明智光秀の丹波平定の際のゆかりの地、山家城址公園へ
君尾山中腹にある光明寺を降りてきて、行きのルートを戻り目的地を目指しました。友人のナビが古いので私がスマホの位置を確認しながら誘導しますが、少し迷いましたね。
そして9時51分に着いたのが、山家城址公園で明智光秀ゆかりの城で訪れました次第です。ただ先般放送が終わったNHK大河ドラマ「麒麟がくる」のドラマ紀行では紹介されませんでしたが・・・。
城址公園内として整備された入口には、模擬復元された「城門」が建っています。そして、この前が駐車場になっており数台止められます。
江戸時代に山家地区を治めた谷氏の陣家跡が公園となっており、桜や梅、紅葉など四季折々の自然が美しく、「京都の自然200選」にも選ばれています。
ここは谷出羽守衛友(もりとも)が1582年(天正10年)豊臣秀吉より1万六千石をもって、美濃国から封じられた谷藩政中心の地です。なお、谷出羽守衛友は丹波国山家藩初代藩主で谷家が幕末まで藩主を続きました。戦国時代に明智光秀の丹波平定の際、「山家城(甲ヶ峯城)」城主・和久義国は光秀に降伏したものの、城の破却命令に応じず、追討されたとされています。「本能寺の変」の後、羽柴秀吉により山家藩主に封ぜられた谷衛友が、その麓に次の「山家城(後の山家陣屋)」を築城しました。現在は公園として整備され、模擬復元された城門の2階には資料館、正面には谷家を祀る谷霊神社、北側には空堀もあります。
模擬城門の前に鳥居があって、社号標もたっています。城門を入って前方に「谷霊神社」の社殿が建っていました。
創祀は1778年(安永7年)、御祭神は山家藩主谷氏の藩祖衛好公、初代衛友公を祀る。山家藩第7代衛秀が、藩祖衛好が三木の陣に戦死してから200年に当たり、三木の大膳廊に墓碑を建立し、谷霊神社を建立したのが始まり。
谷霊神社前から見た山家の集落です。山家にはJR山家駅がありますが、約2㌔ほどあるでしょうね。
この案内版は城門前にあったものです。地図を見れば旧城内に井戸や空堀、石垣が残っているのようで更に奥に進みます。
谷霊神社の奥に、旧藩士の大嶋某が1928年(昭和3年)11月にアメリカから帰国し、ススキが原となった旧谷藩の屋敷を見て、感慨を句に託し自ら建てた句碑です。
「狐(きつね)啼(な)く桑の畑や藩の址」(昭和3年11月旧藩 大嶋世外)
句碑からさらに奥へ進み、かつて城内にあった「古井戸」まで行きました。柵があるので、これ以上は覗けませんでしたが・・・。
この奥に、石垣と空堀が残っているようでした。ここから戻ってから、城内図を見たので知らずに戻ってきた次第です。
今日は祝日でしたが、城門2階の「資料館」は閉まってました。ここにも今流行の「御城印」があるようです。
山家城址公園の向かいに綺麗な梅が咲いているのが分かりました。気になってましたが城内を散策後に寄ってみました。
綺麗な「梅苑」でした。この時期だったら早咲きの梅が満開でしたね。事前に調べても知らなかったので良かったです。
梅苑の次に「延喜・式内 伊也神社(いやじんじゃ)」に寄りました・・・と言っても階段を登って本殿は見てませんが・・・。
祭神は、「大日霊貴尊(おおひるめむちのみこと)」「素盞鳴尊」「月夜見尊」。第10代・崇神天皇の御代、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)この地に先臨し給い、甲ケ峯麓に宮を築き祀られたのが、初で後に、伊也神社を勧請し何鹿郡延喜式十二座の一に数えられている。天正年中火災により消失その跡を御社(ごしゃ)と呼び居りしが、1810年(文化7年)10月従二位清原宣光公が願成就により現在地盤座の清地に御本殿を移転新築された社である。
ここには、もう一つ案内版が出ていて「甲ケ峯城跡」は、ここから471㍍。さらに「照福寺跡」は、116㍍先にあるようです。今日はもちろん登りません。
甲ヶ峯城は和久義国によって築かれた城です。義国は丹波に侵攻した明智光秀によって滅ぼされ、廃城となりました。
照福寺は1445年(文安2年)山家城主和久氏の菩提寺として創建されたと伝え、臨済宗妙心寺派に属している。はじめに広瀬町の甲が峯にあったが、天正の頃和久氏の没落により東山町に移転、1662年(寛文2年)領主谷衛広公から現在地に寄進造営された。
照福寺には「含勝庭」「生々苑」「真観庭」の三種類の庭園があり、1970年(昭和45年)に、国の名勝に指定されているので一度は訪問したいです。
友人とは別行動で、10時10分に車に戻ると先に乗ってました。寒いので早々に車に乗り込みここを出発しました。
【山家城址公園】
そして9時51分に着いたのが、山家城址公園で明智光秀ゆかりの城で訪れました次第です。ただ先般放送が終わったNHK大河ドラマ「麒麟がくる」のドラマ紀行では紹介されませんでしたが・・・。
城址公園内として整備された入口には、模擬復元された「城門」が建っています。そして、この前が駐車場になっており数台止められます。
江戸時代に山家地区を治めた谷氏の陣家跡が公園となっており、桜や梅、紅葉など四季折々の自然が美しく、「京都の自然200選」にも選ばれています。
ここは谷出羽守衛友(もりとも)が1582年(天正10年)豊臣秀吉より1万六千石をもって、美濃国から封じられた谷藩政中心の地です。なお、谷出羽守衛友は丹波国山家藩初代藩主で谷家が幕末まで藩主を続きました。戦国時代に明智光秀の丹波平定の際、「山家城(甲ヶ峯城)」城主・和久義国は光秀に降伏したものの、城の破却命令に応じず、追討されたとされています。「本能寺の変」の後、羽柴秀吉により山家藩主に封ぜられた谷衛友が、その麓に次の「山家城(後の山家陣屋)」を築城しました。現在は公園として整備され、模擬復元された城門の2階には資料館、正面には谷家を祀る谷霊神社、北側には空堀もあります。
模擬城門の前に鳥居があって、社号標もたっています。城門を入って前方に「谷霊神社」の社殿が建っていました。
創祀は1778年(安永7年)、御祭神は山家藩主谷氏の藩祖衛好公、初代衛友公を祀る。山家藩第7代衛秀が、藩祖衛好が三木の陣に戦死してから200年に当たり、三木の大膳廊に墓碑を建立し、谷霊神社を建立したのが始まり。
谷霊神社前から見た山家の集落です。山家にはJR山家駅がありますが、約2㌔ほどあるでしょうね。
この案内版は城門前にあったものです。地図を見れば旧城内に井戸や空堀、石垣が残っているのようで更に奥に進みます。
谷霊神社の奥に、旧藩士の大嶋某が1928年(昭和3年)11月にアメリカから帰国し、ススキが原となった旧谷藩の屋敷を見て、感慨を句に託し自ら建てた句碑です。
「狐(きつね)啼(な)く桑の畑や藩の址」(昭和3年11月旧藩 大嶋世外)
句碑からさらに奥へ進み、かつて城内にあった「古井戸」まで行きました。柵があるので、これ以上は覗けませんでしたが・・・。
この奥に、石垣と空堀が残っているようでした。ここから戻ってから、城内図を見たので知らずに戻ってきた次第です。
今日は祝日でしたが、城門2階の「資料館」は閉まってました。ここにも今流行の「御城印」があるようです。
山家城址公園の向かいに綺麗な梅が咲いているのが分かりました。気になってましたが城内を散策後に寄ってみました。
綺麗な「梅苑」でした。この時期だったら早咲きの梅が満開でしたね。事前に調べても知らなかったので良かったです。
梅苑の次に「延喜・式内 伊也神社(いやじんじゃ)」に寄りました・・・と言っても階段を登って本殿は見てませんが・・・。
祭神は、「大日霊貴尊(おおひるめむちのみこと)」「素盞鳴尊」「月夜見尊」。第10代・崇神天皇の御代、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)この地に先臨し給い、甲ケ峯麓に宮を築き祀られたのが、初で後に、伊也神社を勧請し何鹿郡延喜式十二座の一に数えられている。天正年中火災により消失その跡を御社(ごしゃ)と呼び居りしが、1810年(文化7年)10月従二位清原宣光公が願成就により現在地盤座の清地に御本殿を移転新築された社である。
ここには、もう一つ案内版が出ていて「甲ケ峯城跡」は、ここから471㍍。さらに「照福寺跡」は、116㍍先にあるようです。今日はもちろん登りません。
甲ヶ峯城は和久義国によって築かれた城です。義国は丹波に侵攻した明智光秀によって滅ぼされ、廃城となりました。
照福寺は1445年(文安2年)山家城主和久氏の菩提寺として創建されたと伝え、臨済宗妙心寺派に属している。はじめに広瀬町の甲が峯にあったが、天正の頃和久氏の没落により東山町に移転、1662年(寛文2年)領主谷衛広公から現在地に寄進造営された。
照福寺には「含勝庭」「生々苑」「真観庭」の三種類の庭園があり、1970年(昭和45年)に、国の名勝に指定されているので一度は訪問したいです。
友人とは別行動で、10時10分に車に戻ると先に乗ってました。寒いので早々に車に乗り込みここを出発しました。
【山家城址公園】
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