戦国大名藤堂高虎により再建された南禅寺 三門へ
以前は、「南禅寺 本坊」「南禅院」「南禅寺 三門」の共通券があったんですが、本坊で聞くと現在は無いようです。本坊と南禅院と回ってきて、あとは南禅寺 三門だけです。
南禅院を降りてくると、前が法堂です。前途したとおり、ここで座禅をした経験がありました。座禅は、後にも先にも、この一回だけです。
そして前方に雄大な三門が見えてきました。タクシーの運転手さんに連れられた修学旅行生が数組来てますね。
三門の南側から入り、拝観受付所で拝観料600円を納めます。以前は、南側の階段を上がって、北側の階段から降りてくる・・・そのように記憶してましたが、現在は南側の階段だけ使うみたいです。
三門とは、仏道修行で悟りに至る為に透過しなければならない三つの関門を表す、空、無相、無作の三解脱門を略した呼称です。山門とも書き表され、寺院を代表する正門であり、禅宗七堂伽藍(山門、仏殿、法堂、僧堂、庫裏、東司、浴室)の中の一つです。南禅寺の三門は別名「天下龍門」とも呼ばれ、上層の楼を「五鳳楼」と呼び、日本三大門の一つに数えられます。1295年(永仁3年)西園寺実兼の寄進によって創立され、ついで応安年間(1368~75年)に新三門へと改築されましたが1447年(文安4年)の火災で焼失しました。現在の三門は、伊勢伊賀の領主藤堂高虎が大坂夏の陣で戦歿した藩士の霊を弔うため、1628年(寛永5年)に建立寄進されたものです。禅宗様式独特の圧倒的な量感と列柱群が力強さを示しており、歌舞伎「楼門五三桐」の石川五右衛門の伝説で有名です。山門楼上内陣の正面には仏師左京等の手になる宝冠釈迦座像を本尊とし、その脇士に月蓋長者、善財童士、左右に十六羅漢を配置し、本光国師、徳川家康、藤堂高虎の像と一門の重臣の位牌が安置されています。また天井の鳳凰、天人の極彩色の図は狩野探幽、土佐徳悦の筆とされています。三門の構造は五間三戸二階二重門、入母屋造、本瓦葺、高さは約22㍍です。両側に山廊があり、この山廊はそれぞれ桁行三間、梁間二間、一重、切妻造、本瓦葺となっています。1899年(明治32年)国指定重要文化財となりました。
9時10分に階段を登ります。靴は、ここでも袋に入れて、その袋は持ち帰りです。急な階段を鞄と靴入れを持って上がるので怖いです。
この時間でも修学旅行生が、けっこう来られてました。朝早くからタクシーの運転手さんに連れて来られたようですね。私が階段を上がる前に一組の学生さんが降りて来られました。それを待って階段を上がります。
最初に幅の広い階段を上がり、次の階段が幅が狭く急な階段をローブを持って上がりきると・・・?。
最初に、この風景が見られます。三門から西側を見ていて、遠くに愛宕山がはっきりと見えます。
三門の正面には「勅使門」が見えていて、その手前に修学旅行生が写っています。また、山裾には「ウェスティンミヤコ京都」が見えています。
ここ上層の楼を「五鳳楼(ごほうろう)」と呼ばれる回廊を、これから一周します。こちらは三門の正面で西側に当たります。
反時計回りで回ります。最初は南側の回廊から、こちらの方向に南禅院があります。
こちらが東側の回廊です。こちらの方向に禅林寺(永観堂)の多宝塔を探したですが、見えませんでしたね。
東側の「法堂」を見ると、正面から太陽を浴びるので、思い切り眩しいです。
北東角から見てみましたが、やっぱり永観堂は見えません。手前の東山高校は見えているですが、残念です。
回廊の北西まで来て振り向くと、ようやく「禅林寺(永観堂)多宝塔」が見えました。写真でもズームにしてやって見える程度です。
回廊の北側です。正面に見えているのが「愛宕山」です。
北西の角から、遠くに「相国寺」に大伽藍が見えています。五山の送り火では、「船形」と「左大文字」が見えてました。
正面に見えている背の高いビルが「京都ホテルオークラ」で、向こうの山並みが嵐山や愛宕山、そして手前に左大文字が天気が良いのではっきり見えています。
次に訪問するつもりの「天授庵」を上から撮りました。
通常非公開の知恩院三門や東福寺三門は、特別公開時に内部に入れますが、常時拝観の南禅寺三門は内部には入れません。外からのお参りですし、撮影も禁止されています。なお、知恩院や東福寺の三門は楼上からの写真撮影は禁止されています。
外国人観光客が居ないので、この階段のみ利用です。以前のように観光客が増えたら一方通行にされるのでしょう。
9時16分に下に降りて来ました。階段が危ないので、空いてる時に降りて来た訳です。
降りるとタクシーの運転手さんが修学旅行生に「せっかく来たし登るやろ」と聞いてましたね。天気が良いし、そりゃ登るでしょう。次は三門の向かいにある天授庵に入ります。
【南禅寺 三門】
南禅院を降りてくると、前が法堂です。前途したとおり、ここで座禅をした経験がありました。座禅は、後にも先にも、この一回だけです。
そして前方に雄大な三門が見えてきました。タクシーの運転手さんに連れられた修学旅行生が数組来てますね。
三門の南側から入り、拝観受付所で拝観料600円を納めます。以前は、南側の階段を上がって、北側の階段から降りてくる・・・そのように記憶してましたが、現在は南側の階段だけ使うみたいです。
三門とは、仏道修行で悟りに至る為に透過しなければならない三つの関門を表す、空、無相、無作の三解脱門を略した呼称です。山門とも書き表され、寺院を代表する正門であり、禅宗七堂伽藍(山門、仏殿、法堂、僧堂、庫裏、東司、浴室)の中の一つです。南禅寺の三門は別名「天下龍門」とも呼ばれ、上層の楼を「五鳳楼」と呼び、日本三大門の一つに数えられます。1295年(永仁3年)西園寺実兼の寄進によって創立され、ついで応安年間(1368~75年)に新三門へと改築されましたが1447年(文安4年)の火災で焼失しました。現在の三門は、伊勢伊賀の領主藤堂高虎が大坂夏の陣で戦歿した藩士の霊を弔うため、1628年(寛永5年)に建立寄進されたものです。禅宗様式独特の圧倒的な量感と列柱群が力強さを示しており、歌舞伎「楼門五三桐」の石川五右衛門の伝説で有名です。山門楼上内陣の正面には仏師左京等の手になる宝冠釈迦座像を本尊とし、その脇士に月蓋長者、善財童士、左右に十六羅漢を配置し、本光国師、徳川家康、藤堂高虎の像と一門の重臣の位牌が安置されています。また天井の鳳凰、天人の極彩色の図は狩野探幽、土佐徳悦の筆とされています。三門の構造は五間三戸二階二重門、入母屋造、本瓦葺、高さは約22㍍です。両側に山廊があり、この山廊はそれぞれ桁行三間、梁間二間、一重、切妻造、本瓦葺となっています。1899年(明治32年)国指定重要文化財となりました。
9時10分に階段を登ります。靴は、ここでも袋に入れて、その袋は持ち帰りです。急な階段を鞄と靴入れを持って上がるので怖いです。
この時間でも修学旅行生が、けっこう来られてました。朝早くからタクシーの運転手さんに連れて来られたようですね。私が階段を上がる前に一組の学生さんが降りて来られました。それを待って階段を上がります。
最初に幅の広い階段を上がり、次の階段が幅が狭く急な階段をローブを持って上がりきると・・・?。
最初に、この風景が見られます。三門から西側を見ていて、遠くに愛宕山がはっきりと見えます。
三門の正面には「勅使門」が見えていて、その手前に修学旅行生が写っています。また、山裾には「ウェスティンミヤコ京都」が見えています。
ここ上層の楼を「五鳳楼(ごほうろう)」と呼ばれる回廊を、これから一周します。こちらは三門の正面で西側に当たります。
反時計回りで回ります。最初は南側の回廊から、こちらの方向に南禅院があります。
こちらが東側の回廊です。こちらの方向に禅林寺(永観堂)の多宝塔を探したですが、見えませんでしたね。
東側の「法堂」を見ると、正面から太陽を浴びるので、思い切り眩しいです。
北東角から見てみましたが、やっぱり永観堂は見えません。手前の東山高校は見えているですが、残念です。
回廊の北西まで来て振り向くと、ようやく「禅林寺(永観堂)多宝塔」が見えました。写真でもズームにしてやって見える程度です。
回廊の北側です。正面に見えているのが「愛宕山」です。
北西の角から、遠くに「相国寺」に大伽藍が見えています。五山の送り火では、「船形」と「左大文字」が見えてました。
正面に見えている背の高いビルが「京都ホテルオークラ」で、向こうの山並みが嵐山や愛宕山、そして手前に左大文字が天気が良いのではっきり見えています。
次に訪問するつもりの「天授庵」を上から撮りました。
通常非公開の知恩院三門や東福寺三門は、特別公開時に内部に入れますが、常時拝観の南禅寺三門は内部には入れません。外からのお参りですし、撮影も禁止されています。なお、知恩院や東福寺の三門は楼上からの写真撮影は禁止されています。
外国人観光客が居ないので、この階段のみ利用です。以前のように観光客が増えたら一方通行にされるのでしょう。
9時16分に下に降りて来ました。階段が危ないので、空いてる時に降りて来た訳です。
降りるとタクシーの運転手さんが修学旅行生に「せっかく来たし登るやろ」と聞いてましたね。天気が良いし、そりゃ登るでしょう。次は三門の向かいにある天授庵に入ります。
【南禅寺 三門】
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