元禄の俳人向井去来の庵跡 落柿舎へ
祇王寺を出て、お隣の滝口寺を覗いてみたら閉門されてました。久し振りに行って見たかったのに残念です。次に久しく行ってない化野念仏寺に行って見ようと思いましたが、結構な雨が降っているので止めました。雨の中、愛宕街道を下っていき、二尊院の前を通って落柿舎の前に来て見ると開門されてました。長いこと来て無いなぁ・・・と、調べると2010年(平成22年)2月4日以来でした。ただ夜間拝観では2013年(平成25年)12月に来てましたが、どちらにせよ久しぶりの訪問は間違いないです。
落柿舎は、芭蕉がその門人の中でも最も信頼を寄せていた元禄俳人向井去来(むかいきょらい)の営んだ庵であり遺跡いせきです。その閑寂な風情と去来の篤実を愛した芭蕉は、合わせて三度も来庵、とりわけ1691年(元禄4年)の初夏には長く17日間滞在し、落柿舎を拠点として嵯峨嵐山の名所名刹を巡り、その記録は名作「嵯峨日記」として遺されています。以来落柿舎は「俳諧道場」として世に聞こえ、今も風雅を愛する多くの方々に親しまれています。
お寺なら「表門」でしょう、入口には門があります。拝観時間は9時~17時ですが、緊急事態宣言下のため10時開門でした。
入庵料は300円で、以前は200円だったかと思います。たまたま10時頃に通ったから入ったからで、知りませんでした。
入ると正面が「本庵」です。開門直後だっので内部は清掃されてました。この「簔と笠」は、庵主の在宅を示すものです。
最初に見るのは「土間」で、その奥に「おくどさん」があります。ただ、この日は閉まっていたので過去の写真を使いました。
次が「玄関」です。ただ、ここから室内に・・・上がれません。来た時は、室内を清掃されていたので、写真撮るのを少し待ちました。
雨が降っているので、「居間」の縁側に座って汗を拭いました。縁側から「去来像」が見えますが、正面じゃないのでよく見えません。
ここの方より「多くの句碑があるので探してみてください」と言われましたが、雨が降ってて傘を差しているので今日は難しいですね。
本庵の横に行くと、去来層の後姿が見えています。また、青モミジを浮かべた「手水鉢」も綺麗でした。
ここでは、そんなに長居できないので、早々と句碑探してです。向かって左から、高浜虚子の句碑「凡(およ)そ天下に去来ほどの小さき墓に詣(まい)りけり」。
昭憲皇太后(第122代明治天皇の皇后)の句碑「加茂川のはやせの波のうちこえしことばのしらべ世にひびきけり」でした。
次が、松尾芭蕉句碑「五月雨(さみだれ)や色紙へぎたる壁の跡(あと)」で、芭蕉が「嵯峨日記」の最後にしるした句です。
芭蕉句碑の奥には、落柿舎の昭和復興に功のあった十世庵主の「永井瓢斎(ながいひょうさい)供養塔」がひっそりとありました。
ここから、さらに奥にある「次庵」があって、こちらも内部には入れません。句会席で使われるようですね。
こちらは「俳人塔」です。1970年(昭和45年)に十一世庵主工藤芝蘭子(くどうしらんし) が、過去・現在・未来も含めた俳人供養のために建立したもの。
小さいけど、その左横に平澤興句碑「春の雨天地(あめつち)ここに俳人塔」がありました。
遠くからでも聞こえてきた「鹿威し」が、ここにありました。雨に濡れた青モミジが綺麗です。
次庵の奥には、工藤芝蘭子句碑「十三畳半の落柿舎冬支度(ふゆじたく)」がありました。
この落柿舎のもっとも奥には「藤棚」があって、そこには下平可都三(しもだいらかつみ)句碑「草の戸やわが名月の山はなれ」がありました。
最後に、出口付近にあった向井去来句碑「柿主(かきぬし)や梢(こずえ)はちかきあらし山」で、1772年(安永元年)に建立された洛中第一に古い句碑と言われています。
古写真を探したら、「向井去来句碑」も「去来像」もありました。年月を経て苔むしたんですね。
入るとき、「俳句を詠んでください」と「落柿舎投句短冊」を貰いました。ここ最近、MBS毎日放送の「プレバト!!」を見てて、少しばかり俳句を知りました。その番組を見るまでは"季語"も知らなかったぐらいです。そんな私が、急に俳句を書けるわけありません。その用紙は持って帰りました。そして、まだ一句も浮かびません。
10時11分に、ここを出ました。ここの向かいに見えている「小倉山荘 嵯峨落柿舎前店」で10時に待合せしていたので、急いで向かいます。
10時14分に着いたので、少々・・・だいぶ遅れました。ここで仏前にお供えものを買って、出て行きました。
以前は、ここの前は田圃でしたが数年前に止められたみたいですね。今は雑草に覆われています。蒸し暑くなく、雨が降っていなかったら常寂光寺でも行ってかと思いますが、ここから歩いて帰りました。
帰りに「愛宕野々宮両御旅所」によると、嵯峨祭の神輿が開いてました。残念ながら、今年も巡行は中止になりました。2年連続で残念です。
雨が降って、濡れましたね。ここからは本当に寄らずに帰りました。
【落柿舎】
【小倉山荘 嵯峨落柿舎前店】
【愛宕野々宮両御旅所】
落柿舎は、芭蕉がその門人の中でも最も信頼を寄せていた元禄俳人向井去来(むかいきょらい)の営んだ庵であり遺跡いせきです。その閑寂な風情と去来の篤実を愛した芭蕉は、合わせて三度も来庵、とりわけ1691年(元禄4年)の初夏には長く17日間滞在し、落柿舎を拠点として嵯峨嵐山の名所名刹を巡り、その記録は名作「嵯峨日記」として遺されています。以来落柿舎は「俳諧道場」として世に聞こえ、今も風雅を愛する多くの方々に親しまれています。
お寺なら「表門」でしょう、入口には門があります。拝観時間は9時~17時ですが、緊急事態宣言下のため10時開門でした。
入庵料は300円で、以前は200円だったかと思います。たまたま10時頃に通ったから入ったからで、知りませんでした。
入ると正面が「本庵」です。開門直後だっので内部は清掃されてました。この「簔と笠」は、庵主の在宅を示すものです。
最初に見るのは「土間」で、その奥に「おくどさん」があります。ただ、この日は閉まっていたので過去の写真を使いました。
次が「玄関」です。ただ、ここから室内に・・・上がれません。来た時は、室内を清掃されていたので、写真撮るのを少し待ちました。
雨が降っているので、「居間」の縁側に座って汗を拭いました。縁側から「去来像」が見えますが、正面じゃないのでよく見えません。
ここの方より「多くの句碑があるので探してみてください」と言われましたが、雨が降ってて傘を差しているので今日は難しいですね。
本庵の横に行くと、去来層の後姿が見えています。また、青モミジを浮かべた「手水鉢」も綺麗でした。
ここでは、そんなに長居できないので、早々と句碑探してです。向かって左から、高浜虚子の句碑「凡(およ)そ天下に去来ほどの小さき墓に詣(まい)りけり」。
昭憲皇太后(第122代明治天皇の皇后)の句碑「加茂川のはやせの波のうちこえしことばのしらべ世にひびきけり」でした。
次が、松尾芭蕉句碑「五月雨(さみだれ)や色紙へぎたる壁の跡(あと)」で、芭蕉が「嵯峨日記」の最後にしるした句です。
芭蕉句碑の奥には、落柿舎の昭和復興に功のあった十世庵主の「永井瓢斎(ながいひょうさい)供養塔」がひっそりとありました。
ここから、さらに奥にある「次庵」があって、こちらも内部には入れません。句会席で使われるようですね。
こちらは「俳人塔」です。1970年(昭和45年)に十一世庵主工藤芝蘭子(くどうしらんし) が、過去・現在・未来も含めた俳人供養のために建立したもの。
小さいけど、その左横に平澤興句碑「春の雨天地(あめつち)ここに俳人塔」がありました。
遠くからでも聞こえてきた「鹿威し」が、ここにありました。雨に濡れた青モミジが綺麗です。
次庵の奥には、工藤芝蘭子句碑「十三畳半の落柿舎冬支度(ふゆじたく)」がありました。
この落柿舎のもっとも奥には「藤棚」があって、そこには下平可都三(しもだいらかつみ)句碑「草の戸やわが名月の山はなれ」がありました。
最後に、出口付近にあった向井去来句碑「柿主(かきぬし)や梢(こずえ)はちかきあらし山」で、1772年(安永元年)に建立された洛中第一に古い句碑と言われています。
古写真を探したら、「向井去来句碑」も「去来像」もありました。年月を経て苔むしたんですね。
入るとき、「俳句を詠んでください」と「落柿舎投句短冊」を貰いました。ここ最近、MBS毎日放送の「プレバト!!」を見てて、少しばかり俳句を知りました。その番組を見るまでは"季語"も知らなかったぐらいです。そんな私が、急に俳句を書けるわけありません。その用紙は持って帰りました。そして、まだ一句も浮かびません。
10時11分に、ここを出ました。ここの向かいに見えている「小倉山荘 嵯峨落柿舎前店」で10時に待合せしていたので、急いで向かいます。
10時14分に着いたので、少々・・・だいぶ遅れました。ここで仏前にお供えものを買って、出て行きました。
以前は、ここの前は田圃でしたが数年前に止められたみたいですね。今は雑草に覆われています。蒸し暑くなく、雨が降っていなかったら常寂光寺でも行ってかと思いますが、ここから歩いて帰りました。
帰りに「愛宕野々宮両御旅所」によると、嵯峨祭の神輿が開いてました。残念ながら、今年も巡行は中止になりました。2年連続で残念です。
雨が降って、濡れましたね。ここからは本当に寄らずに帰りました。
【落柿舎】
【小倉山荘 嵯峨落柿舎前店】
【愛宕野々宮両御旅所】
この記事へのコメント