旧女御所の大方丈や小堀遠州の禅庭が残る南禅寺 本坊へ
南禅寺 水路閣から南禅寺 本坊は直ぐです。こちらも2015年(平成27年)2月20日以来、久しぶりの訪問で、南禅寺のことも復習です
。
臨済宗南禅寺派の大本山で、山号は瑞龍山、正しくは太平興国南禅禅寺という。第90代亀山天皇が大宮院(亀山天皇の母)の御所として造営した離宮を1291年(正応4年)に、無関普門(むかんふもん)禅師(大明国師)を開山として寺に改めたものである。1334年(建武元年)には、禅寺の格付け制度である五山の制の下で京都五山の第一となり、更に室町幕府第3代将軍足利義満によって五山の上という最高位に位置付けられ、隆盛を極めた。方丈(国宝)は大方丈(清涼殿)と小方丈から成り、内部の障壁画の多くは重要文化財に指定されている。小方丈には狩野探幽の筆といわれる「群虎図」(重文)があり「虎の間」と呼ばれている。また、大方丈の前庭は小堀遠州の作とされる代表的な枯山水庭園で「虎の子渡し」として有名である。禅宗様式の巨大な三門(重文)は藤堂高虎が寄進したもので、楼上からは京都市街が一望できる。
8時41分に拝観受付所がある「庫裏」に向かいました。ただ入口の扉は閉まったままです。拝観時間間違えたのかなぁ・・・?。
拝観料600円を納めて、靴を袋に入れます。この袋は返す必要は無いと案内されました。

南禅寺の山号である瑞龍山の「瑞龍」と書かれています。第8代南禅寺管長 嶋田 菊僊 筆とありました。
ここまで来ると、国宝「大方丈」が見えて来ました。1611年(慶長16年)内裏清涼殿の下賜を受けて再建されたもの。
こちらの部屋には「寒山(左)・拾得像(右)」が置いてありました。唐津焼 中野寛林 作。唐津市 龍海寺寄贈。
大方丈の室内は撮影禁止です。手前から「柳之間」、「麝香(じゃこう)之間」、「御昼之間」、「花鳥之間」、「鶴之間」、「仏間」、「鳴滝之間」と襖絵が見事です。
2011年(平成23年)12月に障壁画(襖絵)124面の内84面を収蔵庫に保管しまし、新たに400年前の色彩をよみがえらせ復元し公開されています。なお、内部の障壁画は、狩野派の絵師によるもので重要文化財に指定されています。
大方丈前の前庭は、国の名勝に指定されている「虎の子渡しの庭」で、小堀遠州の作と伝わります。


大方丈前に白砂を敷き、東南隅から筑地塀にそって大中小の3石を配し、さらにその前に小さな石を3石を配している。この配しが虎が子を連れて川を渡るように見立ていることから、「虎の子渡し」と呼ばれている。
奥から「柳之間」、「麝香(じゃこう)之間」、「御昼之間」、「花鳥之間」の室内にある障壁画を見て行きました。
大方丈の西側に進み、こちらの部屋は「花鳥之間」、「鶴之間」と並んでいます。西側にある庭園は・・・?。

こちらの石庭は「如心庭」といい、白砂に据えられた5つの石が、どの方向から見ても「心」字をあらわしているとか。
大方丈の「鶴之間」と経た奥に国宝「小方丈」があります。寛永年間(1624~44年)の建築で、伏見城の遺構とされています。
小方丈の手前から「一之間」、「二之間」、「三之間」とあり、狩野探幽筆と伝わる「群虎図」(重文)40面があり「虎の間」と呼ばれています。とくに可愛い虎が水を飲む「水呑の虎」は見物です。
小方丈を出ると、いくつかの小さな庭園があるので、さっそく見て行きます。最初に見るのは「蓬莱神仙庭」です。案内版には・・・?。
蓬莱とは『史記』に「海中に三神山あり、名付けて蓬莱、方丈、瀛州(えんしゅう)という」とあるように中国に伝わる霊山です。海の中にありながら仙人が住むといい、その不老不死のご利益をもとめて、古来より憧れてきました。波紋の奥深くに、仙人の談笑する声がお聞きいただきましたか?と書いてありました。
小方丈の北側に出ると、面が杉苔で景石や植樹された1967年(昭和42年)作庭の「六道庭」がありました。こちらも案内版があるので読んでみると・・・?。


「如心庭」が悟りの風景の庭であるのに対して、「六道庭」は六道輪廻の教えを考える庭である。六道輪廻とは、天上道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道の六つの世界を私たちは生まれ変わり続けるという仏教の世界観をいう。道とは世界のことである。一面の杉苔の中に配石された景色を眺めながら静かに現実を直視すると煩悩に迷い涅槃の境地に達することなく六道を輪廻する我々凡夫の儚さを想う。



ここから渡り廊下を通ります。その右手には「鳴滝庭」があって「大硯石」もありました。この硯石・・・案内によると・・・?。
この大硯石の原石は、紅縞と呼ばれる大理石の一種で岐阜県大垣市赤坂町の金生山で採掘されたものです。1906年(明治39年)矢橋亮吉氏が加工し寄贈さたもので、この原石は既に掘り尽くされ現存しない大変貴重なものです。かすかに紅色を帯びた縞模様が見られ、紅縞石と呼ばれています。もともとは三億年も前、ハワイ諸島あたりの海底にあった地層が移動隆起したものといわれ、たくさんのウミユリという生物の化石が含まれていることで有名です。大理石は風雪雨露に弱く、この大硯石もすでにたくさんのヒビ割れが見られます。このような大きな紅縞石の加工されたものは、他には存在いたしません。加工れさてすでに約百年の年月を経ています。当時は未だ電動器具の無い時代ですので、すべて手作りものです。
次に渡り廊下を行ける所まで行ってみます。左手の苔庭は「中庭」、右手には枯山水庭園が・・・?。

1984年(昭和59年)に新たに造られた「華厳庭(けごんてい)」です。「南禅寺垣」に囲まれていますね。南禅寺垣とは窮心亭の路地を囲んでいる竹垣を南禅寺垣と名づけられたもの。華厳とは「花の飾り」を意味し「響き合う宇宙のこころ」という仏教の教えだそうです。

さらに奥に進むと右手に茶室「窮心亭」が見えました。1968年(昭和43年)に開基亀山法皇の650年御遠諱を記念し茶道宗徧流一門の寄進によって建立されました。


もっとも奥にあるのが1984年(昭和59年)に作庭された「龍吟の庭」と「涵龍池」が、そして遠くに1954年(昭和29年)に建てられた茶室「不識庵」が見えます。
不識庵は、1954年(昭和29年)開基亀山法皇の650年遠忌の際、茶道宗徧(そうへん)流有宗匠から寄進されたものである。「不識」とは昔、達磨大師が梁の武帝と対面したとき「私の前にいるのは誰か」と問われ「不識(しらず)」と答えた。自分を説明しようとしても言葉では真の自分を説明しつくすことはできず、自分から離れてします。本当の自分とは何なのか知るためには、心を窮めていかなければならない。
窮心亭は1968年(昭和43年)に、やはり宗徧流一門によって寄進された。修学院離宮、上の茶屋にある後水尾天皇御命の茶亭「窮邃軒」の趣を慕って、命名された。まさに不識の心を窮めていく道場である。露地を囲んでいる竹垣は「南禅寺垣」という。
1983年(昭和58年)に建てられた「龍渕閣」です。私が新入社員の時、研修を受けた施設から建て替えられたようですね。
入社2日目に受けた研修で、緊張していたので何も覚えてません。座禅と精進料理のことは僅かに覚えてます。研修内容は、皆目記憶が無いですね。


龍渕閣を見てから渡り廊下を通り大方丈に戻ります。
その前に「跋陀婆羅尊者(ばったばらそんじゃ)」像があったので撮ってみました。ここに浴室があったのでしょうか?。
大方丈に戻り、最後の「鳴滝之間」を覗いて狩野永徳の襖絵を見て、庭園に戻りました。
ここを出る前に「虎の子渡しの庭」を通ります。その先に見えているは「法堂」です。天気予報が外れて、最高に良い天気です。
「書院」の一室では、オリジナル映像「南禅寺 歴史と美」(約12分)が上映中でしたが、時間が無いので見てません。
書院の中には「滝の間」があって、呈茶をいただけますが“準備中”でした。滝を見たかったので残念です。
8時56分に「庫裏」を出ました。拝観無しでも、左側の入口で朱印はお願いできるようです。お一人そうされてましたね。
私が出るとき、ようやく一組の方が入って来られました。入ってから出るまで独占でしたね
。
ここを出て、当初の予定通り南禅院に向かいます。
【南禅寺 本坊】


臨済宗南禅寺派の大本山で、山号は瑞龍山、正しくは太平興国南禅禅寺という。第90代亀山天皇が大宮院(亀山天皇の母)の御所として造営した離宮を1291年(正応4年)に、無関普門(むかんふもん)禅師(大明国師)を開山として寺に改めたものである。1334年(建武元年)には、禅寺の格付け制度である五山の制の下で京都五山の第一となり、更に室町幕府第3代将軍足利義満によって五山の上という最高位に位置付けられ、隆盛を極めた。方丈(国宝)は大方丈(清涼殿)と小方丈から成り、内部の障壁画の多くは重要文化財に指定されている。小方丈には狩野探幽の筆といわれる「群虎図」(重文)があり「虎の間」と呼ばれている。また、大方丈の前庭は小堀遠州の作とされる代表的な枯山水庭園で「虎の子渡し」として有名である。禅宗様式の巨大な三門(重文)は藤堂高虎が寄進したもので、楼上からは京都市街が一望できる。







2011年(平成23年)12月に障壁画(襖絵)124面の内84面を収蔵庫に保管しまし、新たに400年前の色彩をよみがえらせ復元し公開されています。なお、内部の障壁画は、狩野派の絵師によるもので重要文化財に指定されています。









小方丈の手前から「一之間」、「二之間」、「三之間」とあり、狩野探幽筆と伝わる「群虎図」(重文)40面があり「虎の間」と呼ばれています。とくに可愛い虎が水を飲む「水呑の虎」は見物です。
小方丈を出ると、いくつかの小さな庭園があるので、さっそく見て行きます。最初に見るのは「蓬莱神仙庭」です。案内版には・・・?。

小方丈の北側に出ると、面が杉苔で景石や植樹された1967年(昭和42年)作庭の「六道庭」がありました。こちらも案内版があるので読んでみると・・・?。







この大硯石の原石は、紅縞と呼ばれる大理石の一種で岐阜県大垣市赤坂町の金生山で採掘されたものです。1906年(明治39年)矢橋亮吉氏が加工し寄贈さたもので、この原石は既に掘り尽くされ現存しない大変貴重なものです。かすかに紅色を帯びた縞模様が見られ、紅縞石と呼ばれています。もともとは三億年も前、ハワイ諸島あたりの海底にあった地層が移動隆起したものといわれ、たくさんのウミユリという生物の化石が含まれていることで有名です。大理石は風雪雨露に弱く、この大硯石もすでにたくさんのヒビ割れが見られます。このような大きな紅縞石の加工されたものは、他には存在いたしません。加工れさてすでに約百年の年月を経ています。当時は未だ電動器具の無い時代ですので、すべて手作りものです。








不識庵は、1954年(昭和29年)開基亀山法皇の650年遠忌の際、茶道宗徧(そうへん)流有宗匠から寄進されたものである。「不識」とは昔、達磨大師が梁の武帝と対面したとき「私の前にいるのは誰か」と問われ「不識(しらず)」と答えた。自分を説明しようとしても言葉では真の自分を説明しつくすことはできず、自分から離れてします。本当の自分とは何なのか知るためには、心を窮めていかなければならない。
窮心亭は1968年(昭和43年)に、やはり宗徧流一門によって寄進された。修学院離宮、上の茶屋にある後水尾天皇御命の茶亭「窮邃軒」の趣を慕って、命名された。まさに不識の心を窮めていく道場である。露地を囲んでいる竹垣は「南禅寺垣」という。

入社2日目に受けた研修で、緊張していたので何も覚えてません。座禅と精進料理のことは僅かに覚えてます。研修内容は、皆目記憶が無いですね。



その前に「跋陀婆羅尊者(ばったばらそんじゃ)」像があったので撮ってみました。ここに浴室があったのでしょうか?。







ここを出て、当初の予定通り南禅院に向かいます。
【南禅寺 本坊】
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