても、この先、日を改めて越える予定はありませんが。この狭い山道を大勢の軍隊が通ったのだろうか? 信長に知られてしまったら謀反の計画も失敗に終わるので、大勢の軍隊をどうして本能寺まで進軍できたのか謎ですね。
13時55分に、車に戻り出て行きました。これで亀岡市における光秀ゆかりの地はすべて回ったことになります。後は兵庫県の丹波市だけです。
帰りには2018年(平成30年)に訪問した「篠村八幡宮」と「王子神社」の前を通りました。「篠村八幡宮」では、本能寺に向かう光秀が必勝祈願したとか、また、「王子神社」は、老ノ坂から別隊がここを通って「唐櫃越(からとごえ)」から本能寺に向かった訳です。そうこう思いながら国道9号線から老ノ坂を越えて京都に帰りました。
【如意寺】
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