天下随一希代の太夫と謳われた吉野太夫ゆかりの常照寺へ
鷹峯 光悦寺を出て、ほぼ向かいの源光庵に行くつもりでしでしたが、2019(令和元年)年6月1日より庫裏改修工事のため、拝観を休止されており今は入れません。拝観再開は来年の春頃だそうで、事前に調べて知ってました。それで、同じ鷹峯にある桜や紅葉の名所である常照寺に行こうと思い、車を走らせ約3分、9時38分に着きました。
常照寺には、2017年(平成29年)4月14日の桜の時期に一度だけ来ています。紅葉の時に行こうと思いつつ行けてません、それで青モミジを見に来た訳です。
駐車場に車を置き、参道に出てくると、この朱塗りの門に出ます。「吉野門」と呼ばれ、吉野太夫の寄進によるものです。
門をくぐり、その先に「本堂」が見えます。拝観受付所は、その本堂前にありますが、参道の青モミジが綺麗です。
門を入って右手に「帯塚」があります。1969年(昭和44年)伊豆蔵福治郎氏によって建立。塚石は自然石(吉野石)で珍しい帯状をなしており、作庭は名作庭家の中根金作氏(足立美術館や退蔵院の余香苑など)によるものです。
次に「宝蔵」で、その左にあね石碑には日蓮聖人 四条金吾殿 御返書「蔵の財よりも身の財すぐれたり 身の財より心の財第一なり」と書かれています。
それで、「拝観受付所」までやって来ましたが不在です。呼鈴を押しましたが、これが・・・中々来られませんでした。随分待ちましたね・・・拝観料は400円納めました。
1616年(元和2年)本阿弥光悦の土地寄進と、その養子本阿弥光瑳によって見延山第二十一世日蓮宗寂照院日乾上人を招いて開山。日乾上人は常照寺に修行道場「鷹ケ峰檀林」を開設します。ここには、かつて広大な敷地に多くの堂宇があり、多くの学僧が修行に励みました。その「鷹ケ峰檀林」は、1872年(明治5年)まで続きました。
本来は、「本堂」に入ってお参りしてから庭園に向かいますが、堂内で法要中のようでした。受付でも「先に庭園に行ってください」と言われたので、そちらに向かいます。
2017年(平成29年)4月14日に来た時は桜が咲き誇ってましたが、今は新緑です。先ずは「鬼子母尊神堂」に行きました。堂内には三体の鬼子母尊神像と十羅刹女像が祀られています。
鬼子母はもともと子供を殺して食べる鬼神でしたが、仏の教えを聞いて懺悔し改心し子育て、子授けの神様となった。
その右手が「常冨大菩薩殿」です。ここ常照寺の鎮守の社で、常冨大菩薩が祀られています。
享保年間(1716~36)のこと、鷹峯檀林に智桶と言う学僧が勉強してました。山内で度々奇瑞不思議が起こるので噂になっており、ある夜学頭が智桶の部屋を覗くと、白狐が一心不乱に書見する姿を目撃します。その目撃された白狐は、能勢妙見さんに登り、修行を重ね常冨大菩薩となりました。
その右横の小さな洞が「妙法龍神」です。手前には「手水鉢」も用意されてました。
次ぎに前回も行ってる「白馬池」まで降りて行きます。入口には「白馬池伝説」と書かれた看板がもありますが、夏場だったら絶対に行かないです。蚊に刺されまくりでしょう。
けっこうな階段を下ります。すると白馬池があって、そこにはモリアオガエルが産卵してましたね。
あまりにも寂しい所で、長居は無用です。再び急な階段を登って行きました。
その昔、当山の北山で白馬に乗って池を往来していたという伝説の仙人を「白馬観音」として祀ってました。手に法華経を待ち慈愛に満ちた眼差しは「慈眼をもって衆生を視る」の経説を示しています。
白馬池から上がってきて、本堂横を通って先に進むと、茶室「聚楽亭」がありました。
次に、案内にも載っている茶室「遺芳庵」です。吉野太夫が好んだと言われる、大きな丸窓が特徴の茶室です。
茶室「遺芳庵」は、吉野太夫を偲んで建てられた茶室です。壁一杯に切られた丸窓は、吉野太夫が好んだことから「吉野窓」とも呼ばれ、円の下部が切り取られているのが特徴です。そもそも完全な円は、悟りに例えられます。吉野太夫は円の一部を切り取ることで、より完成されていない悟っていない自分を客観的に見つめたのでしょう。大胆さの中で謙虚さが込められた味わい深い窓です。
次に、吉野太夫の墓があるエリアに入ります。この常照寺は、吉野太夫との深いつながりがありました。
西国の武士松田武右衛門の娘徳子が、六条三筋町(後の島原)の名妓吉野太夫となる。才色双絶にして和歌、連歌、俳諧に優れていて、琴、琵琶、笙が巧みであり、さらに書道、茶道、香道、華道、貝覆い、囲碁、双六を極めたという。上流社交場の花天下随一希代の太夫と謳われ遠く明国にまで名を馳せた。吉野太夫は1643年(寛永20年)8月25日、38歳の若さで没した。常照寺開山の日乾上人に帰依し山門を寄進。深い信仰の人で戒名は唱玄院妙蓮日性信女。毎年4月第3日曜日に「吉野太夫花供養」が行われ、島原から太夫が参拝し訪問客に花を添えている。当代きっての文化人灰屋紹益(はいやしょうえき)とのロマンスは特に名高く、後に戯曲「桜時雨」となり、また、13代片岡仁左衛門の発願により境内に二人の比翼塚と紹益の歌碑が建立された。
下が「吉野太夫の墓」です。多くの歌舞伎俳優や芸能人、数寄者がお参りに来られます。
本堂の右手裏にある墓地内に「開山廟」があります。建物の中央に開山の日乾上人の五輪塔があるそうです。
こちらが13代片岡仁左衛門の発願により境内に建立された「比翼塚」です。石碑には紹益が詠んだ歌「都をば 花なき里になしにけり 吉野を死出の山にうつして」を13代片岡仁左衛門が揮毫しました。
ここで内部が撮影禁止の「書院」に入りました。少しばかり休憩したあと、本堂に行くと法要は終わってません。
今日は、本堂には入らずに帰りました。少し残念ですが、仕方ないです。10時2分頃「吉野門」を出て駐車場に戻りました。
今日は、これで帰りつもりでしたが、もう一箇所寄って行こうと思いつきました。ただ地図は頭に入っているのでナビは不要です。2017年(平成29年)4月14日は、桜が綺麗でしたが次は紅葉ですね。
【鷹峯 常照寺】
常照寺には、2017年(平成29年)4月14日の桜の時期に一度だけ来ています。紅葉の時に行こうと思いつつ行けてません、それで青モミジを見に来た訳です。
駐車場に車を置き、参道に出てくると、この朱塗りの門に出ます。「吉野門」と呼ばれ、吉野太夫の寄進によるものです。
門をくぐり、その先に「本堂」が見えます。拝観受付所は、その本堂前にありますが、参道の青モミジが綺麗です。
門を入って右手に「帯塚」があります。1969年(昭和44年)伊豆蔵福治郎氏によって建立。塚石は自然石(吉野石)で珍しい帯状をなしており、作庭は名作庭家の中根金作氏(足立美術館や退蔵院の余香苑など)によるものです。
次に「宝蔵」で、その左にあね石碑には日蓮聖人 四条金吾殿 御返書「蔵の財よりも身の財すぐれたり 身の財より心の財第一なり」と書かれています。
それで、「拝観受付所」までやって来ましたが不在です。呼鈴を押しましたが、これが・・・中々来られませんでした。随分待ちましたね・・・拝観料は400円納めました。
1616年(元和2年)本阿弥光悦の土地寄進と、その養子本阿弥光瑳によって見延山第二十一世日蓮宗寂照院日乾上人を招いて開山。日乾上人は常照寺に修行道場「鷹ケ峰檀林」を開設します。ここには、かつて広大な敷地に多くの堂宇があり、多くの学僧が修行に励みました。その「鷹ケ峰檀林」は、1872年(明治5年)まで続きました。
本来は、「本堂」に入ってお参りしてから庭園に向かいますが、堂内で法要中のようでした。受付でも「先に庭園に行ってください」と言われたので、そちらに向かいます。
2017年(平成29年)4月14日に来た時は桜が咲き誇ってましたが、今は新緑です。先ずは「鬼子母尊神堂」に行きました。堂内には三体の鬼子母尊神像と十羅刹女像が祀られています。
鬼子母はもともと子供を殺して食べる鬼神でしたが、仏の教えを聞いて懺悔し改心し子育て、子授けの神様となった。
その右手が「常冨大菩薩殿」です。ここ常照寺の鎮守の社で、常冨大菩薩が祀られています。
享保年間(1716~36)のこと、鷹峯檀林に智桶と言う学僧が勉強してました。山内で度々奇瑞不思議が起こるので噂になっており、ある夜学頭が智桶の部屋を覗くと、白狐が一心不乱に書見する姿を目撃します。その目撃された白狐は、能勢妙見さんに登り、修行を重ね常冨大菩薩となりました。
その右横の小さな洞が「妙法龍神」です。手前には「手水鉢」も用意されてました。
次ぎに前回も行ってる「白馬池」まで降りて行きます。入口には「白馬池伝説」と書かれた看板がもありますが、夏場だったら絶対に行かないです。蚊に刺されまくりでしょう。
けっこうな階段を下ります。すると白馬池があって、そこにはモリアオガエルが産卵してましたね。
あまりにも寂しい所で、長居は無用です。再び急な階段を登って行きました。
その昔、当山の北山で白馬に乗って池を往来していたという伝説の仙人を「白馬観音」として祀ってました。手に法華経を待ち慈愛に満ちた眼差しは「慈眼をもって衆生を視る」の経説を示しています。
白馬池から上がってきて、本堂横を通って先に進むと、茶室「聚楽亭」がありました。
次に、案内にも載っている茶室「遺芳庵」です。吉野太夫が好んだと言われる、大きな丸窓が特徴の茶室です。
茶室「遺芳庵」は、吉野太夫を偲んで建てられた茶室です。壁一杯に切られた丸窓は、吉野太夫が好んだことから「吉野窓」とも呼ばれ、円の下部が切り取られているのが特徴です。そもそも完全な円は、悟りに例えられます。吉野太夫は円の一部を切り取ることで、より完成されていない悟っていない自分を客観的に見つめたのでしょう。大胆さの中で謙虚さが込められた味わい深い窓です。
次に、吉野太夫の墓があるエリアに入ります。この常照寺は、吉野太夫との深いつながりがありました。
西国の武士松田武右衛門の娘徳子が、六条三筋町(後の島原)の名妓吉野太夫となる。才色双絶にして和歌、連歌、俳諧に優れていて、琴、琵琶、笙が巧みであり、さらに書道、茶道、香道、華道、貝覆い、囲碁、双六を極めたという。上流社交場の花天下随一希代の太夫と謳われ遠く明国にまで名を馳せた。吉野太夫は1643年(寛永20年)8月25日、38歳の若さで没した。常照寺開山の日乾上人に帰依し山門を寄進。深い信仰の人で戒名は唱玄院妙蓮日性信女。毎年4月第3日曜日に「吉野太夫花供養」が行われ、島原から太夫が参拝し訪問客に花を添えている。当代きっての文化人灰屋紹益(はいやしょうえき)とのロマンスは特に名高く、後に戯曲「桜時雨」となり、また、13代片岡仁左衛門の発願により境内に二人の比翼塚と紹益の歌碑が建立された。
下が「吉野太夫の墓」です。多くの歌舞伎俳優や芸能人、数寄者がお参りに来られます。
本堂の右手裏にある墓地内に「開山廟」があります。建物の中央に開山の日乾上人の五輪塔があるそうです。
こちらが13代片岡仁左衛門の発願により境内に建立された「比翼塚」です。石碑には紹益が詠んだ歌「都をば 花なき里になしにけり 吉野を死出の山にうつして」を13代片岡仁左衛門が揮毫しました。
ここで内部が撮影禁止の「書院」に入りました。少しばかり休憩したあと、本堂に行くと法要は終わってません。
今日は、本堂には入らずに帰りました。少し残念ですが、仕方ないです。10時2分頃「吉野門」を出て駐車場に戻りました。
今日は、これで帰りつもりでしたが、もう一箇所寄って行こうと思いつきました。ただ地図は頭に入っているのでナビは不要です。2017年(平成29年)4月14日は、桜が綺麗でしたが次は紅葉ですね。
【鷹峯 常照寺】
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