臨済宗妙心寺派 大本山妙心寺「法堂 大庫裏」へ
「敷地神社 (わら天神宮)」を出たのが10時20分過ぎで時間も早かったので、行ったことが無いと聞いていた妙心寺に誘いました。わら天神宮を出て、廬山寺通りに出ます。西に進み馬代通りを南下、嵐電の踏切や一条通り、サッカー界のレジェンド釜本さんの母校である山城高校を過ぎた最初の信号・・・上ノ下立売通りを右折し程なく西に進むと妙心寺第二駐車場に10時30分過ぎに着きました。
東京の家族は、妙心寺が初めてで、石畳の参道をゆっくり歩いて行きます。この参道では時代劇の撮影が多いとか、テレビドラマの撮影でも良く使われるとか案内しながら歩いていくと拝観受付所がある「大方丈玄関」に着きました。
10時39分に着きました。妙心寺境内は連休の谷間や、明日から彼岸の入りと言うこともあって多くの人が来られています。
臨済宗妙心寺派 大本山妙心寺 法堂 大庫裏の拝観は、ここからです。今年の1月12日からガイドんさの案内が無くなり自由拝観となったが良かったです。団体でついていくは面倒だったから。
ここは東京の家族だけ入りました。拝観チケット販売所で拝観料700円を納め、「大方丈」から案内です。
「大方丈(重文)」は、1654年(承応3年)8月の建立です。方丈内のご本尊、「阿弥陀三尊像」は、元々石清水八幡宮の奥之院に祀られていましたが、明治の神仏分離令により妙心寺で祀られるようになりました。襖絵は狩野探幽と狩野益信の筆によるものです。
重要文化財に指定されている大方丈は、入母屋造重層檜皮葺、1654年(承応3年)の建造、方丈は住持の居所を意味したが、今は檀信徒の祖先を祀って、その供養を行う所、または説教、講演その他の会合の場所となり、多数賓客を応待するところにもなる。
「大方丈」より、この先の「大庫裏」を見せてあげたかったので、ここはあっさり見て次へと誘いました。
以前の大庫裏は撮影禁止だったので暗かったけど、今は撮影可となったからかどうか随分明るくなりました。大廊下から、いよいよ次が大庫裏です。
こんな大きな竈なんか見たことないのでしょう、ここに来て驚いてました。また、屋根の高さもね。煙出しの話しもさせて貰いました。
日本国内にある寺院の中でも屈指の大きさを誇る庫裏であることから「大庫裏」と呼ばれています。この庫裏は1528年(享禄元年)創建で1653年(承応2年)に改建されている。東西に約18㍍、南北に約24㍍、高さ約15㍍もあり、切妻造単層杮葺で重要文化財に指定されている。庫裏とは寺院の生活の場である。この庫裏は創建より増改築を重ね1808年(文化5年)には瓦葺に葺き替えられた。しかし建物がその重みに耐えられず東西方向に傾き、これ以上放置すると倒れる恐れがあったため1990年(平成2年)から1997年(平成9年)まで足掛け8年で改建、当初の姿になった。
こちらは「大竈戸(おおかまど)」になります。竈戸の大きさや案内文にあったように200人もの米を炊けたとは驚きの連続だったようです。
一番手前はお湯を沸かす釜、その奥が米や汁物、おかずを炊いた釜になる。この釜で米を二斗(にとう)炊くことが出来る。二斗とは二合の百倍になるので一人一合として二百人分の米が炊けたことになる。大きな釜で米を炊くとお焦げが出来きるが、お焦げが無駄にならないようにお湯をはり最後に香ばしい香りのお茶代わりとした。また、この大きな釜を別の場所で洗うのは大変なので、釜はこの場所に据えたまま洗い、テコの原理でその場に水を空けていた。釜側が高く、手前に向かって低く傾斜がついる。また、板と板の間に隙間を設けて下に水が流れ落ちるようになっている。なお釜の上の壁が波打っているが、ここには貫材が入っており、立ち上がる水蒸気により痛まないように工夫をされている。
以前は、大庫裏の西側も開いてませんでしたが、このように外も見られます。ここから大きな井戸が見えました。
こちらは「小庫裏」と言います。天井を見上げると煙出しも見えますね。
ここは普段の生活ときに使われた竈戸である。やはり煙突は屋根上の煙出しから排煙されるようになっている。この竈とは解体修理工事をした際の釜跡から復元したものでる。
その反対側には「火番部屋(こばんべや)」があります。僧侶の方の寝泊まりと書いてありましたが、あまりに狭いので辛いですね。
この部屋では、まかないの準備をする修行僧の生活スペースである。禅寺では座って半畳寝て一畳と言うので、3人から4人の修行僧が寝泊まりをしながら火の番や食事の準備をしていた部屋になる。その隣は土間になっているが建物のほぼ中心にあたる。年間を通して気温の変動が少ない場所なので、食料の保存場所として使用されていた。いわゆる床下収納のような役割であった。
天井には「龍図」があるので、「後で本物が見られるよ」と。大方丈から大庫裏と来て、あとは法堂が残っています。
、今日も「食堂(じきどう)」は閉まったままですね。大庫裏を出て大廊下に出て来ました。
ここに入ってきたとき、ここに腰を下ろして家族連れが座られていたので、帰りに撮りました。
ここから「法堂」に入ります。堂内の撮影禁止は変わりませんでした。入口でチケットを見せ靴を脱いだ堂内を巡ります。
堂内に入ると、狩野探幽の作「雲龍図」を目にします。八方睨みの龍で、龍を見ながら一周することを勧めました。この龍は、お堂を火災から守るために描かれているが通例です。
最後に出口付近にある国宝「黄鐘調鐘」です。8月20日に教えて貰ったとおりボタンを黙って押すと鐘の音が大音量で鳴ったので東京の家族は驚いてましたし、堂内に居た方は、このあとボタン押されましたね。
もとは廃寺になった浄金剛院にあったもので、698年(文武天皇2年)の作と伝わります。反時計回りで法堂に入ると最後に目にするかと思います。
重要文化財に指定されている法堂は、入母屋造重層本瓦葺、1656年(明暦2年)の建造、住持の演法や重要な儀式の行われる所。天井には狩野探幽法眼守信の大傑作龍図の図がある。
10時55分頃に、法堂を出ました。このあとの予定を聞くと、まだ時間があるようなので退蔵院に寄って行くことに。ここではお土産を持って買って貰うと・・・。
【妙心寺】
東京の家族は、妙心寺が初めてで、石畳の参道をゆっくり歩いて行きます。この参道では時代劇の撮影が多いとか、テレビドラマの撮影でも良く使われるとか案内しながら歩いていくと拝観受付所がある「大方丈玄関」に着きました。
10時39分に着きました。妙心寺境内は連休の谷間や、明日から彼岸の入りと言うこともあって多くの人が来られています。
臨済宗妙心寺派 大本山妙心寺 法堂 大庫裏の拝観は、ここからです。今年の1月12日からガイドんさの案内が無くなり自由拝観となったが良かったです。団体でついていくは面倒だったから。
ここは東京の家族だけ入りました。拝観チケット販売所で拝観料700円を納め、「大方丈」から案内です。
「大方丈(重文)」は、1654年(承応3年)8月の建立です。方丈内のご本尊、「阿弥陀三尊像」は、元々石清水八幡宮の奥之院に祀られていましたが、明治の神仏分離令により妙心寺で祀られるようになりました。襖絵は狩野探幽と狩野益信の筆によるものです。
重要文化財に指定されている大方丈は、入母屋造重層檜皮葺、1654年(承応3年)の建造、方丈は住持の居所を意味したが、今は檀信徒の祖先を祀って、その供養を行う所、または説教、講演その他の会合の場所となり、多数賓客を応待するところにもなる。
「大方丈」より、この先の「大庫裏」を見せてあげたかったので、ここはあっさり見て次へと誘いました。
以前の大庫裏は撮影禁止だったので暗かったけど、今は撮影可となったからかどうか随分明るくなりました。大廊下から、いよいよ次が大庫裏です。
こんな大きな竈なんか見たことないのでしょう、ここに来て驚いてました。また、屋根の高さもね。煙出しの話しもさせて貰いました。
日本国内にある寺院の中でも屈指の大きさを誇る庫裏であることから「大庫裏」と呼ばれています。この庫裏は1528年(享禄元年)創建で1653年(承応2年)に改建されている。東西に約18㍍、南北に約24㍍、高さ約15㍍もあり、切妻造単層杮葺で重要文化財に指定されている。庫裏とは寺院の生活の場である。この庫裏は創建より増改築を重ね1808年(文化5年)には瓦葺に葺き替えられた。しかし建物がその重みに耐えられず東西方向に傾き、これ以上放置すると倒れる恐れがあったため1990年(平成2年)から1997年(平成9年)まで足掛け8年で改建、当初の姿になった。
こちらは「大竈戸(おおかまど)」になります。竈戸の大きさや案内文にあったように200人もの米を炊けたとは驚きの連続だったようです。
一番手前はお湯を沸かす釜、その奥が米や汁物、おかずを炊いた釜になる。この釜で米を二斗(にとう)炊くことが出来る。二斗とは二合の百倍になるので一人一合として二百人分の米が炊けたことになる。大きな釜で米を炊くとお焦げが出来きるが、お焦げが無駄にならないようにお湯をはり最後に香ばしい香りのお茶代わりとした。また、この大きな釜を別の場所で洗うのは大変なので、釜はこの場所に据えたまま洗い、テコの原理でその場に水を空けていた。釜側が高く、手前に向かって低く傾斜がついる。また、板と板の間に隙間を設けて下に水が流れ落ちるようになっている。なお釜の上の壁が波打っているが、ここには貫材が入っており、立ち上がる水蒸気により痛まないように工夫をされている。
以前は、大庫裏の西側も開いてませんでしたが、このように外も見られます。ここから大きな井戸が見えました。
こちらは「小庫裏」と言います。天井を見上げると煙出しも見えますね。
ここは普段の生活ときに使われた竈戸である。やはり煙突は屋根上の煙出しから排煙されるようになっている。この竈とは解体修理工事をした際の釜跡から復元したものでる。
その反対側には「火番部屋(こばんべや)」があります。僧侶の方の寝泊まりと書いてありましたが、あまりに狭いので辛いですね。
この部屋では、まかないの準備をする修行僧の生活スペースである。禅寺では座って半畳寝て一畳と言うので、3人から4人の修行僧が寝泊まりをしながら火の番や食事の準備をしていた部屋になる。その隣は土間になっているが建物のほぼ中心にあたる。年間を通して気温の変動が少ない場所なので、食料の保存場所として使用されていた。いわゆる床下収納のような役割であった。
天井には「龍図」があるので、「後で本物が見られるよ」と。大方丈から大庫裏と来て、あとは法堂が残っています。
、今日も「食堂(じきどう)」は閉まったままですね。大庫裏を出て大廊下に出て来ました。
ここに入ってきたとき、ここに腰を下ろして家族連れが座られていたので、帰りに撮りました。
ここから「法堂」に入ります。堂内の撮影禁止は変わりませんでした。入口でチケットを見せ靴を脱いだ堂内を巡ります。
堂内に入ると、狩野探幽の作「雲龍図」を目にします。八方睨みの龍で、龍を見ながら一周することを勧めました。この龍は、お堂を火災から守るために描かれているが通例です。
最後に出口付近にある国宝「黄鐘調鐘」です。8月20日に教えて貰ったとおりボタンを黙って押すと鐘の音が大音量で鳴ったので東京の家族は驚いてましたし、堂内に居た方は、このあとボタン押されましたね。
もとは廃寺になった浄金剛院にあったもので、698年(文武天皇2年)の作と伝わります。反時計回りで法堂に入ると最後に目にするかと思います。
重要文化財に指定されている法堂は、入母屋造重層本瓦葺、1656年(明暦2年)の建造、住持の演法や重要な儀式の行われる所。天井には狩野探幽法眼守信の大傑作龍図の図がある。
10時55分頃に、法堂を出ました。このあとの予定を聞くと、まだ時間があるようなので退蔵院に寄って行くことに。ここではお土産を持って買って貰うと・・・。
【妙心寺】
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