梅雨の晴れ間 新緑が美しい鷹峯 光悦寺へ
今年は例年になく早い梅雨入りで、平年より21日も早かったです。5月16日に入りましたが、その週はほぼ雨降りで、週末にようやく晴れてきました。5月25日(火)の予報は晴れてでしたが、黄砂の襲来を予測していました。なお、日曜日は晴れましたが、昨日は午後から雨降りでした。
貴重な梅雨の晴れ間でしたので、2014年(平成26年)11月23日以来、来て無かった鷹峯 光悦寺に行くことにしました。
光悦寺には車で行きました。鷹峯街道沿いに光悦寺駐車場の入口があるので9時8分に車を入れました。そこから街道まで戻り、参拝口から入りました。
秋の紅葉では、この石畳の参道は真っ赤に染まります。新緑のモミジも綺麗ですね。私は紅葉以外で、ここに来たのは初めてです。
石畳の参道を抜けると、「拝観受付所」があって拝観料400円を納めます。ここでは僧侶の方が受付されてましたね。
拝観受付所の前が「本堂」です。内陣は、上がることは出来ないので暗くて見えません。
鷹峯三山(鷹ヶ峰、鷲ヶ峰、天ヶ峰)を望む景勝地にある日蓮宗の寺。1615年(元和元年)に江戸初期の書家、陶芸家、芸術家であり文化人の本阿弥光悦が江戸幕府初代将軍・徳川家康からこの地を与えられ、草庵を結び、一族や知己と移り住み芸術村を営んだ。その折、本阿弥家の先祖供養のため法華題目堂を建て位牌堂をもうけたのがはじまりで、光悦の死後、ゆかりのこの地に光悦寺として創建された。三巴庵、了寂軒など、趣の異なる茶室が点在しており、周囲には光悦垣と呼ばれる垣根が巡らされている。秋は特に美しく、入口参道の紅葉に染まる石畳は風情がある。
拝観料を納めると、本堂に通じる「回廊」の下をくぐります。その先は北山杉の木立が・・・?。
その先の右手に「古池」がありました。この光悦寺では、異なる七つの茶室が点在しているので、それを見て行くようなコースとなっており、この先、見て行きます。
最初に見るのが「三巴亭(さんぱてい)」です。1921年(大正10年)に建てられた数奇屋建築で、北西の八畳は光悦堂と称し、仏壇には光悦の木像が安置されています。
紅葉時には多くの方が来られるので、こんなにゆっくり見られません。次に見るのが「光悦垣」です。
その光悦垣に囲まれているのが「大虚庵」です。1915年(大正4年)に再興されたもの。取り囲む「光悦垣」はその姿から「臥牛(ねうし)垣」と呼ばれ徐々に高さの変る独特のものです。
その向かいには句碑がありました。「山二つ かたみに時雨 光悦寺」(田中王城)と書かれているようです。
次に前方に進むと「了寂軒」と呼ばれる茶席があって、この時期ならではの綺麗な新緑に包まれています。
そして、この石碑・・・これは記憶にありませんでした。「チャアレス エル 布利耶 碑 MONUMENT OF MR.CHARLES L.FREER」と書かれてました。
次も句碑で「紅葉せりつらぬき立てる松の幹 秋桜子」と書かれています。俳人の水原秋桜子(みずはらしゅうおうし)の作品ですね。
ここまで来ると、ようやく京都市街地が見えて来ました。ここから東山三十六峰が見えるそうです。
ここから鷹峯三山のうち、鷹ヶ峰が左に、鷲ヶ峰が右側に見えています。黄砂の心配がありましたが、影響は無さそうですね。
鷹峯三山を見ながら左手に行けば「本阿弥庵」があって「四阿」も併設されています。
綺麗な市街地を見ながら左手に進むと、中央が「本阿弥光甫(ほんあみこうほ)」、右に「本阿弥光瑳(ほんあみこうさ)」、左が「他一族」の墓所がありました。光悦の養子の光瑳(1578~1637)と孫の光甫(1601~82)ですね。
最後が「翹秀軒(ぎょうしゅうけん)」で、ここには床几があったので座ってゆっくり景色を眺めてました。見えているのは鷹ヶ峰です。
元来た苑路を戻っていると、「左 光悦翁・・・」と書かれた石標を見付けました。2014年(平成26年)11月23日の記憶が・・・?。
境内の奥まった静かな所に「本阿弥光悦墓所」がありました。前回の写真もあったので行ってるようです。ただ今日は忘れてました。
帰りに、「鐘楼」に寄りました。案内には、1692年(元禄5年創建)、1960年(昭和35年)修復とありました。
帰りも綺麗な石畳の参道の写真を撮ってると、この狭い参道は「撮影禁止」となってました。多分、紅葉時に狭い参道に多くの方が写真を撮りに来られるからでしょうね。
9時35分に駐車場に戻り、出て行きました。駐車場は無料ですし、結構広いです。ただ入口が狭いので行き過ぎすぎてしまうかも知れません。また、久し振りに紅葉時でも来てもようかなぁ・・・と思いつつ次へと向かいました。
【鷹峯 光悦寺】
貴重な梅雨の晴れ間でしたので、2014年(平成26年)11月23日以来、来て無かった鷹峯 光悦寺に行くことにしました。
光悦寺には車で行きました。鷹峯街道沿いに光悦寺駐車場の入口があるので9時8分に車を入れました。そこから街道まで戻り、参拝口から入りました。
秋の紅葉では、この石畳の参道は真っ赤に染まります。新緑のモミジも綺麗ですね。私は紅葉以外で、ここに来たのは初めてです。
石畳の参道を抜けると、「拝観受付所」があって拝観料400円を納めます。ここでは僧侶の方が受付されてましたね。
拝観受付所の前が「本堂」です。内陣は、上がることは出来ないので暗くて見えません。
鷹峯三山(鷹ヶ峰、鷲ヶ峰、天ヶ峰)を望む景勝地にある日蓮宗の寺。1615年(元和元年)に江戸初期の書家、陶芸家、芸術家であり文化人の本阿弥光悦が江戸幕府初代将軍・徳川家康からこの地を与えられ、草庵を結び、一族や知己と移り住み芸術村を営んだ。その折、本阿弥家の先祖供養のため法華題目堂を建て位牌堂をもうけたのがはじまりで、光悦の死後、ゆかりのこの地に光悦寺として創建された。三巴庵、了寂軒など、趣の異なる茶室が点在しており、周囲には光悦垣と呼ばれる垣根が巡らされている。秋は特に美しく、入口参道の紅葉に染まる石畳は風情がある。
拝観料を納めると、本堂に通じる「回廊」の下をくぐります。その先は北山杉の木立が・・・?。
その先の右手に「古池」がありました。この光悦寺では、異なる七つの茶室が点在しているので、それを見て行くようなコースとなっており、この先、見て行きます。
最初に見るのが「三巴亭(さんぱてい)」です。1921年(大正10年)に建てられた数奇屋建築で、北西の八畳は光悦堂と称し、仏壇には光悦の木像が安置されています。
紅葉時には多くの方が来られるので、こんなにゆっくり見られません。次に見るのが「光悦垣」です。
その光悦垣に囲まれているのが「大虚庵」です。1915年(大正4年)に再興されたもの。取り囲む「光悦垣」はその姿から「臥牛(ねうし)垣」と呼ばれ徐々に高さの変る独特のものです。
その向かいには句碑がありました。「山二つ かたみに時雨 光悦寺」(田中王城)と書かれているようです。
次に前方に進むと「了寂軒」と呼ばれる茶席があって、この時期ならではの綺麗な新緑に包まれています。
そして、この石碑・・・これは記憶にありませんでした。「チャアレス エル 布利耶 碑 MONUMENT OF MR.CHARLES L.FREER」と書かれてました。
次も句碑で「紅葉せりつらぬき立てる松の幹 秋桜子」と書かれています。俳人の水原秋桜子(みずはらしゅうおうし)の作品ですね。
ここまで来ると、ようやく京都市街地が見えて来ました。ここから東山三十六峰が見えるそうです。
ここから鷹峯三山のうち、鷹ヶ峰が左に、鷲ヶ峰が右側に見えています。黄砂の心配がありましたが、影響は無さそうですね。
鷹峯三山を見ながら左手に行けば「本阿弥庵」があって「四阿」も併設されています。
綺麗な市街地を見ながら左手に進むと、中央が「本阿弥光甫(ほんあみこうほ)」、右に「本阿弥光瑳(ほんあみこうさ)」、左が「他一族」の墓所がありました。光悦の養子の光瑳(1578~1637)と孫の光甫(1601~82)ですね。
最後が「翹秀軒(ぎょうしゅうけん)」で、ここには床几があったので座ってゆっくり景色を眺めてました。見えているのは鷹ヶ峰です。
元来た苑路を戻っていると、「左 光悦翁・・・」と書かれた石標を見付けました。2014年(平成26年)11月23日の記憶が・・・?。
境内の奥まった静かな所に「本阿弥光悦墓所」がありました。前回の写真もあったので行ってるようです。ただ今日は忘れてました。
帰りに、「鐘楼」に寄りました。案内には、1692年(元禄5年創建)、1960年(昭和35年)修復とありました。
帰りも綺麗な石畳の参道の写真を撮ってると、この狭い参道は「撮影禁止」となってました。多分、紅葉時に狭い参道に多くの方が写真を撮りに来られるからでしょうね。
9時35分に駐車場に戻り、出て行きました。駐車場は無料ですし、結構広いです。ただ入口が狭いので行き過ぎすぎてしまうかも知れません。また、久し振りに紅葉時でも来てもようかなぁ・・・と思いつつ次へと向かいました。
【鷹峯 光悦寺】
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