天台宗総本山比叡山延暦寺の三門跡の一つ「青蓮院門跡」へ
京都市では、10月16日(土)から17日(日)にかけて、空気が夏から冬へと入れ代わり、最高気温が28.2℃から19.8℃と急降下。それまで半袖を着ていたのに、薄手のジャンパーを着ていくほど冷え込みました。そんな冷え込みが続く、10月19日(火)は、緊急時代宣言が解除されたことで、久し振りにレストランを予約しました。その予約時間まで、久しく行ってなかつた東山の古寺を尋ねようと思い地下鉄太秦天神川駅から地下鉄東西線に乗り、東山駅で下車。そして向かった先が青蓮院門跡で、2015年(平成27年)12月4日に夜間の特別拝観に出掛けて以来の訪問です。それで昼間に訪れるのは、2010年(平成22年)7月18日以来でした。
9時9分に「表門」前に着きました。空いていたら良いのになぁ・・・と、門をくぐります。
門を入って、右手に行けば拝観受付所があって、左手に行けば植髪堂がありますが、こちはら帰りに寄ります。
右に曲がった正面に「小御所」の入口がありますが、こちらは夜間拝観(ライトアップ)の時は、ここから入ります。
こちらが客殿の「華頂殿」での玄関で、ここを入って靴を脱いで正面の受付で拝観料500円を納めます。
天台宗総本山延暦寺の三門跡(妙法院門跡・三千院門跡・青蓮院門跡)の一つとして古くから知られ、現在は京都の五門跡を五ヶ室(妙法院門跡・三千院門跡・青蓮院門跡・曼殊院門跡・毘沙門堂門跡)と呼んでいる。宗祖伝教大師が僧侶の住居として建てた比叡山上の住坊「青蓮坊」が発祥。その京都での里坊として天台座主行玄(ぎょうげん)が平安後期に院の御所に準じて建立し、「青蓮院」と称した。殿舎の中心は初め白川坊にあり、後に吉水坊に移り、現在地は十楽院のあった場所である。平安末期からは門主は皇族、五摂関家の子弟に限られ、天台宗で最高の寺格をもつ寺となり、明治に至った。世に粟田御所と呼ばれている。第3世門主の慈円の時に最も栄えた。法然や親鸞を庇護したので浄土宗や浄土真宗の聖地になっている。天明の大火(1788年)の際、後桜町上皇の仮御所になった。そのため境内地全域約1万坪は国の史跡に指定され、宸殿、小御所、熾盛光堂(本堂)等の建物と池泉回遊式の庭園がある。日本三不動の一つ不動明王二童子画像は青不動明王(国宝)と呼ばれ、現在東山山頂「青龍殿」に祀られている。主庭は相阿弥(そうあみ)作、霧島の庭は小堀遠州作と伝えられている。
昼間に入るのは11年振りのため、すっかり忘れてます。拝観料を納めて最初に入るのは「華頂殿」です。
最初に入った部屋には、欄間に「三十六歌仙額絵」が飾られています。また、襖絵は木村英輝氏奉納の「蓮の絵」が60面を飾ります。
この時間では先客は1名、お互い邪魔しないように撮影したので、このような写真が撮れました。
ここからは「相阿弥作の庭」を見渡せます。何処から降りるか覚えてませんが、のちほどお庭を散策します。
この違い棚には、第109代明正天皇(めいしょうてんのう)御寄進「白書院」と書かれてました。
こちらは、布袋さん越しに「相阿弥作の庭」が見えて綺麗です。紅葉時には映えるでしょうね。
華頂殿には、「三十六歌仙額絵」がある間と、「相阿弥作の庭」が見える白書院、そして、もう一間がこちらです。
華頂殿を先客の方と同時に出てました。そして、この先に分岐点があって「宸殿」か「小御所・本堂」とに別れます。私は先客の方の反対側・・・「宸殿」に向かいました。
宸殿は門跡寺院特有のもので、主要な法要はここで行われます。最初の間には右、「元三慈恵大師像(良源)」、左「慈鎮和尚像(慈圓)」が祀られていました。
こちらには、有縁の天皇及び歴代門主の御尊牌が祀られており、親鸞聖人が第三代門主慈圓により得度をした場所でもあることから「お得度の間」とも呼ばれています。
次の間も覗きましたが、何も無かったです。多分、「濱松図襖」(重要文化財)があったんでしょう、外されてますね。この部屋だけ撮影禁止と書いてあったのもわかります。
このあと不覚にも戻ってしまったので、大玄関前に置いてある輿を見損ねてしまいました。第121代孝明天皇が使用された輿や、襖絵は、「日月松桜百鶴図」(黒田正夕氏筆)が見られます。過去、2回みてるから良いけどね。
後程、庭を散策できるので、ここはあっさりと・・・宸殿前には「右近の橘」「左近の桜」が植わっています。これは御歴代尊儀の在ます所の意味だそうです。
大玄関に行かなかったのは不覚でしたが、次に「小御所・本堂」に向かいます。
最初に「小御所(こごしょ)」に入りますが、その前に見損ねる訳には行かない、豊臣秀吉公寄進の「一文字手水鉢」があります。お賽銭のつもりでしょうか、小銭が入ってました。
1788年(天明8年)の皇居炎上の時、後櫻町上皇がここを仮御所としてお使いになった建物です。仮御所らしい佇まいですね。
その横には、「上段の間」があって、ここの障壁画は狩野派です。
江戸期に御所の小御所を移築した入母屋造桟瓦葺きの建物。明治に焼失した為、江戸中期の建物を移築してます。
相阿弥作の「相阿弥作の庭」を見ることができます。見る角度が違うと趣も変わりますね。
次に「熾盛光堂(本堂)」に入りました。ここの中央には国宝の青不動画像(複製写真)を安置。その他、不動明王木像なとが祀られてました。ここは撮影禁止のため写真はありません。
本物の青不動は、将軍塚青龍殿が完成した記念に特別公開された2014年(平成26年)11月7日にお参りに行きました。ここのは写真ですが、やはり本物は違います。コロナ禍で中止されていた青蓮院門跡からシャトルバスも復活されたようで、また行きたいです。
今年のお正月(令和3年)に、「聖天堂」が完成しました。明治の廃仏毀釈で境内を売却した際になくなった聖天堂を、再建されたそうです。堂内には本堂に祀られていた「聖天象」が安置されてました。
聖天堂のことは知らなかったです。こちらにお参りし、そこから「小御所」の屋根を撮りました。
聖天堂から降りてきて、小御所を通って拝観受付所まで戻りました。そこで下駄箱に預けていた靴を持って、庭に降ります。
庭園に降りるのも久し振りです。殆ど覚えて無いので、これからゆっくり庭園の鑑賞です。ただ、先に行かれた先客の方が庭園に降りずに帰られたようで、特に大きく案内が書いて無いので分かりづらいのかなぁ・・・と。
【青蓮院門跡】
9時9分に「表門」前に着きました。空いていたら良いのになぁ・・・と、門をくぐります。
門を入って、右手に行けば拝観受付所があって、左手に行けば植髪堂がありますが、こちはら帰りに寄ります。
右に曲がった正面に「小御所」の入口がありますが、こちらは夜間拝観(ライトアップ)の時は、ここから入ります。
こちらが客殿の「華頂殿」での玄関で、ここを入って靴を脱いで正面の受付で拝観料500円を納めます。
天台宗総本山延暦寺の三門跡(妙法院門跡・三千院門跡・青蓮院門跡)の一つとして古くから知られ、現在は京都の五門跡を五ヶ室(妙法院門跡・三千院門跡・青蓮院門跡・曼殊院門跡・毘沙門堂門跡)と呼んでいる。宗祖伝教大師が僧侶の住居として建てた比叡山上の住坊「青蓮坊」が発祥。その京都での里坊として天台座主行玄(ぎょうげん)が平安後期に院の御所に準じて建立し、「青蓮院」と称した。殿舎の中心は初め白川坊にあり、後に吉水坊に移り、現在地は十楽院のあった場所である。平安末期からは門主は皇族、五摂関家の子弟に限られ、天台宗で最高の寺格をもつ寺となり、明治に至った。世に粟田御所と呼ばれている。第3世門主の慈円の時に最も栄えた。法然や親鸞を庇護したので浄土宗や浄土真宗の聖地になっている。天明の大火(1788年)の際、後桜町上皇の仮御所になった。そのため境内地全域約1万坪は国の史跡に指定され、宸殿、小御所、熾盛光堂(本堂)等の建物と池泉回遊式の庭園がある。日本三不動の一つ不動明王二童子画像は青不動明王(国宝)と呼ばれ、現在東山山頂「青龍殿」に祀られている。主庭は相阿弥(そうあみ)作、霧島の庭は小堀遠州作と伝えられている。
昼間に入るのは11年振りのため、すっかり忘れてます。拝観料を納めて最初に入るのは「華頂殿」です。
最初に入った部屋には、欄間に「三十六歌仙額絵」が飾られています。また、襖絵は木村英輝氏奉納の「蓮の絵」が60面を飾ります。
この時間では先客は1名、お互い邪魔しないように撮影したので、このような写真が撮れました。
ここからは「相阿弥作の庭」を見渡せます。何処から降りるか覚えてませんが、のちほどお庭を散策します。
この違い棚には、第109代明正天皇(めいしょうてんのう)御寄進「白書院」と書かれてました。
こちらは、布袋さん越しに「相阿弥作の庭」が見えて綺麗です。紅葉時には映えるでしょうね。
華頂殿には、「三十六歌仙額絵」がある間と、「相阿弥作の庭」が見える白書院、そして、もう一間がこちらです。
華頂殿を先客の方と同時に出てました。そして、この先に分岐点があって「宸殿」か「小御所・本堂」とに別れます。私は先客の方の反対側・・・「宸殿」に向かいました。
宸殿は門跡寺院特有のもので、主要な法要はここで行われます。最初の間には右、「元三慈恵大師像(良源)」、左「慈鎮和尚像(慈圓)」が祀られていました。
こちらには、有縁の天皇及び歴代門主の御尊牌が祀られており、親鸞聖人が第三代門主慈圓により得度をした場所でもあることから「お得度の間」とも呼ばれています。
次の間も覗きましたが、何も無かったです。多分、「濱松図襖」(重要文化財)があったんでしょう、外されてますね。この部屋だけ撮影禁止と書いてあったのもわかります。
このあと不覚にも戻ってしまったので、大玄関前に置いてある輿を見損ねてしまいました。第121代孝明天皇が使用された輿や、襖絵は、「日月松桜百鶴図」(黒田正夕氏筆)が見られます。過去、2回みてるから良いけどね。
後程、庭を散策できるので、ここはあっさりと・・・宸殿前には「右近の橘」「左近の桜」が植わっています。これは御歴代尊儀の在ます所の意味だそうです。
大玄関に行かなかったのは不覚でしたが、次に「小御所・本堂」に向かいます。
最初に「小御所(こごしょ)」に入りますが、その前に見損ねる訳には行かない、豊臣秀吉公寄進の「一文字手水鉢」があります。お賽銭のつもりでしょうか、小銭が入ってました。
1788年(天明8年)の皇居炎上の時、後櫻町上皇がここを仮御所としてお使いになった建物です。仮御所らしい佇まいですね。
その横には、「上段の間」があって、ここの障壁画は狩野派です。
江戸期に御所の小御所を移築した入母屋造桟瓦葺きの建物。明治に焼失した為、江戸中期の建物を移築してます。
相阿弥作の「相阿弥作の庭」を見ることができます。見る角度が違うと趣も変わりますね。
次に「熾盛光堂(本堂)」に入りました。ここの中央には国宝の青不動画像(複製写真)を安置。その他、不動明王木像なとが祀られてました。ここは撮影禁止のため写真はありません。
本物の青不動は、将軍塚青龍殿が完成した記念に特別公開された2014年(平成26年)11月7日にお参りに行きました。ここのは写真ですが、やはり本物は違います。コロナ禍で中止されていた青蓮院門跡からシャトルバスも復活されたようで、また行きたいです。
今年のお正月(令和3年)に、「聖天堂」が完成しました。明治の廃仏毀釈で境内を売却した際になくなった聖天堂を、再建されたそうです。堂内には本堂に祀られていた「聖天象」が安置されてました。
聖天堂のことは知らなかったです。こちらにお参りし、そこから「小御所」の屋根を撮りました。
聖天堂から降りてきて、小御所を通って拝観受付所まで戻りました。そこで下駄箱に預けていた靴を持って、庭に降ります。
庭園に降りるのも久し振りです。殆ど覚えて無いので、これからゆっくり庭園の鑑賞です。ただ、先に行かれた先客の方が庭園に降りずに帰られたようで、特に大きく案内が書いて無いので分かりづらいのかなぁ・・・と。
【青蓮院門跡】
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