生前敵同士であった楠木正行と足利義詮の墓が並び立つ紅葉の名所 宝筐院へ
今日の朝に、妙心寺塔頭 大法院と法金剛院に行ったあと、14時45分頃に紅葉の名所である宝筐院に行きました。この時間なら人が少ないだろうと・・・予想して行った訳ではなく、この近くに所用があったので、ついでに寄って見たのが正解です。
宝筐院は、善入(ぜんにゅう)山と号する臨済宗の単立寺院。寺伝によると、平安時代に第72代白河天皇の勅願寺として創建され、善入寺と称した。南北朝時代に夢窓疎石の高弟である黙庵周諭(もくあんしゅうゆ)禅師が入寺し、室町幕府2代将軍足利義詮の保護を受け衰退していた伽藍が復興され、これ以降臨済宗の寺となった。1367年(貞治6年)に義詮の没後、善入寺は義詮の菩提寺となり、その院号に因んで宝筐院と改められた。室町幕府足利将軍家の保護もあって寺も隆盛したが、応仁の乱以降は経済的に困窮し衰退し明治の初めには廃寺となった。また、南朝時代する武将の楠木正行(小楠公。楠木正成の長男)は、黙庵周諭禅師に帰依しており、1348年(正平3年・貞和4年)の「四條畷の戦い」で足利方の高師直・師泰兄弟に討ち取られた後、その首級を生前の交誼により善入寺に葬った。時は明治になり、1891年(明治24年)、京都府知事北垣国道は楠木正行の遺跡が荒れているのを知り、正行ゆかりの遺跡を守ろうと天龍寺管長・高木龍淵や神戸の実業家・川崎芳太郎によって、旧境内地が買い戻され、建物も移築されて伽藍が整えられ、1916年(大正5年)宝筐院の再興が行われた。その後茶室が移築され、本堂が新築されてる。
14時46分「山門」前に着きました。外から見ただけですが、紅葉が綺麗そうに思えました。
入ると、右手にお寺の方が座られており、自販機で拝観券を買うように言われました。拝観料は500円で、その拝観券を渡すと・・・?。
真っ直ぐ進むものと思っていたら、寺務所の中を通って庭園に出るコースでした。由緒書きは自分で受け取ります。
そこそこ綺麗に色づいてます。それに人も少なそうに見えました。
順路に従うと、次に本堂に入りお参りです。
本堂に入る前に、振り向いて西から東の方向に撮りました。15時前のため西日が当たって綺麗に撮れます。
本堂に上がる前に、庭園のモミジを撮りました。もう少ししたら、ここは真っ赤に染まるでしょう。
「本堂」内には、楠木正行の菩提を弔う寺として再興された時、古仏の木造十一面千手観世音菩薩立像を迎え本尊とされました。
西日の入る堂内には、他に何も無いので早々と出て行くことにしました。
堂内を出て、順路の通り進みます。2012年(平成24年)11月に「紅葉」を見に来た時は、このコースは無かったです。
本堂の西側の苑路を整備されたのでしょう。枯山水庭園も造られてました。
本堂の西から北へ、そして東側に出てきました。本堂の東は庫裏か書院でしょうね。
ここから北東の方向に移築された「茶室」が見えました。
白砂や青苔、そしてカエデを見ながら回遊式の苑路を歩いて行くと、瀧組らしきものもありました。
ここまで来ると、前方に小グループの団体さんが・・・話を待っていたら遅くなるので、割り込みさせて貰ったのが次の写真です。
ここには、生前敵同士であった「室町幕府2代将軍足利義詮の墓」(左)と、楠木正成の子「楠木正行の首塚」(右)が仲良く並んで建っています。これは義詮が正行の人柄を慕い、そばに葬るように遺言したためといわれています。
墓所の北側には楠木正行の辞世の句が書かれた歌碑があります。「かえらじと かねておもへば梓弓 なき数に入る 名をぞ 止(とど)むる」と書いてあります。
楠木正行 足利義詮 両菩提所の前の参道は通ってませんが、順路が右に出ているので、そちらに向かいます。
右の遠路を進むと正面に出口(入口)が見えました。ただ、先に述べたように、まだ通ってない遠路があるので、そちらに向かいます。
15時ちょうどに、ここを出ました。この時間でも人力車の車夫さんに連れて来られた観光客が数組入って行かれました。
最初、30年程前に来た時、ここは隠れ紅葉の名所と言われてました。いつの間にか知られるようになって、ここ数年は開門前には行列ができるほど人気の紅葉の名所となって、暫く来てませんでしたが、庭園は随分整備されたようです。2020年(令和2年)8月20日は真夏の庭園を見て、2012年(平成24年)11月は、紅葉を見て、2010年(平成22年)2月7日には、雪が積もった庭園も見ています。2004年(平成16年)12月7日の紅葉時には、庭園には誰も居なかったのにね。
【宝筐院】
宝筐院は、善入(ぜんにゅう)山と号する臨済宗の単立寺院。寺伝によると、平安時代に第72代白河天皇の勅願寺として創建され、善入寺と称した。南北朝時代に夢窓疎石の高弟である黙庵周諭(もくあんしゅうゆ)禅師が入寺し、室町幕府2代将軍足利義詮の保護を受け衰退していた伽藍が復興され、これ以降臨済宗の寺となった。1367年(貞治6年)に義詮の没後、善入寺は義詮の菩提寺となり、その院号に因んで宝筐院と改められた。室町幕府足利将軍家の保護もあって寺も隆盛したが、応仁の乱以降は経済的に困窮し衰退し明治の初めには廃寺となった。また、南朝時代する武将の楠木正行(小楠公。楠木正成の長男)は、黙庵周諭禅師に帰依しており、1348年(正平3年・貞和4年)の「四條畷の戦い」で足利方の高師直・師泰兄弟に討ち取られた後、その首級を生前の交誼により善入寺に葬った。時は明治になり、1891年(明治24年)、京都府知事北垣国道は楠木正行の遺跡が荒れているのを知り、正行ゆかりの遺跡を守ろうと天龍寺管長・高木龍淵や神戸の実業家・川崎芳太郎によって、旧境内地が買い戻され、建物も移築されて伽藍が整えられ、1916年(大正5年)宝筐院の再興が行われた。その後茶室が移築され、本堂が新築されてる。
14時46分「山門」前に着きました。外から見ただけですが、紅葉が綺麗そうに思えました。
入ると、右手にお寺の方が座られており、自販機で拝観券を買うように言われました。拝観料は500円で、その拝観券を渡すと・・・?。
真っ直ぐ進むものと思っていたら、寺務所の中を通って庭園に出るコースでした。由緒書きは自分で受け取ります。
そこそこ綺麗に色づいてます。それに人も少なそうに見えました。
順路に従うと、次に本堂に入りお参りです。
本堂に入る前に、振り向いて西から東の方向に撮りました。15時前のため西日が当たって綺麗に撮れます。
本堂に上がる前に、庭園のモミジを撮りました。もう少ししたら、ここは真っ赤に染まるでしょう。
「本堂」内には、楠木正行の菩提を弔う寺として再興された時、古仏の木造十一面千手観世音菩薩立像を迎え本尊とされました。
西日の入る堂内には、他に何も無いので早々と出て行くことにしました。
堂内を出て、順路の通り進みます。2012年(平成24年)11月に「紅葉」を見に来た時は、このコースは無かったです。
本堂の西側の苑路を整備されたのでしょう。枯山水庭園も造られてました。
本堂の西から北へ、そして東側に出てきました。本堂の東は庫裏か書院でしょうね。
ここから北東の方向に移築された「茶室」が見えました。
白砂や青苔、そしてカエデを見ながら回遊式の苑路を歩いて行くと、瀧組らしきものもありました。
ここまで来ると、前方に小グループの団体さんが・・・話を待っていたら遅くなるので、割り込みさせて貰ったのが次の写真です。
ここには、生前敵同士であった「室町幕府2代将軍足利義詮の墓」(左)と、楠木正成の子「楠木正行の首塚」(右)が仲良く並んで建っています。これは義詮が正行の人柄を慕い、そばに葬るように遺言したためといわれています。
墓所の北側には楠木正行の辞世の句が書かれた歌碑があります。「かえらじと かねておもへば梓弓 なき数に入る 名をぞ 止(とど)むる」と書いてあります。
楠木正行 足利義詮 両菩提所の前の参道は通ってませんが、順路が右に出ているので、そちらに向かいます。
右の遠路を進むと正面に出口(入口)が見えました。ただ、先に述べたように、まだ通ってない遠路があるので、そちらに向かいます。
15時ちょうどに、ここを出ました。この時間でも人力車の車夫さんに連れて来られた観光客が数組入って行かれました。
最初、30年程前に来た時、ここは隠れ紅葉の名所と言われてました。いつの間にか知られるようになって、ここ数年は開門前には行列ができるほど人気の紅葉の名所となって、暫く来てませんでしたが、庭園は随分整備されたようです。2020年(令和2年)8月20日は真夏の庭園を見て、2012年(平成24年)11月は、紅葉を見て、2010年(平成22年)2月7日には、雪が積もった庭園も見ています。2004年(平成16年)12月7日の紅葉時には、庭園には誰も居なかったのにね。
【宝筐院】
この記事へのコメント