千灯供養で知られる 奥嵯峨 化野念仏寺へ
9月1日(水)は、月が変わったは関係ないでしょうけど熱帯夜からは解放されました(最低気温23.3℃)。少しばかりの涼しい朝でしたが、湿気が多いので寝苦しいことには変わりはありませんね。そんな曇り空が広がるなか、久し振りに化野念仏寺に行ってみました。奥嵯峨にある化野念仏寺には有料駐車場しかないので、車では行きづらいです。さらに奥にある愛宕念仏寺には無料駐車場があるので何度か来てますが、家から歩いて行ける距離にある化野念仏寺には、2014年(平成27年)5月10日以来でした。

家から愛宕街道をゆっくり歩きながら、あだし野までやって来ました。最近、来て無かったので土産物店が少なくなったなぁ・・・と思いましたね。
9時28分に、ようやく着きました。この石段を上がると拝観受付所があるはずです。ただ、緊急時代宣言下で開門しているか心配ですが・・・?。
化野念仏寺は、華西山東漸院(かさいざんとうぜんいん)と号する浄土宗の寺院です。境内はに付近から出土した多数の石塔や石仏が建ち並ぶ。化野は古来より鳥辺野(とりべの)、蓮台野(れんだいの)とともに葬地として知られ、「誰とても とまるべきかは あだし野の 草の葉ごとに すがる白露」という西行の和歌にもあるように「化野の露」は、人生の無常をあらわす枕詞に使われています。寺伝によれば弘仁年間(810~824)に、弘法大師空海がこの地に葬られた人々を追善するため、小倉山寄りを金剛界、曼荼羅山寄りを胎蔵界と見立てて、千体の石仏を埋め、中間を流れる曼荼羅川の河原に五智如来の石仏を立て、一宇を建立し、五智如来寺と称したのが始まりといわれています。当初は真言宗でしたが鎌倉時代の初期に法然の常念仏道場となり浄土宗に改められ、名も念仏寺と呼ばれるようになりました。1712年(正徳2年)に黒田如水の外孫の寂道が再建したといわれている本堂には、本尊の阿弥陀如来坐像を安置し、境内には西院(さい)の河原を現出した多数の石塔石仏が立ち並んでいます。なお、毎年8月最終の土曜・日曜日の両日には、これらの石塔石仏に灯を供える千灯供養が行われ、多くの参詣者で賑わいます。

石段を登る途中で、「表門」が開いているのが分かって安心しました
。受付手前の自販機で拝観料500円を入れると拝観券が出てくるので、それをケースに入れると由緒書きを貰えます。
コロナ禍のためでしょうね、人と人との接触が無いように工夫されてました。拝観券が2枚程度入っているで、先客が居るのはこれで分かります
。
久しぶりに来たので、参拝順路は忘れてます
が、この参拝順路の通りに巡って行きます。



苔の綺麗な庭を見ながら「仏舎利塔」を通ります。こちらはあっさり通過し、本堂へ向かうことに。


仏舎利塔から参拝順路の正面が本堂です。ここの手前にはお地蔵さんが祀られていました。

参道の右手には「西院(さい)の河原」が広がっています。ここは帰りに通るコースとなっているので、先を急ぎます。
「本堂」に向かう途中に、前方にお一人の姿が見えました。堂内には上がれませんがお参りは済ませます。



堂内の中央にご本尊「阿弥陀如来像」(鎌倉時代、湛慶作)が、その左右には「法然上人像」と「善導大師像」が祀られています。また、左の脇壇には「十一面観音像」、右の脇壇には「阿弥陀如来像」が祀られています。
このあと、「竹林の小経」に向かいますが、手前には「水子地蔵」がありますが、ここは撮影禁止です。


こちらが「竹林の小経」で、嵐山の竹林の縮小版のような感じです。ここで外国人観光客かどうか知りませんが、この竹林を登ったり降りたりスマホ棒を持って謎の行動が・・・?。



竹林を抜けると、そこには「六面六体地蔵」があります。地獄・飢餓・畜生・修羅・人道・天道の6つの世界を六道といいます。
竹林を下る時に、「角倉素庵(すみのくらそあん)の墓」を撮ってみました。肉眼では微かに見えるですが写真には無理でした。
角倉了以の長男で、土木事業家や貿易商。高瀬川の開運や朱印船貿易に父親とともに大事業に携わりました。角倉家の菩提寺である二尊院ではなく、この地に墓があるのは、不治の病を煩ったため自ら葬送地である化野を選んだとされています。




謎の行動の外国人の方は、相変わらず竹林の小経を登ったり降りたり汗だくでスマホで撮影しているようで、私は早々に降りて来ました
。


帰り「地蔵堂」を通ると清掃中でした。それで前の写真を使います。この地蔵堂には藤原孚石画家の「地獄極楽絵図」が描かれています。忘れましたけど
。
前回来た2014年(平成27年)5月10日では「寺務所」は茅葺きでしたが、建て直されたようですね綺麗になってました。
ここから「西院(さい)の河原」に入ります。関西テレビ(フジテレビ)「赤い霊柩車シリーズ」のオープニングシーンは、ここで撮影されました。
入口にある「茶沸かしの鐘」です。毎朝11時30分に鳴らしていて、周辺の地に時間を知らせると書いてありました。
「西院(さい)の河原」内は、撮影禁止ですが、何故か写真は撮りづらいですね。出口から1枚だけ撮ってみました。
西院の河原を出ると、正面に「天満宮」があります。神社名は石燈籠に刻まれた文字で確認できました。

9時41分に「表門」から出て行きました。私のあとからは誰も来られ無かったようです。


行きは、気づかなかった「二尊仏」を撮りました。ゆっくり石段を降り愛宕街道をゆっくり戻って行きます。
ここから愛宕山を目指される方も居ますし、私が若い頃は保津峡まで 飯盒炊飯に会社から歩いて登ったものです。近隣では「鮎茶屋 平野屋」や「愛宕念仏寺」がありますが、既に汗だくになっていたので帰路に着きました。
【化野念仏寺】




化野念仏寺は、華西山東漸院(かさいざんとうぜんいん)と号する浄土宗の寺院です。境内はに付近から出土した多数の石塔や石仏が建ち並ぶ。化野は古来より鳥辺野(とりべの)、蓮台野(れんだいの)とともに葬地として知られ、「誰とても とまるべきかは あだし野の 草の葉ごとに すがる白露」という西行の和歌にもあるように「化野の露」は、人生の無常をあらわす枕詞に使われています。寺伝によれば弘仁年間(810~824)に、弘法大師空海がこの地に葬られた人々を追善するため、小倉山寄りを金剛界、曼荼羅山寄りを胎蔵界と見立てて、千体の石仏を埋め、中間を流れる曼荼羅川の河原に五智如来の石仏を立て、一宇を建立し、五智如来寺と称したのが始まりといわれています。当初は真言宗でしたが鎌倉時代の初期に法然の常念仏道場となり浄土宗に改められ、名も念仏寺と呼ばれるようになりました。1712年(正徳2年)に黒田如水の外孫の寂道が再建したといわれている本堂には、本尊の阿弥陀如来坐像を安置し、境内には西院(さい)の河原を現出した多数の石塔石仏が立ち並んでいます。なお、毎年8月最終の土曜・日曜日の両日には、これらの石塔石仏に灯を供える千灯供養が行われ、多くの参詣者で賑わいます。



コロナ禍のためでしょうね、人と人との接触が無いように工夫されてました。拝観券が2枚程度入っているで、先客が居るのはこれで分かります

























竹林を下る時に、「角倉素庵(すみのくらそあん)の墓」を撮ってみました。肉眼では微かに見えるですが写真には無理でした。
角倉了以の長男で、土木事業家や貿易商。高瀬川の開運や朱印船貿易に父親とともに大事業に携わりました。角倉家の菩提寺である二尊院ではなく、この地に墓があるのは、不治の病を煩ったため自ら葬送地である化野を選んだとされています。




















ここから愛宕山を目指される方も居ますし、私が若い頃は保津峡まで 飯盒炊飯に会社から歩いて登ったものです。近隣では「鮎茶屋 平野屋」や「愛宕念仏寺」がありますが、既に汗だくになっていたので帰路に着きました。
【化野念仏寺】
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