「平家物語」の斎藤時頼(滝口入道)と横笛との悲恋の物語 滝口寺へ
祇王寺を9時52分に着き、そのまま階段を上がると滝口寺で、徒歩10歩で着きました。
滝口寺は、もと法然の弟子念仏房良鎮が開創した往生院の子院三宝寺と称し浄土宗に属したが、明治維新の際に、廃絶してしまいました。かつて三宝寺には滝口入道と横笛との悲恋の物語が伝わえられていたところから滝口寺と呼ばれていました。近年、有志によって庵室が建てられ清涼寺内の史跡となって蘇った。本堂には出家して滝口入道と称した斎藤時頼と横笛の坐像を本堂に安置。平重盛(清盛の嫡男・重盛)に仕えた武士の斎藤時頼(滝口入道時頼)は、平清盛の西八条殿での花見の宴で、横笛の舞姿を見て恋心を抱き、恋文を送るようになりました。やがて二人は恋に落ちましたが、時頼の父の厳しい叱責にあい、時頼は俗世を捨て奥嵯峨の往生院に出家してしまいます。横笛はその話を聞き、探し当てますが、滝口入道は、頑なに会うのを拒み、横笛は泣く泣く帰っていたそうです。滝口入道は修行の妨げになるため、女人禁制の高野山に移ります。それを聞いた横笛は悲観にくれて大堰川に身を投げたとも、奈良法華寺で尼になったとも言われてますが、心の傷は拭えきれず暫くしてこの世を去ったと言う。それを伝え聞いた滝口入道は、より一層修行に励み高野の聖といわれる高僧になったと伝わります。
門を入った左手に「拝観受付所」があるので、300円を納め由緒書きを貰いました。これから2012年(平成24年)4月15日以来の境内を散策です。
すっかり忘れてましたが、入ると直ぐにの左手に「新田義貞公首塚」がありました。「もっと石段を登った所にあったんちゃうの?」と、独り言。こちらは帰りに寄ることにして、先ずは石段を登ります。
石段を少し登った先に石碑があります。横笛が指を切った血で書いたとされる歌碑ですが、雑草が覆い茂っているので見えません。「山深み 思い入りぬる 柴の戸の まことの道に 我を導け」と書いてあるそうです。
それで2012年(平成24年)4月15日の写真を見てみると、歌碑が確認できます。秋口から春先になったら分かるかも知れません。
そこから石段は、まだまだ続きます。「こんなに石段上がったかなぁ」と呟きながらようやく平坦な所に出ました。
本堂の前に深く覆い茂った竹藪の中にあるのが「平家供養塔(十三重塔)」を先に見ました。滝口入道と平家一門の供養塔ですね。
こちらが「本堂」ですが、木々が覆い茂って全景が見えないですね。以前来た時と違い、茅葺きが綺麗になってました。修復されたんでしょう。
これから本堂内にあがりますが、堂内も随分綺麗になったなぁ・・・言いたいところ、そんなに変わってないかなぁ・・・と。
本堂横から靴を脱いで上がりました。この滝口寺では、秋の紅葉の時期でも空いてます。祇王寺には多くの観光客が来られるのにね。
「滝口入道木像」(右) 「横笛木像」(左)は 鎌倉後期の作で、眼が水晶(玉眼)となっており往生院遺物の一つだそうです。
この扁額に書かれている滝口寺の文字は、歌学者の佐佐木信綱によるものです。佐佐木信綱は、高山樗牛の新聞小説「滝口入道」にちなんで滝口寺と命名したそうです。
滝口寺は、浄土宗の寺院で、山号は小倉山。本尊は阿弥陀如来ですが、何処に祀られているのでしょうか?。
堂内で腰を下ろしたい所、蚊が多そうなので早々に出て行きました。堂内を出て案内の通り進みます。
案内にしたがって進むと、前方に「小松堂」が見えてきましたが、案内の矢印の方向に進みます。
先に行った祇王寺にも竹林はありましたが、ここ滝口寺にも竹林がありました。ただ蚊が多いのでゆっくり出来ません。
こちらが平重盛を祀る「小松堂」です。平重盛は、平安時代末期の武将・公卿。平清盛の嫡男。 保元・平治の乱で若き武将として父・清盛を助けて相次いで戦功を上げ、父の立身に伴って累進していき、最終的には左近衛大将、正二位内大臣にまで出世した。通称は、小松内府(こまつのないふ)、灯籠大臣(とうろうのだいじん)。
案内通りに進むと、再び本堂前に出て来ます。ただ蚊が多いので写真を撮っている指にも止まるので慌てて出て来ました。
本堂から下って、入口にある「新田義貞の首塚」に寄りました。鎌倉幕府を倒した武将新田義貞は越前で足利尊氏との戦いで討ち死にし、首が三条河原で晒しものにされました。妻の勾当内侍(こうとうのないし)は、夫の首を密かに盗み出し、出家してこの地で夫を弔ったといわれています。
「越前 称念寺」には、新田義貞公の墓所があって昨年の12月9日に行きました。そこに書いてあったのは、1338年(延元3年・建武5年)7月2日、新田義貞は越前国藤島(現在の福井市)の「灯明寺畷の戦い」において、斯波高経が送った細川出羽守、鹿草公相の軍勢と交戦中に眉間に矢を受け戦死。越前国で勢いを盛り返し、自ら京へ上洛しようと画策していた矢先の出来事であった。義貞公の遺骸は葬礼のため時衆の僧(時宗の陣僧)8人が輿に乗せ、坂井市丸岡町長崎の道場(往生院)に運ばれ、手厚く葬られました。これにより、称念寺は新田義貞公の菩提寺として知られるようになりました。他に茨城県県南の金龍寺も墓があります。真意は分かりませんね。
お隣には妻の「勾当内侍(こうとうのないし)の供養塔」があります。新田義貞の妻で、藤原経伊((つねただ)の娘。後醍醐天皇に仕え、建武中興ののち、義貞に見そめられ勅許あって、その妻となった。足利尊氏が挙兵して兵乱が起ったとき、義貞は内侍への愛にひかれ、たびたび戦機を逸したという。『太平記』によれば、1338年(延元3年・暦応元年)義貞が越前で敗死したのち洛北嵯峨に出家遁世した。
10時1分に滝口寺を出て行きました。帰る頃に、やっぱり蚊に刺されてました。痒かったのでポケムヒを付けながら歩くことになりましたね。
滝口寺を出て、祇王寺の前を通って「お帰り口」から石段を降りました。下に降りても駐車場には車は止まってません。
祇王寺の駐車場は3台しか止められないし、以前はタクシーが止まっていたので空いてることは稀でしたけど。滝口寺を出て、最近訪れた落柿舎の前を通って帰るつもりでした。そこで、落柿舎外にある⑫と⑬番の歌碑を見に寄って行くことにしました。ただ、こちらは天龍寺塔頭 弘源寺の境外地でしたね。そして入口に早速ありしまた。
⑬「瓢斎句碑」「秋風にふきのこされて墓一つ」。去来墳道標の碑の下の方に、微かに刻まれています。良く見なければ見逃してしまうでしょう。
次の⑫は、ここから35㍍先にあると道標に出ています。こちらも見に行くと・・・?。
⑫「西行歌碑」「牡鹿(おじか)なく小倉の山のすそ近みただ独りすむわが心かな」。傍らに西行井戸跡があり、ここが西行庵の跡であったことを証す唯一のものです。
西行法師が、この辺りの庵に住まわれていた時に使われたと伝わる井戸が、天龍寺塔頭 弘源寺の境外墓地に残されており、ここに歌碑がありました。
ここには、1988年(昭和63年)に天龍寺塔頭 弘源寺が、全国の歌人俳人に呼びかけ建立されたのが、ここにある歌碑句碑が並んでいます。
この墓地の中には「去来墓」があります。実際の墓は左京区吉田山の真如堂にあるそうですが、遺髪が埋葬されているそうです。
落柿舎で貰った案内には俳人で落柿舎8世・山鹿栢年(はくねん)、落柿舎11世・工藤芝蘭の墓が書いてありましたが、分かりません。写真は、「誓興上人墓」(左)「涌蓮上人墓」(右)でした。
この日は天気が良かったので、体を動かす散歩には調度良かったです。今日は、これで帰りました。
【滝口寺】
【落柿舎】
滝口寺は、もと法然の弟子念仏房良鎮が開創した往生院の子院三宝寺と称し浄土宗に属したが、明治維新の際に、廃絶してしまいました。かつて三宝寺には滝口入道と横笛との悲恋の物語が伝わえられていたところから滝口寺と呼ばれていました。近年、有志によって庵室が建てられ清涼寺内の史跡となって蘇った。本堂には出家して滝口入道と称した斎藤時頼と横笛の坐像を本堂に安置。平重盛(清盛の嫡男・重盛)に仕えた武士の斎藤時頼(滝口入道時頼)は、平清盛の西八条殿での花見の宴で、横笛の舞姿を見て恋心を抱き、恋文を送るようになりました。やがて二人は恋に落ちましたが、時頼の父の厳しい叱責にあい、時頼は俗世を捨て奥嵯峨の往生院に出家してしまいます。横笛はその話を聞き、探し当てますが、滝口入道は、頑なに会うのを拒み、横笛は泣く泣く帰っていたそうです。滝口入道は修行の妨げになるため、女人禁制の高野山に移ります。それを聞いた横笛は悲観にくれて大堰川に身を投げたとも、奈良法華寺で尼になったとも言われてますが、心の傷は拭えきれず暫くしてこの世を去ったと言う。それを伝え聞いた滝口入道は、より一層修行に励み高野の聖といわれる高僧になったと伝わります。
門を入った左手に「拝観受付所」があるので、300円を納め由緒書きを貰いました。これから2012年(平成24年)4月15日以来の境内を散策です。
すっかり忘れてましたが、入ると直ぐにの左手に「新田義貞公首塚」がありました。「もっと石段を登った所にあったんちゃうの?」と、独り言。こちらは帰りに寄ることにして、先ずは石段を登ります。
石段を少し登った先に石碑があります。横笛が指を切った血で書いたとされる歌碑ですが、雑草が覆い茂っているので見えません。「山深み 思い入りぬる 柴の戸の まことの道に 我を導け」と書いてあるそうです。
それで2012年(平成24年)4月15日の写真を見てみると、歌碑が確認できます。秋口から春先になったら分かるかも知れません。
そこから石段は、まだまだ続きます。「こんなに石段上がったかなぁ」と呟きながらようやく平坦な所に出ました。
本堂の前に深く覆い茂った竹藪の中にあるのが「平家供養塔(十三重塔)」を先に見ました。滝口入道と平家一門の供養塔ですね。
こちらが「本堂」ですが、木々が覆い茂って全景が見えないですね。以前来た時と違い、茅葺きが綺麗になってました。修復されたんでしょう。
これから本堂内にあがりますが、堂内も随分綺麗になったなぁ・・・言いたいところ、そんなに変わってないかなぁ・・・と。
本堂横から靴を脱いで上がりました。この滝口寺では、秋の紅葉の時期でも空いてます。祇王寺には多くの観光客が来られるのにね。
「滝口入道木像」(右) 「横笛木像」(左)は 鎌倉後期の作で、眼が水晶(玉眼)となっており往生院遺物の一つだそうです。
この扁額に書かれている滝口寺の文字は、歌学者の佐佐木信綱によるものです。佐佐木信綱は、高山樗牛の新聞小説「滝口入道」にちなんで滝口寺と命名したそうです。
滝口寺は、浄土宗の寺院で、山号は小倉山。本尊は阿弥陀如来ですが、何処に祀られているのでしょうか?。
堂内で腰を下ろしたい所、蚊が多そうなので早々に出て行きました。堂内を出て案内の通り進みます。
案内にしたがって進むと、前方に「小松堂」が見えてきましたが、案内の矢印の方向に進みます。
先に行った祇王寺にも竹林はありましたが、ここ滝口寺にも竹林がありました。ただ蚊が多いのでゆっくり出来ません。
こちらが平重盛を祀る「小松堂」です。平重盛は、平安時代末期の武将・公卿。平清盛の嫡男。 保元・平治の乱で若き武将として父・清盛を助けて相次いで戦功を上げ、父の立身に伴って累進していき、最終的には左近衛大将、正二位内大臣にまで出世した。通称は、小松内府(こまつのないふ)、灯籠大臣(とうろうのだいじん)。
案内通りに進むと、再び本堂前に出て来ます。ただ蚊が多いので写真を撮っている指にも止まるので慌てて出て来ました。
本堂から下って、入口にある「新田義貞の首塚」に寄りました。鎌倉幕府を倒した武将新田義貞は越前で足利尊氏との戦いで討ち死にし、首が三条河原で晒しものにされました。妻の勾当内侍(こうとうのないし)は、夫の首を密かに盗み出し、出家してこの地で夫を弔ったといわれています。
「越前 称念寺」には、新田義貞公の墓所があって昨年の12月9日に行きました。そこに書いてあったのは、1338年(延元3年・建武5年)7月2日、新田義貞は越前国藤島(現在の福井市)の「灯明寺畷の戦い」において、斯波高経が送った細川出羽守、鹿草公相の軍勢と交戦中に眉間に矢を受け戦死。越前国で勢いを盛り返し、自ら京へ上洛しようと画策していた矢先の出来事であった。義貞公の遺骸は葬礼のため時衆の僧(時宗の陣僧)8人が輿に乗せ、坂井市丸岡町長崎の道場(往生院)に運ばれ、手厚く葬られました。これにより、称念寺は新田義貞公の菩提寺として知られるようになりました。他に茨城県県南の金龍寺も墓があります。真意は分かりませんね。
お隣には妻の「勾当内侍(こうとうのないし)の供養塔」があります。新田義貞の妻で、藤原経伊((つねただ)の娘。後醍醐天皇に仕え、建武中興ののち、義貞に見そめられ勅許あって、その妻となった。足利尊氏が挙兵して兵乱が起ったとき、義貞は内侍への愛にひかれ、たびたび戦機を逸したという。『太平記』によれば、1338年(延元3年・暦応元年)義貞が越前で敗死したのち洛北嵯峨に出家遁世した。
10時1分に滝口寺を出て行きました。帰る頃に、やっぱり蚊に刺されてました。痒かったのでポケムヒを付けながら歩くことになりましたね。
滝口寺を出て、祇王寺の前を通って「お帰り口」から石段を降りました。下に降りても駐車場には車は止まってません。
祇王寺の駐車場は3台しか止められないし、以前はタクシーが止まっていたので空いてることは稀でしたけど。滝口寺を出て、最近訪れた落柿舎の前を通って帰るつもりでした。そこで、落柿舎外にある⑫と⑬番の歌碑を見に寄って行くことにしました。ただ、こちらは天龍寺塔頭 弘源寺の境外地でしたね。そして入口に早速ありしまた。
⑬「瓢斎句碑」「秋風にふきのこされて墓一つ」。去来墳道標の碑の下の方に、微かに刻まれています。良く見なければ見逃してしまうでしょう。
次の⑫は、ここから35㍍先にあると道標に出ています。こちらも見に行くと・・・?。
⑫「西行歌碑」「牡鹿(おじか)なく小倉の山のすそ近みただ独りすむわが心かな」。傍らに西行井戸跡があり、ここが西行庵の跡であったことを証す唯一のものです。
西行法師が、この辺りの庵に住まわれていた時に使われたと伝わる井戸が、天龍寺塔頭 弘源寺の境外墓地に残されており、ここに歌碑がありました。
ここには、1988年(昭和63年)に天龍寺塔頭 弘源寺が、全国の歌人俳人に呼びかけ建立されたのが、ここにある歌碑句碑が並んでいます。
この墓地の中には「去来墓」があります。実際の墓は左京区吉田山の真如堂にあるそうですが、遺髪が埋葬されているそうです。
落柿舎で貰った案内には俳人で落柿舎8世・山鹿栢年(はくねん)、落柿舎11世・工藤芝蘭の墓が書いてありましたが、分かりません。写真は、「誓興上人墓」(左)「涌蓮上人墓」(右)でした。
この日は天気が良かったので、体を動かす散歩には調度良かったです。今日は、これで帰りました。
【滝口寺】
【落柿舎】
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