徳川家康を支えた金地院崇伝ゆかりの金地院へ
天授庵を出て、南禅寺塔頭 最勝院か禅林寺(永観堂)に行くか、それとも近くの金地院に行くか迷いましたが、近くの南禅寺 金地院に行くことにしました。
ここも、2015年(平成27年)8月28日以来、来て無かったので久しぶりの訪問です。
南禅寺塔頭。応永年間(1394~1428年)南禅寺68世住持・大業徳基(だいごうとっき)が、室町幕府4代将軍足利義持の帰依を得て、北山の鷹ヶ峰に創建いたのがはじまり。その後、寺は荒廃しましたが、1605年(慶長10年)以心崇伝(いしんすうでん)により現在地に移築され復興・再建しました。金地院最大の見どころは、方丈前に広がる枯山水庭園「鶴亀の庭」で、国の特別名勝に指定されています。江戸時代、当代随一の茶人で、作庭奉行の小堀遠州が作庭。遠州が設計し、そして遠州の右腕ともいわれた"天下一の石組の名手"賢庭(けんてい)の指揮のもと、1632年(寛永9年)に完成しました。方丈は伏見城の遺構と伝わり重要文化財に指定されています。将軍や貴人を招くための「上段富貴の間」には狩野探幽、狩野尚信による襖絵があります。方丈奥には小堀遠州好みの三畳台目の小さなお茶室「八窓席(はっそうせき)」があり、大徳寺孤篷庵、曼殊院のお茶室とともに、京都三名席の一つに数えられています。
9時34分に「大門」前に着きました。
大門を入ると、正面に「庫裏」が、そして右手に「拝観受付所」があって、拝観料500円を納めると・・・?。
この時、9時35分で受付で「特別拝観どうされます?」と聞かれました。9時30分から1時間毎に特別拝観と言って、別途700円で遠州作の茶室「八窓席(はっそうのせき)」、長谷川等伯筆の「猿猴捉月図(えんこうそくげつず)」を案内のもとに鑑賞できるんですが、もう5分済んでます。同じ700円を出すなら最初から話しを聞きたいので、断りました。特別拝観があるのは知ってましたが、この時はすっかり忘れてました。覚えてたら天授庵の前に行ったのにね。残念。
拝観料を納めて最初に見るのは「明智門」です。これは、1582年(天正10年)明智光秀が母の菩提のため、大徳寺に寄進した桃山建築の唐門で、1868年(明治元年)に金地院に移されたものです。
明智門を潜ると、前が「辨天池」です。右に行けば「方丈」ですが、案内は左を指してます。
すっかり忘れてましたね。方丈は最後に上がるんです。先ずは辨天池の周りの苑路を進みます。
苑路を進むと、前方に東照宮の「楼門」が見えて来ました。
その「楼門」ですが、潜ることはできません。こちら側から見ると裏側にあたりますが、表側は無料でいつでも見られます。
ここからは「東照宮参道」です。何故、ここに徳川家康公を祀る東照宮があるのか、それは・・・?。
東照宮は、江戸幕府初代将軍徳川家康公の御廟を拝むために建立されました。徳川家康の厚い信頼を得ていた、崇伝は「黒衣の宰相(こくいのさいしょう)」といった異名で呼ばれており、宗教界でも政界でも大いに活躍しました。その崇伝によって1628年(寛永5年)に造営され、家康の遺髪と念持仏(持ち歩き用の仏像)が納められています。東照宮は全国各地にありますが、家康の遺言によって建てられたのは久能山、日光、そして金地院の3カ所だけです。拝殿は東を正面に建てられており、やはり江戸および日光を見据えています。京都で唯一の権現造の建物で、拝殿の天井には狩野探幽の筆による「鳴龍」が描かれています。
「手水舎」に寄って、「石鳥居」をくぐり「御成門」前まで、やって来ました。
御成門を入って、前途したとおり東を向いている「拝殿」(重文)でお参りです。
この拝殿に入ることはできませんが、僅かに内部を垣間見ることができます。
建築様式は本殿、石之間、拝殿からなり所謂権現造りです。天井の「鳴龍」は狩野探幽の筆、欄間に掲げられた三十六歌仙の額は土佐光起の筆であり、歌は青蓮院宮尊純法親王の御筆跡です。下段に掲げてある額は画家黒田正夕氏が謹写したものです。
本殿や石之間は、正面から見えないので、横から見てみました。
東照宮を、この門から出て行きますが、石段を下ります。これだけ下るのに登った記憶が無いので不思議です。
石段を降りていくと左手に「開山堂」があります。内部に入れませんが覗けます。
塔所の中央には金地院崇伝像、手前には十六羅漢像が祀られています。掛かっている勅額は後水尾天皇の筆だそうです。
その前から「方丈」を撮りたかったんですが、これ以上前に行けないので、これが精一杯です。
最初は、小堀遠州作の「鶴亀の庭」を下から撮りました。次に方丈へ上がります。
1626年(寛永3年)崇伝は国師号を賜り、それを機に金地院の大改修を計画。作庭を松平土佐守と小堀遠州に依頼、遠州は1632年(寛永9年)に着手。その庭園の主題は、徳川家の未来永劫の繁栄を願うものでした。それによって典型的な神仙蓬莱の庭が構成されました。
ここから見る中央に亀島があって、その下には亀甲石は巨大で、亀の姿をしています。
こちらから東照宮を遥拝するための、拝石(ようはいせき)と、その後方にある宝來連山(ほうらいれんざん)と、それに見立てた三尊石が置かれているのが見えます。
こちらが鶴島で、その手前に羽石が置かれているのが見えます。
方丈に上がると、奥からガイドさんの声が聞こえてきました。多分、靴が置いてあったので4名から5名程度の方が聞かれていると思われます。次回は、お茶室「八窓席(はっそうせき)」を見てみたいものです。
方丈を出て、再び明智門を見てから出て行きました。
帰りに拝観受付所の横を見ると、「ムラサキシキブ」が綺麗な実を付けていたので撮りました。祇王寺や退蔵院、天龍寺にもありましたね。
9時46分に、金地院の大門を出ました。これで9時50分の電車は完全に間に合わないことが決まりましたが、頑張って歩きます・・・急ぎ足で。
大門にあったパネルでは、金地院庭園は10分程度で回れます。と書いてありましたが、急いで回った私でも15分はかかりましたから、10分は無理です。
ここから地下鉄東西線「蹴上駅」まで歩きました。やっぱり9時50分は無理でしたが、9時55分に乗れました。金地院から10分弱で地下鉄のホームまで行けるみたいですね。帰りのバスの乗り換え時間は4分でしたが、バスが遅れてきたので乗ることが出来ました。ラッキーでした。
【金地院】
ここも、2015年(平成27年)8月28日以来、来て無かったので久しぶりの訪問です。
南禅寺塔頭。応永年間(1394~1428年)南禅寺68世住持・大業徳基(だいごうとっき)が、室町幕府4代将軍足利義持の帰依を得て、北山の鷹ヶ峰に創建いたのがはじまり。その後、寺は荒廃しましたが、1605年(慶長10年)以心崇伝(いしんすうでん)により現在地に移築され復興・再建しました。金地院最大の見どころは、方丈前に広がる枯山水庭園「鶴亀の庭」で、国の特別名勝に指定されています。江戸時代、当代随一の茶人で、作庭奉行の小堀遠州が作庭。遠州が設計し、そして遠州の右腕ともいわれた"天下一の石組の名手"賢庭(けんてい)の指揮のもと、1632年(寛永9年)に完成しました。方丈は伏見城の遺構と伝わり重要文化財に指定されています。将軍や貴人を招くための「上段富貴の間」には狩野探幽、狩野尚信による襖絵があります。方丈奥には小堀遠州好みの三畳台目の小さなお茶室「八窓席(はっそうせき)」があり、大徳寺孤篷庵、曼殊院のお茶室とともに、京都三名席の一つに数えられています。
9時34分に「大門」前に着きました。
大門を入ると、正面に「庫裏」が、そして右手に「拝観受付所」があって、拝観料500円を納めると・・・?。
この時、9時35分で受付で「特別拝観どうされます?」と聞かれました。9時30分から1時間毎に特別拝観と言って、別途700円で遠州作の茶室「八窓席(はっそうのせき)」、長谷川等伯筆の「猿猴捉月図(えんこうそくげつず)」を案内のもとに鑑賞できるんですが、もう5分済んでます。同じ700円を出すなら最初から話しを聞きたいので、断りました。特別拝観があるのは知ってましたが、この時はすっかり忘れてました。覚えてたら天授庵の前に行ったのにね。残念。
拝観料を納めて最初に見るのは「明智門」です。これは、1582年(天正10年)明智光秀が母の菩提のため、大徳寺に寄進した桃山建築の唐門で、1868年(明治元年)に金地院に移されたものです。
明智門を潜ると、前が「辨天池」です。右に行けば「方丈」ですが、案内は左を指してます。
すっかり忘れてましたね。方丈は最後に上がるんです。先ずは辨天池の周りの苑路を進みます。
苑路を進むと、前方に東照宮の「楼門」が見えて来ました。
その「楼門」ですが、潜ることはできません。こちら側から見ると裏側にあたりますが、表側は無料でいつでも見られます。
ここからは「東照宮参道」です。何故、ここに徳川家康公を祀る東照宮があるのか、それは・・・?。
東照宮は、江戸幕府初代将軍徳川家康公の御廟を拝むために建立されました。徳川家康の厚い信頼を得ていた、崇伝は「黒衣の宰相(こくいのさいしょう)」といった異名で呼ばれており、宗教界でも政界でも大いに活躍しました。その崇伝によって1628年(寛永5年)に造営され、家康の遺髪と念持仏(持ち歩き用の仏像)が納められています。東照宮は全国各地にありますが、家康の遺言によって建てられたのは久能山、日光、そして金地院の3カ所だけです。拝殿は東を正面に建てられており、やはり江戸および日光を見据えています。京都で唯一の権現造の建物で、拝殿の天井には狩野探幽の筆による「鳴龍」が描かれています。
「手水舎」に寄って、「石鳥居」をくぐり「御成門」前まで、やって来ました。
御成門を入って、前途したとおり東を向いている「拝殿」(重文)でお参りです。
この拝殿に入ることはできませんが、僅かに内部を垣間見ることができます。
建築様式は本殿、石之間、拝殿からなり所謂権現造りです。天井の「鳴龍」は狩野探幽の筆、欄間に掲げられた三十六歌仙の額は土佐光起の筆であり、歌は青蓮院宮尊純法親王の御筆跡です。下段に掲げてある額は画家黒田正夕氏が謹写したものです。
本殿や石之間は、正面から見えないので、横から見てみました。
東照宮を、この門から出て行きますが、石段を下ります。これだけ下るのに登った記憶が無いので不思議です。
石段を降りていくと左手に「開山堂」があります。内部に入れませんが覗けます。
塔所の中央には金地院崇伝像、手前には十六羅漢像が祀られています。掛かっている勅額は後水尾天皇の筆だそうです。
その前から「方丈」を撮りたかったんですが、これ以上前に行けないので、これが精一杯です。
最初は、小堀遠州作の「鶴亀の庭」を下から撮りました。次に方丈へ上がります。
1626年(寛永3年)崇伝は国師号を賜り、それを機に金地院の大改修を計画。作庭を松平土佐守と小堀遠州に依頼、遠州は1632年(寛永9年)に着手。その庭園の主題は、徳川家の未来永劫の繁栄を願うものでした。それによって典型的な神仙蓬莱の庭が構成されました。
ここから見る中央に亀島があって、その下には亀甲石は巨大で、亀の姿をしています。
こちらから東照宮を遥拝するための、拝石(ようはいせき)と、その後方にある宝來連山(ほうらいれんざん)と、それに見立てた三尊石が置かれているのが見えます。
こちらが鶴島で、その手前に羽石が置かれているのが見えます。
方丈に上がると、奥からガイドさんの声が聞こえてきました。多分、靴が置いてあったので4名から5名程度の方が聞かれていると思われます。次回は、お茶室「八窓席(はっそうせき)」を見てみたいものです。
方丈を出て、再び明智門を見てから出て行きました。
帰りに拝観受付所の横を見ると、「ムラサキシキブ」が綺麗な実を付けていたので撮りました。祇王寺や退蔵院、天龍寺にもありましたね。
9時46分に、金地院の大門を出ました。これで9時50分の電車は完全に間に合わないことが決まりましたが、頑張って歩きます・・・急ぎ足で。
大門にあったパネルでは、金地院庭園は10分程度で回れます。と書いてありましたが、急いで回った私でも15分はかかりましたから、10分は無理です。
ここから地下鉄東西線「蹴上駅」まで歩きました。やっぱり9時50分は無理でしたが、9時55分に乗れました。金地院から10分弱で地下鉄のホームまで行けるみたいですね。帰りのバスの乗り換え時間は4分でしたが、バスが遅れてきたので乗ることが出来ました。ラッキーでした。
【金地院】
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