御霊八所の神を祀り疫病災厄から朝廷と都民を守護する社 下御霊神社へ
昨日、天龍寺に行った翌日、以前から決まっていた所用のため車で出掛けます。天気予報は、朝から雨降りと出てましたが9時の段階では曇り空でした。ただ予報では大雨と出てましたが・・・?。
先月の「廬山寺」と「梨木神社」に行ったときと同様に、所用先に家族を残し私だけ出掛けます。曇り空から雨が落ちてくるのを気にしながら市バスに乗ってやって来たのは下御霊神社で、ここには2度きています。最初は2016年(平成28年)8月4日で、次に2016年(平成28年)10月15日に来て、見事なフジパカマも見に来ました。
この前は何度か車で通りましたが、訪問するのは5年振りです。9時頃に着きましたがご近所の方などが来られてました。その理由は・・・?。
寺町通りに面して「正門」が西向きに建っています。その正門を入って次に左手に向かいます。
こちらには「手水舎」があります。そして、このあと数名の方が、ここの「御霊水」を汲みに来られました。目的は、こちらだったんですね。
江戸時代の1770年(明和7年)の秋は京の市中が旱魃に見舞われ、当時の神主である出雲路定直が夢のお告げで境内の一箇所を掘らせたところ、清らかな水が湧き出て涸れること無く万人に飲ませることができ、「感応水」と名付けられた。今はこの井戸の痕跡はありませんが現在の地下水も同じ水脈で「御霊水」と名付け、大事されています。
御霊水を汲みに来られているのを横目にお隣に移動です。「猿田彦社」(庚申社)は交通安全の神。神殿は1807年(文化4年)、拝殿は1852年(嘉永5年)の造営。あと相殿で「垂加社」(山崎闇斎)と「柿本社」(柿本歌聖)です。
その右隣が朱塗りの鳥居が連なる「稲荷社」で、御祭神は稲荷大神でした。鳥居の手前には狛狐が鎮座してます。
次に境内の北側を見ると儒者山崎闇斎(1618~82)と闇斎を祀る垂加社を顕彰するために建立された碑があります。
神官出雲路信直が闇斎の門下に学び、現在も闇斎の遺品を多数収められている「鳳輿舎」が、その横にあります。
顕著碑の後方には、中京区民の誇りの木「イロハモミジ」があります。大木のため上まで撮れなかったです。
次に、境内の北東にある「宗像社」です。御祭神は、田心姫命(たぎりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)の御三姫(辨財天)が祀られています。神殿は1825年(文政8年)の造営です。
ここから「拝殿」(京都市指定有形文化財)を見ています。御旅中に神輿が奉安され、例祭で舞楽が奉奏される建物です。1798年(寛政10年)に造営されました。
境内から「正門」を見ています。ここに来られる人の殆どは「御霊水」を汲みに来られ、そのあとにお参りして帰られる人です。
今度は、正門の南に戻り「天満宮社」に行きました。御祭神は、北野大神とありました。
次に境内の南側に移動します。ここには「大国主命事代主命社」があって、御祭神は、大国主命(おおくにぬしのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)とありました。なお、神殿の造営は1807年(文化4年)です。
次に「五社相殿社」で、右(北)から「斎部社(いんべしゃ)」で天太玉命を祀る。社家の祖先神です。「大将軍社」は大将軍八神を満。「高知穂社」の祭神は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を祀る。愛宕社」は愛宕山に鎮座する愛宕大神を祀る。最後は「日吉社」で、近江坂本山王七社の祭神である日吉大神を祀る。神殿は、1807年(文化4年)の造営。
そして東南角にあるのが「神物寶庫」があります。中には神輿や祭具を保管されており、宝永の大火でも貴重な祭器が無事であったようです。
それで、このあと「本殿」でお参りですが、この時間帯は神職さんが本殿前を清掃されていたので、遠慮してました。
「本殿」「幣殿」「拝所」「南北回廊」そして「拝殿」は、京都市指定有形文化財です。現在の社殿は、1788年(天明8年)の大火により焼失後、再建されたものです。
御祭神は、本殿八座 吉備聖霊(きびのしょうりょう)、崇道天皇(すどうてんのう)、伊豫親王(いよしんのう) 、藤原大夫人(ふじわらのだいふじん)、藤大夫(とうだいぶ)、橘大夫(きつだいぶ)、文大夫(ぶんだいぶ)、火雷天神(からいのてんじん)。相殿一座 天中柱皇神(あめのなかはしらのすめがみ)。
本殿の北側には末社があります。中央に「神明社」で祭神が天照大御神(内宮)、豊受大神(外宮)。向かって右に「八幡社」で、八幡大神。向かって左に「春日社」祭神が、春日大神。神殿の造営は1807年(文化4年)です。
こちらが「社務所」で、以前御朱印はいただいています。ただ神職さんが清掃中のため、今は貰えないでしょう。
御所の鎮守として御霊八所神を祀る。第50代桓武天皇の時代、各地で疫病が流行した。これは御霊の祟りであるとして、863年(貞観5年))神泉苑御霊会を由諸とし、下出雲路(現京都市北区)に創建、2度移転したが1590年(天正18年)豊臣秀吉の寺社整理に伴い現在地へ。本殿は寛政期に仮皇居の内侍所(賢所)を、表門は仮御所の建礼門をそれぞれ移築されたもの。
今にも雨が降ってきそうですが、まだ持ってます。ここを9時10分過ぎに出て行きました。
ペットボトル持参で名水を汲みに来られるので、次は空のペットボトル持参で再訪したいと思います。ここを出て、もう一箇所寄って行きます。
【下御霊神社】
先月の「廬山寺」と「梨木神社」に行ったときと同様に、所用先に家族を残し私だけ出掛けます。曇り空から雨が落ちてくるのを気にしながら市バスに乗ってやって来たのは下御霊神社で、ここには2度きています。最初は2016年(平成28年)8月4日で、次に2016年(平成28年)10月15日に来て、見事なフジパカマも見に来ました。
この前は何度か車で通りましたが、訪問するのは5年振りです。9時頃に着きましたがご近所の方などが来られてました。その理由は・・・?。
寺町通りに面して「正門」が西向きに建っています。その正門を入って次に左手に向かいます。
こちらには「手水舎」があります。そして、このあと数名の方が、ここの「御霊水」を汲みに来られました。目的は、こちらだったんですね。
江戸時代の1770年(明和7年)の秋は京の市中が旱魃に見舞われ、当時の神主である出雲路定直が夢のお告げで境内の一箇所を掘らせたところ、清らかな水が湧き出て涸れること無く万人に飲ませることができ、「感応水」と名付けられた。今はこの井戸の痕跡はありませんが現在の地下水も同じ水脈で「御霊水」と名付け、大事されています。
御霊水を汲みに来られているのを横目にお隣に移動です。「猿田彦社」(庚申社)は交通安全の神。神殿は1807年(文化4年)、拝殿は1852年(嘉永5年)の造営。あと相殿で「垂加社」(山崎闇斎)と「柿本社」(柿本歌聖)です。
その右隣が朱塗りの鳥居が連なる「稲荷社」で、御祭神は稲荷大神でした。鳥居の手前には狛狐が鎮座してます。
次に境内の北側を見ると儒者山崎闇斎(1618~82)と闇斎を祀る垂加社を顕彰するために建立された碑があります。
神官出雲路信直が闇斎の門下に学び、現在も闇斎の遺品を多数収められている「鳳輿舎」が、その横にあります。
顕著碑の後方には、中京区民の誇りの木「イロハモミジ」があります。大木のため上まで撮れなかったです。
次に、境内の北東にある「宗像社」です。御祭神は、田心姫命(たぎりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)の御三姫(辨財天)が祀られています。神殿は1825年(文政8年)の造営です。
ここから「拝殿」(京都市指定有形文化財)を見ています。御旅中に神輿が奉安され、例祭で舞楽が奉奏される建物です。1798年(寛政10年)に造営されました。
境内から「正門」を見ています。ここに来られる人の殆どは「御霊水」を汲みに来られ、そのあとにお参りして帰られる人です。
今度は、正門の南に戻り「天満宮社」に行きました。御祭神は、北野大神とありました。
次に境内の南側に移動します。ここには「大国主命事代主命社」があって、御祭神は、大国主命(おおくにぬしのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)とありました。なお、神殿の造営は1807年(文化4年)です。
次に「五社相殿社」で、右(北)から「斎部社(いんべしゃ)」で天太玉命を祀る。社家の祖先神です。「大将軍社」は大将軍八神を満。「高知穂社」の祭神は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を祀る。愛宕社」は愛宕山に鎮座する愛宕大神を祀る。最後は「日吉社」で、近江坂本山王七社の祭神である日吉大神を祀る。神殿は、1807年(文化4年)の造営。
そして東南角にあるのが「神物寶庫」があります。中には神輿や祭具を保管されており、宝永の大火でも貴重な祭器が無事であったようです。
それで、このあと「本殿」でお参りですが、この時間帯は神職さんが本殿前を清掃されていたので、遠慮してました。
「本殿」「幣殿」「拝所」「南北回廊」そして「拝殿」は、京都市指定有形文化財です。現在の社殿は、1788年(天明8年)の大火により焼失後、再建されたものです。
御祭神は、本殿八座 吉備聖霊(きびのしょうりょう)、崇道天皇(すどうてんのう)、伊豫親王(いよしんのう) 、藤原大夫人(ふじわらのだいふじん)、藤大夫(とうだいぶ)、橘大夫(きつだいぶ)、文大夫(ぶんだいぶ)、火雷天神(からいのてんじん)。相殿一座 天中柱皇神(あめのなかはしらのすめがみ)。
本殿の北側には末社があります。中央に「神明社」で祭神が天照大御神(内宮)、豊受大神(外宮)。向かって右に「八幡社」で、八幡大神。向かって左に「春日社」祭神が、春日大神。神殿の造営は1807年(文化4年)です。
こちらが「社務所」で、以前御朱印はいただいています。ただ神職さんが清掃中のため、今は貰えないでしょう。
御所の鎮守として御霊八所神を祀る。第50代桓武天皇の時代、各地で疫病が流行した。これは御霊の祟りであるとして、863年(貞観5年))神泉苑御霊会を由諸とし、下出雲路(現京都市北区)に創建、2度移転したが1590年(天正18年)豊臣秀吉の寺社整理に伴い現在地へ。本殿は寛政期に仮皇居の内侍所(賢所)を、表門は仮御所の建礼門をそれぞれ移築されたもの。
今にも雨が降ってきそうですが、まだ持ってます。ここを9時10分過ぎに出て行きました。
ペットボトル持参で名水を汲みに来られるので、次は空のペットボトル持参で再訪したいと思います。ここを出て、もう一箇所寄って行きます。
【下御霊神社】
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