松尾芭蕉が晩年3度も訪問した俳人向井去来の庵跡 落柿舎へ
二尊院を出て、全身汗だくになったので帰ろうと思い歩いて行くと、落柿舎の前を通りました。今年の5月19日に来てますが、その時に撮り忘れていたものがあったのと、化野念仏寺から休憩無しで歩いて来たので、ここで休んで行きたいぁと思い入ることにしました。
10時26分に入りました。門を入った右手に「拝観受付所」があるので300円を払います。
受付で「写真は何処を撮ってもらっても結構です」と言われましたが、5月19日にも来ているので知ってます。
誰も居ないようなので、先ずは「本庵」に入ります。その前に「簔と笠」がありますが、これは庵主の在宅を示すものです。
採取な本庵の「玄関」から中に這いました。入ると見上げると、茅葺き屋根の裏側が見えました。珍しいですね。
そして今日は、「土間」が開いてました。5月19日に来た時は入れなかったので興味津々、入ってみます。
何度か来てますが、「土間」に入ったのは初めてです。"おくどさん"もありましたね。
玄関から上がることは出来ませんが、ここから写真を撮ってみました。ここからは「去来像」もはっきり見えますね。
次に「居間」の縁側でやっと座りました。ここで汗を拭い、水分を補給してしばらく座ってぼんやりと。
この縁側に座って室内を見ると「去来像」は見えないです。休憩したあと、ここに来た目的である句碑巡りを開始です。前回来た時、撮り忘れがあったので気になってました。
①「向井去来句碑」「柿主(かきぬし)や梢(こずえ)はちかきあらし山」で、1772年(安永元年)に建立された洛中第一に古い句碑と言われています。
本庵横の「手水鉢」です。何気なく置いてある青モミジが趣があって綺麗です。
②「松尾芭蕉句碑」「五月雨(さみだれ)や色紙へぎたる壁の跡(あと)」で、芭蕉が「嵯峨日記」の最後にしるした句です。
③「高浜虚子句碑」「凡(およ)そ天下に去来ほどの小さき墓に詣(まい)りけり」。虚子の生前最後の自筆句碑だそうです。
④「昭憲皇太后(第122代明治天皇の皇后)句碑」「加茂川のはやせの波のうちこえしことばのしらべ世にひびきけり」でした。
⑤「釋瓢斎供養塔」。落柿舎の昭和復興に功のあった十世庵主の永井瓢斎(ながいひょうさい)の供養塔です。
⑥「俳人塔」です。1970年(昭和45年)に十一世庵主工藤芝蘭子(くどうしらんし) が、過去・現在・未来も含めた俳人供養のために建立したもの。
その左横⑦「平澤興句碑」「春の雨天地(あめつち)ここに俳人塔」。平澤興は元京大総長、俳人塔竣工祭の折り作。
次に「次庵」に移動します。⑧「保田與重郎句碑」「何もない庭の日ざしや冬来る」。昭和の文人保田與重郎の句。
前回来た時は、遠くからでも聞こえた「鹿威し」でしたが、この日は水は出てませんでしたね。
次庵の奥、⑨「工藤芝蘭子句碑」「十三畳半の落柿舎冬支度(ふゆじたく)」。工藤芝蘭子は落柿舎十一世庵主。
⑩「山鹿栢年句碑」「草の戸やわが名月の山はなれ」。山鹿栢年は落柿舎八世庵主。近代における落柿舎復興の営みは明治の栢年より始まった。
この落柿舎のもっとも奥には「藤棚」があって、そこには⑪「下平可都三(しもだいらかつみ)句碑」「草の戸やわが名月の山はなれ」がありました。
これで句碑巡りは終わりです。5月19日に来た時、見損ねたのは①、⑦、⑧、⑩で、とくに⑧と⑩は探しにくいと思います。
私は、俳句については書いた事が無いので、拝観受付所で貰う「落柿舎投句短冊」を、ここで書いて投函することはできないです。
10時36分に、落柿舎を出ました。受付で貰った冊子の中で、⑫と⑬は庵外です。また、別の日に見てみたいと思い帰路に着きました。
落柿舎を出て、ここからゆっくり歩いて帰りました。帰って直ぐに水シャワーを浴び冷たいお茶を一気飲みして、生き返った次第です。最近、こうして遠距離を歩くことが無いので運動不足には良かったですが、やっぱり暑いので体には堪えましたね。
【落柿舎】
10時26分に入りました。門を入った右手に「拝観受付所」があるので300円を払います。
受付で「写真は何処を撮ってもらっても結構です」と言われましたが、5月19日にも来ているので知ってます。
誰も居ないようなので、先ずは「本庵」に入ります。その前に「簔と笠」がありますが、これは庵主の在宅を示すものです。
採取な本庵の「玄関」から中に這いました。入ると見上げると、茅葺き屋根の裏側が見えました。珍しいですね。
そして今日は、「土間」が開いてました。5月19日に来た時は入れなかったので興味津々、入ってみます。
何度か来てますが、「土間」に入ったのは初めてです。"おくどさん"もありましたね。
玄関から上がることは出来ませんが、ここから写真を撮ってみました。ここからは「去来像」もはっきり見えますね。
次に「居間」の縁側でやっと座りました。ここで汗を拭い、水分を補給してしばらく座ってぼんやりと。
この縁側に座って室内を見ると「去来像」は見えないです。休憩したあと、ここに来た目的である句碑巡りを開始です。前回来た時、撮り忘れがあったので気になってました。
①「向井去来句碑」「柿主(かきぬし)や梢(こずえ)はちかきあらし山」で、1772年(安永元年)に建立された洛中第一に古い句碑と言われています。
本庵横の「手水鉢」です。何気なく置いてある青モミジが趣があって綺麗です。
②「松尾芭蕉句碑」「五月雨(さみだれ)や色紙へぎたる壁の跡(あと)」で、芭蕉が「嵯峨日記」の最後にしるした句です。
③「高浜虚子句碑」「凡(およ)そ天下に去来ほどの小さき墓に詣(まい)りけり」。虚子の生前最後の自筆句碑だそうです。
④「昭憲皇太后(第122代明治天皇の皇后)句碑」「加茂川のはやせの波のうちこえしことばのしらべ世にひびきけり」でした。
⑤「釋瓢斎供養塔」。落柿舎の昭和復興に功のあった十世庵主の永井瓢斎(ながいひょうさい)の供養塔です。
⑥「俳人塔」です。1970年(昭和45年)に十一世庵主工藤芝蘭子(くどうしらんし) が、過去・現在・未来も含めた俳人供養のために建立したもの。
その左横⑦「平澤興句碑」「春の雨天地(あめつち)ここに俳人塔」。平澤興は元京大総長、俳人塔竣工祭の折り作。
次に「次庵」に移動します。⑧「保田與重郎句碑」「何もない庭の日ざしや冬来る」。昭和の文人保田與重郎の句。
前回来た時は、遠くからでも聞こえた「鹿威し」でしたが、この日は水は出てませんでしたね。
次庵の奥、⑨「工藤芝蘭子句碑」「十三畳半の落柿舎冬支度(ふゆじたく)」。工藤芝蘭子は落柿舎十一世庵主。
⑩「山鹿栢年句碑」「草の戸やわが名月の山はなれ」。山鹿栢年は落柿舎八世庵主。近代における落柿舎復興の営みは明治の栢年より始まった。
この落柿舎のもっとも奥には「藤棚」があって、そこには⑪「下平可都三(しもだいらかつみ)句碑」「草の戸やわが名月の山はなれ」がありました。
これで句碑巡りは終わりです。5月19日に来た時、見損ねたのは①、⑦、⑧、⑩で、とくに⑧と⑩は探しにくいと思います。
私は、俳句については書いた事が無いので、拝観受付所で貰う「落柿舎投句短冊」を、ここで書いて投函することはできないです。
10時36分に、落柿舎を出ました。受付で貰った冊子の中で、⑫と⑬は庵外です。また、別の日に見てみたいと思い帰路に着きました。
落柿舎を出て、ここからゆっくり歩いて帰りました。帰って直ぐに水シャワーを浴び冷たいお茶を一気飲みして、生き返った次第です。最近、こうして遠距離を歩くことが無いので運動不足には良かったですが、やっぱり暑いので体には堪えましたね。
【落柿舎】
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