明智光秀丹波入りに際し、一時的に本陣となった谷性寺へ

大山祇神社を出て府道453線(大河内口八田線)を東に進み、南八田の交差点を右折し府道372号線を進み、園部町埴生の交差点から府道452号線に変わりそのまま道なりに進むと京都府亀岡市に入ってきます。するとほどなくして2017年(平成29年)5月12日に一度訪問している、谷性寺に12時2分到着です。

CIMG6867.jpgこの近くまで来ると、以前来ているのでナビは不要で私が誘導しました。ここは明智光秀ゆかりの古寺で桔梗の紋の幟が立っています。

CIMG6868.jpg今日は祝日で、NHK大河ドラマ麒麟がくる」が終わったばっかりのため、数名は来られているかなぁ・・・と。

CIMG6869.jpg山門」をくぐると正面が「本堂」です。以前来た時は、御朱印は書き置きが置いてありましたが、この日も同じでしたね。

CIMG6870.jpgこちらが明智光秀の供養のために建てられたと伝わる「首塚」です。ここに首塚があるため、別名「光秀寺」とも呼ばれています。

谷性寺は平安時代の創建となる真言宗大覚寺派に属し、清瀧山 谷性寺(せいりょうざん こくしょうじ)と称す。本尊は不動明王。天正年間(1573~1592)明智光秀は当山の不動明王を厚く崇敬し、将兵はその加護を得て「本能寺の変」を決意するや、光秀は不動明王に「一殺多生の降魔の剣を授け給え」と誓願をこらし、その高徳を得て本懐を遂げましたが、1582年(天正10年)の「山崎の戦い」で無念の最後を遂げる。明智光秀の崇敬厚い不動明王の許に墓碑を建立。従者の記しが小型石碑に見える。1855年(安政2年)明智光秀を慕う志士が光秀公の首塚を境内に残し祀られました。毎年初夏(6月~7月頃)には境内が桔梗一色に咲き誇り、人々からは「桔梗寺」とも呼ばれている。また1981年(昭和56年)の明智光秀400回忌にあたり本堂に明智光秀像を安置し、開眼供養を営まれました。1972年(昭和47年)には、日本国内最初の明智光秀公顕彰会が結成され、その善政と遺徳を偲び6月13日の命日を中心に遠忌法要が営まれる。2003年(平成15年)から近くの田畑を借り受け、約15000本の明智家の家紋である桔梗を植え込んで名実ともに「桔梗寺」の雰囲気を醸しだし多くの観光客で賑わいます。

CIMG6871.jpgCIMG6872.jpgCIMG6873.jpg
CIMG6874.jpg
CIMG6875.jpg境内の東側には、「明智門」があって、その横には光秀の供養に建てられた「七重石塔」があります。明智門と呼ばれるのは亀山城の遺構かなぁ・・・と思いましたが・・・?。

この門は明智光秀の居城があった亀山城下柳町の西願寺にあって人々から「明智門」と呼ばれる門がありました。ただ400年あまり風雪に耐えていましたが、寺の荒廃のため、1975年(昭和50年)には土塀と明智門を残すのみの状態となっていました。そこで1976年(昭和51年)10月3日に、明智光秀が丹波入りの時一度的に本陣となった谷性寺に移築されたものです。

CIMG6877.jpgCIMG6878.jpgCIMG6879.jpg境内には一組2名の方が来られてました。それで2017年(平成29年)5月12日には、くまなく散策しましたがこれで出て行くことにしました。

CIMG6881.jpgCIMG6882.jpg先客は堂内から出て来られたので、入れるのかなぁ・・・と思いましたが何も書いて無いのね

CIMG6880.jpgCIMG6883.jpgCIMG6884.jpg12時6分には駐車場まで戻って来ました。滞在時間5分ぐらいでしたね、一度来ているから良いでしょう

ここの「桔梗の里」には一度も来てません。その頃は蒸し暑いのでなかなか行けてませんが、今年は行って見ようかなぁ・・・と思いつつ次へと向かいました。ただNHK大河ドラマ「麒麟がくる」ドラマ紀行で紹介されなかったのは残念でした・・・と言うより、亀岡市そのもの、例えば亀山城とか丸岡城(余部城)とかの紹介も無かったですね、一生懸命誘致活動をされていた亀岡市は残念でした。

【谷性寺】

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック