平安時代の歌人 在原業平が晩年を過ごした寺 十輪寺(なりひら寺)へ
天龍寺を出て、京都市西京区にある紅葉の名所は幾つかありますが、私がリクエストしたのは「なりひら桜」が有名な十輪寺です。私は、2018年(平成30年)6月29日に一度来ているので、二度目の訪問となります。
850年(嘉祥3年)、第55代文徳天皇の后である染殿(そめどの)皇后(藤原明子ふじわらのあきらけいこ)に世継ぎが生まれなかったため、伝教大師作で木像の延命地蔵菩薩を安置し、世継ぎ祈願を行ったのが始まりといわれています。そしてめでたく皇子(後の第56代清和天皇)が誕生したことから、文徳天皇は延命地蔵菩薩をご本尊とし、ここは祈願所とされました。その後、藤原北家(花山院家)が帰依され、一族の菩提寺となりました。
10時52分に十輪寺の駐車場に着きました。場内には黄色に染まったイチョウが、境内の紅葉期待できそうです。
駐車場に入るのも少し登りますが、ここから境内の入口まで行くのにも少し登ります。
山門下まで来て振り向くと、綺麗な紅葉が拡がってました。
2018年(平成30年)6月29日に来た時も、閉まったままの「山門」です。右横の通用門が開いているので入れます。
通用門を入った正面に「拝観受付所」があって、拝観料400円を納めます。すると拝観コースを案内されますが、2度目の訪問と伝えると案内を止められました。
ここから有料エリアの門をくぐると右手に「本堂」が見えて来ますが、拝観コースの通り帰りに寄ります。それより本堂前の紅葉が・・・?!。
本堂前の紅葉が凄く綺麗で、立て札には「業平紅葉」と書かれてました。
その横にある「鐘楼」周りの紅葉も素晴らしく綺麗でした。少し散り始めてますが、それが良かったです。なお、この鐘楼は1666年(寛文6年)の建立で、京都市文化財に指定されています。
本堂を離れて、この登りの参道を進みます。その先には前回見てますが、珍しいものが残っているからです。
ここまで上がると、眼下に本堂の屋根が見えました。
そのあと少しだけ登ると左手に「在原業平の墓」がありました。
在原業平(ありわらのなりひら)は、平安時代の歌人で六歌仙、三十六歌仙の一人。「伊勢物語」の主人といわれています。その業平が晩年に隠棲したと伝わるのが十輪寺です。
在原業平の墓とされる宝篋印塔から、紅葉の綺麗な参道を上がると・・・?。
「在原業平朝臣 塩竃の跡(復元)」がありました。ここは一周して見学できます。そして由来も書いてありました。
業平が、晩年に当地に隠棲されていたとき塩竃を築き難波の海水を運んで塩焼く風情を楽しまれた。そして思い人であった染殿皇后(藤原明子)が大原野神社に参詣される時、ここで紫の煙を立ち上らせて思いを託したと伝わります。
余談ですが、この十輪寺前のバス停は「小塩」と言います。この小塩の地名は、この故事に因んだ由来だとか。
降りてくる時に眼下から見た本堂や、ならひら桜が見えました。
再び「本堂」前に戻ってきたので、ここから靴を脱いで上がります。
創建当時の伽藍は応仁の乱で焼失し、現在の本堂は、1750年(寛延3年)右大臣 藤原常雅(つねまさ)よ.る再建にです。屋根は鳳輦型という神輿を型どった非常に珍しいものです。
堂内の中央に厨子があって、ご本尊の「延命地蔵菩薩」が祀られていますが閉まっています。ここは年に一回、8月23日のみご開帳されます。
延命地蔵菩薩は等身大木像の坐像で、その腹に巻かれた腹帯で染殿皇后が安産されたことから腹帯地蔵と称されます。また、内陣天井も彫刻も独特な意匠が施されています。
本堂を出て「高廊下」に出て書院に出ました。書院の襖絵は撮影禁止のため写真はありません。その書院から写真を撮りました。
この高廊下から茶室や業平御殿を囲むように庭があって「三方普感(さんぽうふかん)の庭」と呼ばれています。
1750年(寛延3年)右大臣 藤原常雅が本堂を再建したときに造られたもので、高廊下や茶室、業平御殿の三箇所から場所を変え、見る人に様々な想いを感じさせる癒やしの庭となっています。
「三方普感(さんぽうふかん)の庭」、ここの「なりひら桜」の樹齢は推定200年とありました。
本堂から見た、見事な紅葉です。普段は、閑散としている十輪寺も、この日は結構な人が来られて写真を撮ってましたね。
「本堂」から出ました。この「手水鉢」も綺麗な演出をされています。
本堂下から見た「高廊下」と「業平御殿」です。なりひら桜が咲く頃、ここから見ると綺麗でょう。
下から見た「高廊下」の奥「なりひら桜」です。
綺麗な紅葉が名残惜しいけど、次の予定もあるので出て行くことにしました。
11時14分に十輪寺の駐車場を出て行きました。ここから真っ直ぐ登れば、紅葉の名所である善峯寺に行けますが、当初は十輪寺のあと善峯寺を考えてました。ただ、善峯寺は標高が高いので、紅葉が進んでいるかも知れないと考えたので、次の目的を、この近くの“花の寺”に行くことにしました。
【小塩山 十輪寺】
850年(嘉祥3年)、第55代文徳天皇の后である染殿(そめどの)皇后(藤原明子ふじわらのあきらけいこ)に世継ぎが生まれなかったため、伝教大師作で木像の延命地蔵菩薩を安置し、世継ぎ祈願を行ったのが始まりといわれています。そしてめでたく皇子(後の第56代清和天皇)が誕生したことから、文徳天皇は延命地蔵菩薩をご本尊とし、ここは祈願所とされました。その後、藤原北家(花山院家)が帰依され、一族の菩提寺となりました。
10時52分に十輪寺の駐車場に着きました。場内には黄色に染まったイチョウが、境内の紅葉期待できそうです。
駐車場に入るのも少し登りますが、ここから境内の入口まで行くのにも少し登ります。
山門下まで来て振り向くと、綺麗な紅葉が拡がってました。
2018年(平成30年)6月29日に来た時も、閉まったままの「山門」です。右横の通用門が開いているので入れます。
通用門を入った正面に「拝観受付所」があって、拝観料400円を納めます。すると拝観コースを案内されますが、2度目の訪問と伝えると案内を止められました。
ここから有料エリアの門をくぐると右手に「本堂」が見えて来ますが、拝観コースの通り帰りに寄ります。それより本堂前の紅葉が・・・?!。
本堂前の紅葉が凄く綺麗で、立て札には「業平紅葉」と書かれてました。
その横にある「鐘楼」周りの紅葉も素晴らしく綺麗でした。少し散り始めてますが、それが良かったです。なお、この鐘楼は1666年(寛文6年)の建立で、京都市文化財に指定されています。
本堂を離れて、この登りの参道を進みます。その先には前回見てますが、珍しいものが残っているからです。
ここまで上がると、眼下に本堂の屋根が見えました。
そのあと少しだけ登ると左手に「在原業平の墓」がありました。
在原業平(ありわらのなりひら)は、平安時代の歌人で六歌仙、三十六歌仙の一人。「伊勢物語」の主人といわれています。その業平が晩年に隠棲したと伝わるのが十輪寺です。
在原業平の墓とされる宝篋印塔から、紅葉の綺麗な参道を上がると・・・?。
「在原業平朝臣 塩竃の跡(復元)」がありました。ここは一周して見学できます。そして由来も書いてありました。
業平が、晩年に当地に隠棲されていたとき塩竃を築き難波の海水を運んで塩焼く風情を楽しまれた。そして思い人であった染殿皇后(藤原明子)が大原野神社に参詣される時、ここで紫の煙を立ち上らせて思いを託したと伝わります。
余談ですが、この十輪寺前のバス停は「小塩」と言います。この小塩の地名は、この故事に因んだ由来だとか。
降りてくる時に眼下から見た本堂や、ならひら桜が見えました。
再び「本堂」前に戻ってきたので、ここから靴を脱いで上がります。
創建当時の伽藍は応仁の乱で焼失し、現在の本堂は、1750年(寛延3年)右大臣 藤原常雅(つねまさ)よ.る再建にです。屋根は鳳輦型という神輿を型どった非常に珍しいものです。
堂内の中央に厨子があって、ご本尊の「延命地蔵菩薩」が祀られていますが閉まっています。ここは年に一回、8月23日のみご開帳されます。
延命地蔵菩薩は等身大木像の坐像で、その腹に巻かれた腹帯で染殿皇后が安産されたことから腹帯地蔵と称されます。また、内陣天井も彫刻も独特な意匠が施されています。
本堂を出て「高廊下」に出て書院に出ました。書院の襖絵は撮影禁止のため写真はありません。その書院から写真を撮りました。
この高廊下から茶室や業平御殿を囲むように庭があって「三方普感(さんぽうふかん)の庭」と呼ばれています。
1750年(寛延3年)右大臣 藤原常雅が本堂を再建したときに造られたもので、高廊下や茶室、業平御殿の三箇所から場所を変え、見る人に様々な想いを感じさせる癒やしの庭となっています。
「三方普感(さんぽうふかん)の庭」、ここの「なりひら桜」の樹齢は推定200年とありました。
本堂から見た、見事な紅葉です。普段は、閑散としている十輪寺も、この日は結構な人が来られて写真を撮ってましたね。
「本堂」から出ました。この「手水鉢」も綺麗な演出をされています。
本堂下から見た「高廊下」と「業平御殿」です。なりひら桜が咲く頃、ここから見ると綺麗でょう。
下から見た「高廊下」の奥「なりひら桜」です。
綺麗な紅葉が名残惜しいけど、次の予定もあるので出て行くことにしました。
11時14分に十輪寺の駐車場を出て行きました。ここから真っ直ぐ登れば、紅葉の名所である善峯寺に行けますが、当初は十輪寺のあと善峯寺を考えてました。ただ、善峯寺は標高が高いので、紅葉が進んでいるかも知れないと考えたので、次の目的を、この近くの“花の寺”に行くことにしました。
【小塩山 十輪寺】
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