亀山法皇が愛した庭園が残る南禅院へ
南禅寺 本坊を出て、先程見て来た水路閣の下を通って、2015年(平成27年)2月20日以来の南禅院に向かいました。こちらも久しぶりの訪問のため、復習です
。
鎌倉時代の1264年(文永元年)第90代亀山天皇が母大宮院のために京都東山に風光明媚な離宮、禅林寺殿を造営しました。1289年(正応2年)に離宮で出家して法皇となられ、離宮を寄進して禅寺とし大明国師を開山とされました。ここは離宮の遺跡であり、また南禅寺発祥の地です。庭園は離宮当時のおもかげを残し、鎌倉時代末の代表的池泉回遊式で、周囲を深い樹林で包まれた幽玄閑寂の趣は格別である。作庭は夢想国師といわれ早くから、天龍寺庭園、苔寺庭園と共に京都の三名勝史跡庭園の一つに指定されています。向かって左の奥に滝口の石組みが組まれ、上池は曹源池と呼ばれ龍の形に作られ中央に蓬莱島があり、下池には心字島が設けられています。記録によれば築庭当初には、吉野の桜、難波の葦、龍田の楓等が移植され、井手の蛙も放たれたと記されています。心静かに鑑賞する庭園です。建物は始め離宮の遺構であったが、1393年(明徳4年)の火災で焼失し、北山御所の宸殿を賜って再興されたが、応仁の乱により再び焼失。現在の建物は、江戸幕府5代将軍徳川綱吉公の母、桂昌院の寄進により再建されました。総桧の入母屋造杮葺、内陣中央には亀山法皇御木造(重文)が安置され、襖絵は狩野養朴(常信)とその子如川(狩野周信)、隋川(狩野岑信)の筆になる水墨画です。庭園の東南隅には亀山法皇のご遺言により御分骨を埋葬した御廟があります。
先程、写真を撮っていた水路閣まで戻ります。
その水路閣の下を潜って、その先の石段を上がると、目的の南禅院があります。
石段の先には「庫裏」があって非公開です。
その右手に進むと「拝観受付所」がありましたが、留守でした。清掃されていたようで呼鈴を鳴らすと戻って来られ拝観料400円を納めました。
8時58分に南禅院に入りました。私が入る時にお一人出て来られましたね。

拝観入口を潜ると、左手に「方丈」がありますが、ここは上がれません。


先程、復習したとおり、内陣中央には亀山法皇御木造(重文)が安置されてねそうですが、まったく見えません。


襖絵は狩野養朴(常信)とその子如川(狩野周信)、隋川(狩野岑信)の筆になる水墨画です。
方丈を先に見ましたが、方丈の西側、南側には夢想国師作と伝わる庭園が広がっています。ただ、南禅寺HPでは亀山法皇と書いてありますが・・・?。

順路に従って進みますが、振り向くと「勅使門」が見えてます。この時間では、この前で清掃されていたので撮影は苦労しました
。

こちらは「西池」で、3つの中島と出島があります。次に見る「南池(曹源池)」とは繋がっており石橋が架かっています。


こちらが瓢箪の形をしている「南池(曹源池)」です。池には小さな中島と大きな出島があって、天龍寺と同様に夢想国師作の池と同様「曹源池」との名があります。
「南池(曹源池)」沿いに苑路を進むと、南池と西池とを繋ぐ石橋が見えます。
方丈と繋がった茶室「龍淵窟(りゅうえんくつ)」は、裏千家出入りの数寄屋大工岡田永斎作と伝わります。

池の周りの苑路を進むと、東南隅には亀山法皇のご遺言により御分骨を埋葬した「亀山天皇分骨所」(御廟)があります。ここだけ宮内庁の管理でした。


東山を背景に「南池(曹源池)」があります。その池には鶴島があって、高さ1.2㍍の立石が見えます。

「亀山天皇分骨所」の横には「一山国師塔」がありました。一山一寧は鎌倉末期、中国(宋)から渡来した臨済宗の渡来僧。円覚寺、浄智寺の住持を歴任後、後宇多上皇の懇請に応じ、上洛して南禅寺3世の住持となった人物だそうです。


庭園東南部のもっとも高い位置に組まれた「滝石組(曹源泉)」は、奇岩を縦横組み、深山の滝を思わせる。南禅院創建時からの滝石組でも石組は変えられているそうです。







「滝石組(曹源泉)」から東山山麓の苑路を歩いて行くと、南池(曹源池)と西池とを繋ぐ石橋を渡ります。

南池(曹源池)を一周して方丈まで戻ってきました。ここも私が居る間には誰も来られませんでしたね。
先を急ぐので、9時5分に出て行きました。ただ、外が賑やかな声が聞こえてきたんですが・・・?。



南禅院を出たら水路閣が見えます。降りてみると、団体さんが水路閣の写真を撮りに来られてました。その話し声だったんですね。
2015年(平成27年)2月20日以来の南禅院を出て、次は三門に上がります。この時間になると修学旅行生も来られるようになりました。
【南禅院】


鎌倉時代の1264年(文永元年)第90代亀山天皇が母大宮院のために京都東山に風光明媚な離宮、禅林寺殿を造営しました。1289年(正応2年)に離宮で出家して法皇となられ、離宮を寄進して禅寺とし大明国師を開山とされました。ここは離宮の遺跡であり、また南禅寺発祥の地です。庭園は離宮当時のおもかげを残し、鎌倉時代末の代表的池泉回遊式で、周囲を深い樹林で包まれた幽玄閑寂の趣は格別である。作庭は夢想国師といわれ早くから、天龍寺庭園、苔寺庭園と共に京都の三名勝史跡庭園の一つに指定されています。向かって左の奥に滝口の石組みが組まれ、上池は曹源池と呼ばれ龍の形に作られ中央に蓬莱島があり、下池には心字島が設けられています。記録によれば築庭当初には、吉野の桜、難波の葦、龍田の楓等が移植され、井手の蛙も放たれたと記されています。心静かに鑑賞する庭園です。建物は始め離宮の遺構であったが、1393年(明徳4年)の火災で焼失し、北山御所の宸殿を賜って再興されたが、応仁の乱により再び焼失。現在の建物は、江戸幕府5代将軍徳川綱吉公の母、桂昌院の寄進により再建されました。総桧の入母屋造杮葺、内陣中央には亀山法皇御木造(重文)が安置され、襖絵は狩野養朴(常信)とその子如川(狩野周信)、隋川(狩野岑信)の筆になる水墨画です。庭園の東南隅には亀山法皇のご遺言により御分骨を埋葬した御廟があります。

















































2015年(平成27年)2月20日以来の南禅院を出て、次は三門に上がります。この時間になると修学旅行生も来られるようになりました。
【南禅院】
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