「細川護熙 美の世界」瀟湘八景図襖絵 奉納特別公開 建仁寺へ
青蓮院門跡を出て、タクシーに乗ることも考えましたが、歩いて建仁寺に向かうことにしました。神宮道りを南下し、途中円山公園を横切ります。その頃になると来ているジャンパーが暑くなってきて脱ぎました。大雲院祇園閣も通り過ぎ、高台寺 和久傳の前を西に進み、道なりに東大路通りに出ると、そこからは、真っ直ぐ西に進み突き当たりの左が建仁寺の北門前に出られるわけです。
2013年(平成25年)の年末年始の休みを利用して会社が、建仁寺がある祇園から移転し、毎日来ていた建仁寺に行くことも稀になりました。京都文化協会の賛助会員のため、建仁寺には無料で入れます。それで、会社の昼休みには度々建仁寺に来てました。特に紅葉時期には毎日約2週間通いましたね。。青蓮院から少し遠回りして歩いて来ましたが、祇園の街並みは懐かしいですね。
10時10分に「北門」に着きました。青蓮院門跡から26分もかかったのは、少し懐かしい祇園の街並みを見て回ったからです。
建仁寺の拝観受付所は、「庫裏」の中にあります。ここを入るのは2018年(平成30年)2月23日以来ですが、この時は朱印帳を買いに来ただけで拝観はしてません。
拝観となると2016年(平成28年)12月2日の夜間特別拝観以来、昼間となると2016年(平成28年)9月23日で、約5年振りの訪問となりました。それで建仁寺について復習です。
1202年(建仁2年)鎌倉幕府第2代将軍源頼家が寺域を寄進し栄西(ようさい)禅師を開山として宋国百丈山を模して建立されました。元号を寺号とし、山号を東山(とうざん)と称す。創建時は真言・止観の二院を構え天台・密教・禅の三宗兼学の道場として当時の情勢に対応していました。その後、寛元・康元年間の火災等で境内は荒廃するも、1258年(正嘉元年)東福寺開山円爾弁円(えんにべんえん)が当山に入寺し境内を復興、禅も盛んとなりました。1259年(正元元年)宋の禅僧、建長寺開山蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が入寺してからは禅の作法、規矩(禅院の規則)が厳格に行われ純粋に禅の道場となりました。やがて室町幕府により中国の制度にならった京都五山が制定され、その第三位として厚い保護を受け大いに栄えますが、戦乱と幕府の衰退により再び荒廃します。ようやく天正年間(1573~92年)に安国寺恵瓊が方丈や仏殿を移築しその復興が始まり、五山第3位の格式を持ちます。徳川幕府の保護のもと堂塔が再建修築され制度や学問が整備され、明治に入り政府の宗教政策等により臨済宗建仁寺派としての分派独立、建仁寺はその大本山となりました。また廃仏毀釈、神仏分離により塔頭の統廃合が行われ、境内が半分近く縮小されて現在に至っています。
最初に、国宝「風神雷神図屏風」(複製)を見ました。本物は9月12日まで京都国立博物館 特別展「京(みやこ)の国宝」に展示されてました。行けなかったけど・・・。
入ったのは10時12分頃でしたが、ここの開門は10時です。空いてるかなぁ・・・と思いきや、ここは人が多かったです。修学旅行生も来てたしね。平日でも観光客は戻って来てるように思えました。
ここに来て、最初の庭園が「〇△口乃庭」です。
単純な三つの図形は宇宙の根源的形態を示し、禅宗の四大思想(地水火風)を、地(口)水(〇)火(△)で象徴したものと言われている。
次ぎに北山安夫氏の監修により小堀泰巖住職により作庭された「潮音庭」です。この周りは絶えず人が通られますが、不思議と途切れる時があるので待ちました。
建仁寺本坊の中庭にあり、中央に三尊石を、その東に座禅石、周りにモミジを配した枯淡な四方正面の禅庭です。
ここは秋の紅葉は大変綺麗です。また、会員限定ですがライトアップ日も綺麗でした。限定入場のため人も少ないしね。
潮音庭を眺めていると、以前と違い「大書院」の様子が変わっています。帰ってから知ったことで、細川護煕元首相筆「瀟湘八景図襖絵(しょうしょうはっけいずふすまえ)奉納時特別公開」を6月6日(日)~12月31日(金)されてた訳です。
建仁寺が細川護煕元首相に自作の襖絵を依頼、この度奉納されたようです。12枚24面を約1年かけて描かれたようです。
「瀟湘八景図 烟寺晩鐘(えんじばんしょう)」
手前「瀟湘八景図 山市晴嵐(さんしせいらん)」、奥「瀟湘八景図 魚村夕焼照(ぎょそんせきしょう)」
「瀟湘八景図 洞庭秋月(どうていしゅうげつ)」
右手前「瀟湘八景図 遠浦帰帆(えんぽきはん)」、右奥と左全面「瀟湘八景図 平沙落雁(へいさらくがん)」
「瀟湘八景図 瀟湘夜雨(しょうしょうやう)」
「瀟湘八景図 江天暮雪(こうてんぼせつ)」
この「達磨図」も細川護煕元首相が奉納されました。「不識」(ふしき)とは、達磨大師の一言です。妙心寺塔頭 養徳院の御朱印で知りました。
今回、襖絵が奉納されたのは建仁寺の本坊大書院です。中庭を望む場所に建つ本坊大書院は、控えの間として1940年(昭和15年)に建築された書院です。元々は何も描かれていない白い襖が入っていましたが、建仁寺を開いた栄西禅師の生誕880年を記念して、細川氏に襖絵の制作が依頼されましたようです。
細川護煕元首相の襖絵は、今年「竹の寺 地蔵院」でも見せて貰いました。次に大書院を出て小書院に入ります。
「舟出」染色作家 鳥羽美花(とば みか)さんの作品。2014年(平成26年)に奉納されたもの。
「伝説の湖」、「型染め」という日本独特の染色技法を研究されている作家さんだそうです。
上の写真の裏側の部屋には「凪」という作品が展示されてました。作者は同じで、こちら「型染め」の染色技法です。
この部屋の前には「〇△口乃庭」があって、床几が置かれてます。この間にも「〇△口の掛け軸」がありました。
こちらの部屋は、大書院でも小書院でも方丈でも無い・・・答えは「唐子の間」でした。襖絵は「唐子遊戯図」で、田村月撫筆と書いてありました。
今日は時間がたっぷりあるので、隅々まで見て行きます。これから方丈内の高精細複製品「襖絵」を反時計回り。方丈の北東角から。
下間一の間 「花鳥図襖(重文)海北友松筆」の8面。
裏の間 「対島行列輿」、「国宝 風神雷神図屏風」俵屋宗達筆、「風神雷神」金澤翔子書。金澤翔子書品展は、ここで2012年(平成24年)に、見せて貰いました。本人さんも来られてましたね。
衣鉢の間 「琴棋書画図襖」(重文)海北友松筆の10面。
ここで、スリッパに履き替えて庭に降ります。久々に茶室「東陽坊」まで行ってみます。
途中には、今まで気づかなかった「田村月撫遺愛の大硯」がありました。先程「唐子の間」で見た「唐子遊戯図」は、この硯で生み出されました。
次に垣根越しに「清涼軒」を撮りました。茶室内は6畳と8畳の広間だそうです。
東陽坊に入る前に「安国寺恵瓊首塚」があります。戦国武将で、関ヶ原の戦いで敗れ京都六条河原で斬首。その首を建仁寺の僧侶が持ち帰り葬ったと伝わるものです。
茶室「東陽坊」までやって来ました。茶室内部の躙口や連子窓は、ガラス越しになっており見られます。
再び「方丈」に戻りました。今日は、多くの人と擦れ違いました。次は方丈の南西角から見て行きます。
檀那の間 「山水図襖」(重文)海北友松筆の8面。
室中の間 本尊の十一面観音菩薩坐像が祀られています。「竹林七賢図」(重文)海北友松筆の16面。
礼の間 「雲龍図」(重文)海北友松筆の8面。
最後に、「大雄苑」を撮りました。昭和初期に、中国の百丈山の旧名が大雄山であったことに由来し、加藤熊吉が作庭しました枯山水庭園です。
最後に「法堂」に行き、「双龍図」を見に行きます。方丈から渡り廊下を通りますが、以前、番号を押して扉を開け閉めしてたんですが、無くなってました。
その前に花頭窓から大雄苑を見ました。天気が良いので、庭園が綺麗に見えます。
そして「方丈」ですが、この時は人の流れが止まってました。良いのが撮れました。
「双龍図」小泉淳作筆、2002年(平成14年)建仁寺開創800年を記念して奉納されました。
法堂の須弥壇中央に本尊 釈迦如来坐像、脇侍に迦葉(かしょう)・阿難(あなん)尊者立像を安置されています。
法堂から方丈へ戻る途中の渡り廊下です。以前は一般の方が横切れたのに、出来なくなってます。このブログを書いてて気づいた次第です。
長らく来て無かったら売店の位置も変わってました。時間があったので床几に座って休憩していると美味しいお茶をいただきました。
ここには10時10分に入って、10時53分に建仁寺本坊を出ました。次の目的地の開門が11時のため、ここで時間調整をさせて貰いました。
【建仁寺】
2013年(平成25年)の年末年始の休みを利用して会社が、建仁寺がある祇園から移転し、毎日来ていた建仁寺に行くことも稀になりました。京都文化協会の賛助会員のため、建仁寺には無料で入れます。それで、会社の昼休みには度々建仁寺に来てました。特に紅葉時期には毎日約2週間通いましたね。。青蓮院から少し遠回りして歩いて来ましたが、祇園の街並みは懐かしいですね。
10時10分に「北門」に着きました。青蓮院門跡から26分もかかったのは、少し懐かしい祇園の街並みを見て回ったからです。
建仁寺の拝観受付所は、「庫裏」の中にあります。ここを入るのは2018年(平成30年)2月23日以来ですが、この時は朱印帳を買いに来ただけで拝観はしてません。
拝観となると2016年(平成28年)12月2日の夜間特別拝観以来、昼間となると2016年(平成28年)9月23日で、約5年振りの訪問となりました。それで建仁寺について復習です。
1202年(建仁2年)鎌倉幕府第2代将軍源頼家が寺域を寄進し栄西(ようさい)禅師を開山として宋国百丈山を模して建立されました。元号を寺号とし、山号を東山(とうざん)と称す。創建時は真言・止観の二院を構え天台・密教・禅の三宗兼学の道場として当時の情勢に対応していました。その後、寛元・康元年間の火災等で境内は荒廃するも、1258年(正嘉元年)東福寺開山円爾弁円(えんにべんえん)が当山に入寺し境内を復興、禅も盛んとなりました。1259年(正元元年)宋の禅僧、建長寺開山蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が入寺してからは禅の作法、規矩(禅院の規則)が厳格に行われ純粋に禅の道場となりました。やがて室町幕府により中国の制度にならった京都五山が制定され、その第三位として厚い保護を受け大いに栄えますが、戦乱と幕府の衰退により再び荒廃します。ようやく天正年間(1573~92年)に安国寺恵瓊が方丈や仏殿を移築しその復興が始まり、五山第3位の格式を持ちます。徳川幕府の保護のもと堂塔が再建修築され制度や学問が整備され、明治に入り政府の宗教政策等により臨済宗建仁寺派としての分派独立、建仁寺はその大本山となりました。また廃仏毀釈、神仏分離により塔頭の統廃合が行われ、境内が半分近く縮小されて現在に至っています。
最初に、国宝「風神雷神図屏風」(複製)を見ました。本物は9月12日まで京都国立博物館 特別展「京(みやこ)の国宝」に展示されてました。行けなかったけど・・・。
入ったのは10時12分頃でしたが、ここの開門は10時です。空いてるかなぁ・・・と思いきや、ここは人が多かったです。修学旅行生も来てたしね。平日でも観光客は戻って来てるように思えました。
ここに来て、最初の庭園が「〇△口乃庭」です。
単純な三つの図形は宇宙の根源的形態を示し、禅宗の四大思想(地水火風)を、地(口)水(〇)火(△)で象徴したものと言われている。
次ぎに北山安夫氏の監修により小堀泰巖住職により作庭された「潮音庭」です。この周りは絶えず人が通られますが、不思議と途切れる時があるので待ちました。
建仁寺本坊の中庭にあり、中央に三尊石を、その東に座禅石、周りにモミジを配した枯淡な四方正面の禅庭です。
ここは秋の紅葉は大変綺麗です。また、会員限定ですがライトアップ日も綺麗でした。限定入場のため人も少ないしね。
潮音庭を眺めていると、以前と違い「大書院」の様子が変わっています。帰ってから知ったことで、細川護煕元首相筆「瀟湘八景図襖絵(しょうしょうはっけいずふすまえ)奉納時特別公開」を6月6日(日)~12月31日(金)されてた訳です。
建仁寺が細川護煕元首相に自作の襖絵を依頼、この度奉納されたようです。12枚24面を約1年かけて描かれたようです。
「瀟湘八景図 烟寺晩鐘(えんじばんしょう)」
手前「瀟湘八景図 山市晴嵐(さんしせいらん)」、奥「瀟湘八景図 魚村夕焼照(ぎょそんせきしょう)」
「瀟湘八景図 洞庭秋月(どうていしゅうげつ)」
右手前「瀟湘八景図 遠浦帰帆(えんぽきはん)」、右奥と左全面「瀟湘八景図 平沙落雁(へいさらくがん)」
「瀟湘八景図 瀟湘夜雨(しょうしょうやう)」
「瀟湘八景図 江天暮雪(こうてんぼせつ)」
この「達磨図」も細川護煕元首相が奉納されました。「不識」(ふしき)とは、達磨大師の一言です。妙心寺塔頭 養徳院の御朱印で知りました。
今回、襖絵が奉納されたのは建仁寺の本坊大書院です。中庭を望む場所に建つ本坊大書院は、控えの間として1940年(昭和15年)に建築された書院です。元々は何も描かれていない白い襖が入っていましたが、建仁寺を開いた栄西禅師の生誕880年を記念して、細川氏に襖絵の制作が依頼されましたようです。
細川護煕元首相の襖絵は、今年「竹の寺 地蔵院」でも見せて貰いました。次に大書院を出て小書院に入ります。
「舟出」染色作家 鳥羽美花(とば みか)さんの作品。2014年(平成26年)に奉納されたもの。
「伝説の湖」、「型染め」という日本独特の染色技法を研究されている作家さんだそうです。
上の写真の裏側の部屋には「凪」という作品が展示されてました。作者は同じで、こちら「型染め」の染色技法です。
この部屋の前には「〇△口乃庭」があって、床几が置かれてます。この間にも「〇△口の掛け軸」がありました。
こちらの部屋は、大書院でも小書院でも方丈でも無い・・・答えは「唐子の間」でした。襖絵は「唐子遊戯図」で、田村月撫筆と書いてありました。
今日は時間がたっぷりあるので、隅々まで見て行きます。これから方丈内の高精細複製品「襖絵」を反時計回り。方丈の北東角から。
下間一の間 「花鳥図襖(重文)海北友松筆」の8面。
裏の間 「対島行列輿」、「国宝 風神雷神図屏風」俵屋宗達筆、「風神雷神」金澤翔子書。金澤翔子書品展は、ここで2012年(平成24年)に、見せて貰いました。本人さんも来られてましたね。
衣鉢の間 「琴棋書画図襖」(重文)海北友松筆の10面。
ここで、スリッパに履き替えて庭に降ります。久々に茶室「東陽坊」まで行ってみます。
途中には、今まで気づかなかった「田村月撫遺愛の大硯」がありました。先程「唐子の間」で見た「唐子遊戯図」は、この硯で生み出されました。
次に垣根越しに「清涼軒」を撮りました。茶室内は6畳と8畳の広間だそうです。
東陽坊に入る前に「安国寺恵瓊首塚」があります。戦国武将で、関ヶ原の戦いで敗れ京都六条河原で斬首。その首を建仁寺の僧侶が持ち帰り葬ったと伝わるものです。
茶室「東陽坊」までやって来ました。茶室内部の躙口や連子窓は、ガラス越しになっており見られます。
再び「方丈」に戻りました。今日は、多くの人と擦れ違いました。次は方丈の南西角から見て行きます。
檀那の間 「山水図襖」(重文)海北友松筆の8面。
室中の間 本尊の十一面観音菩薩坐像が祀られています。「竹林七賢図」(重文)海北友松筆の16面。
礼の間 「雲龍図」(重文)海北友松筆の8面。
最後に、「大雄苑」を撮りました。昭和初期に、中国の百丈山の旧名が大雄山であったことに由来し、加藤熊吉が作庭しました枯山水庭園です。
最後に「法堂」に行き、「双龍図」を見に行きます。方丈から渡り廊下を通りますが、以前、番号を押して扉を開け閉めしてたんですが、無くなってました。
その前に花頭窓から大雄苑を見ました。天気が良いので、庭園が綺麗に見えます。
そして「方丈」ですが、この時は人の流れが止まってました。良いのが撮れました。
「双龍図」小泉淳作筆、2002年(平成14年)建仁寺開創800年を記念して奉納されました。
法堂の須弥壇中央に本尊 釈迦如来坐像、脇侍に迦葉(かしょう)・阿難(あなん)尊者立像を安置されています。
法堂から方丈へ戻る途中の渡り廊下です。以前は一般の方が横切れたのに、出来なくなってます。このブログを書いてて気づいた次第です。
長らく来て無かったら売店の位置も変わってました。時間があったので床几に座って休憩していると美味しいお茶をいただきました。
ここには10時10分に入って、10時53分に建仁寺本坊を出ました。次の目的地の開門が11時のため、ここで時間調整をさせて貰いました。
【建仁寺】
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