旧百々御所 宝鏡寺門跡「令和3年度 秋の人形展」へ
11月5日(金)は、通院日で診察が終わってから、長らく来て無かった旧百々御所 宝鏡寺門跡「令和3年度 秋の人形展」に行くつもりで病院から歩いて向かいました。地図で計算すると約3㌔弱で、40分もかからず行けるだろうと思っていたんですが・・・9時10分頃に出発したんですが、着いたのが10時前・・・開門ギリギリでした
。目的地まで迷わずに歩いたですが、やっぱり膝を庇っているのでしょうね、予想より着くのが遅かったです。ただ、開門には待たずに済みましたけど
。
旧百々御所 宝鏡寺門跡は、2006年(平成18年)3月5日「平成18年度 春の人形展」と、2013年(平年25年)2月10日の「第47回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開」に来ているので、今日で3回目です。今日来た目的は、昨年から写真撮影を解禁されたからです。以前は、玄関を入ってから撮影を禁止されてました。以前、訪問した時、綺麗な庭を撮りたいなぁ・・・と思っていたので来てみました。ただ春はコロナ禍のため拝観を中止されたので、この秋に拝観を再開されたのは本当に良かったです
。

寺之内通り沿いに「大門」があって、柵がしてありますがずっとです
。来た時は戸惑いましたね、入って良いのかって
。景愛寺(けいあいじ)
宝鏡寺は、山号を「西山(せいざん)」と号し、百々御所(どどのごしょ)の御所号をもつ、臨済宗単立の尼門跡寺院です。 本尊は聖観世音菩薩で、伊勢の二見浦で漁網により上げられた折り、小さな宝鏡を手にし光り輝いていたため人々は驚き朝廷に献上した伝えられています。北朝4代後光厳天皇が宮中の御黒戸(おくろど)に安置していたところ、その後時折吉祥のしるしが現れたため、京洛に栄えていた無外如大禅尼(むがいにょだいぜんに)が開山の尼五山第一西山景愛寺(けいあいじ)に納めました。時の住職、光厳天皇皇女第六世華林宮惠厳(かりんのみやえごん)禅尼は、早速宝鏡寺を開山し、後光厳天皇より宝鏡寺の号を賜りました。その後も皇女が歴代となる宮門跡となり百々御所(どどのごしょ)と号されました。堂宇は1788年(天明8年)の天明の大火で焼失するも、1798年(寛永10年)より書院が再興され、東端北寄りに主座敷である「御座の間」、手前に「次の間」の大広間を配し、襖絵は1833年(天保4年)に円山派の絵師によって描かれました。次に1830年(文政13年)に本堂・使者の間・大玄関が再興しました。さらに1847年(弘化4年)に光格天皇勅作の阿弥陀如来像とともに御所の建物を賜り阿弥陀堂が造営されました。なお各建物は京都市指定文化財です。境内には椿の月光・熊谷・侘助を始め、百人一首で詠まれた奈良の都の八重桜、第119代光格天皇ゆかりの伊勢撫子など珍しい花が四季折々に咲き誇ります。そして傍らに流れる小川は、応仁の乱に東西陣営の境になった清流でした。ふだんは非公開ですが、春と秋に人形展が開かれ公開されます。
この写真は帰りに撮ったんですが、私が来た時は団体さんが10時になるのを待たれてました。団体さんと言っても10名程度だったと思います。

すっかり忘れてましたが、拝観受付所は「大玄関」で左隣から靴を脱いで入ります。
先に来られていた団体さんが先に入られると思ったですが、動かれないので先に入らせて貰いました。受付で拝観料600円を納めて堂内に入ります。受付では「写真はお庭だけにさせて貰ってます」と言われました。「やっぱり庭は写真撮れるようになったんや」と
。入ると「使者の間」では、宝鏡寺を紹介されてるビデオが流れています。私は先に庭の写真を撮りたかったので、ここはスルーして本堂に出ました。



もう少ししたら赤く染まるであろう「南庭」を撮りました。ここには高さ8.7㍍、枝張16㍍、幹周1.5㍍の「イロハモミジ」があるからです。
「本堂」は、前後各三室からなる六間取りの方丈形式となっています。手前が東端で、床を一段高くして「上段の間」となっていました。
この上段の間がある部屋の襖絵は、正面に狩野探幽の「秋の図」。左右には、河股幸和画伯筆「ゆりかもめ(都どり)」(冬)でした。

仏間でしょうか、真ん中の部屋には扁額が架かってました。「宝鏡寺門跡22世本覚院宮筆」だそうです。第111代後西(ごさい)天皇の第十一皇女ですね。
ご本尊は由緒に書いてあったように、伊勢二見ケ浦で鏡を持たれ漁網にかかり上げられた聖観世音菩薩ですが堂内は暗いです。あと第108代後水尾天皇信仰の釈迦如来像が御所より宝鏡寺に安置されてます。他に歴代天皇・皇后の御尊牌が祀られてました。襖絵は、正面に狩野探幽の「秋の図」。向かって右には、河股幸和画伯筆「伊勢撫子と鶺鴒(セキレイ)」(月)。左に「伊勢撫子と鶺鴒」(日)でした。
西端の部屋には、河股幸和画伯筆「葡萄と鹿」(夏)と「八重桜と小犬」(春)でしたね。


次に本堂の東側に移動します。こちらにも綺麗な庭園が拡がっています。

この本堂東側の奥には「勅作堂(阿弥陀堂)」があり、日野富子木像が祀られています。
堂内は写真が撮れないので、阿弥陀堂の前から撮ったものです。阿弥陀堂内には前途した日野富子像の他に、第119代光格天皇勅作の阿弥陀如来像、北朝第4代後光厳天皇妃の崇賢門院像が祀られています。何故、ここに日野富子像があるかは・・・?。
日野富子は、公卿日野政光の娘で、室町幕府8代将軍足利義政の妻となった。世継ぎがいなかったことから将軍の後継者を弟義視を定めていたが、その翌年富子に義尚が生まれ世継ぎ争いになり、これが「応仁の乱」を引き起こす要因の一つとなった。宝鏡寺の北に隣接して、北朝第5代後円融天皇の母、崇賢門院を開基とする浄土宗の大慈院が明治初期まであったが、この崇賢門院は富子の親族であり、後に富子は出家し妙善院となって大慈院に入った。宝鏡寺は大慈院の住職を兼務していたこともあって、大慈院は宝鏡寺に引き継がれ日野富子の像も宝鏡寺に祀られるようになった。宝鏡寺第十五世渓山禅師は、義政と富子との間に生まれた娘である。
次に案内に従って進むと、本堂と書院との間に「中庭」に出ますが、書院の公開はありませんでした。

この中庭を抜けると江戸幕府14代将軍徳川家茂に降嫁した皇女和宮が、幼少の頃、宝鏡寺に住まわれていた時に遊ばれていたお庭に出ました。「鶴亀の庭」と呼ばれています。
第120代仁孝(にんこう)天皇を父君に持つ和宮内親王は、公武合体のため江戸幕府14代将軍徳川家茂に降嫁し、江戸城開城に隠れた功績を残した。和宮が幼少の頃、生母橋本経子(はしもとつねこ)の許より姉君桂宮淑子(かつらのみやすみこ)内親王の御殿に移ってから百々御所(宝鏡寺)にて若い上臈(じょうろう)達と盤雙六(ばんすごろく)や貝合せなどに興じて「鶴亀の庭」で遊んだと言う。
カーテンで閉ざされていますが、非公開の「書院」です。2013年(平年25年)2月10日に行った「第47回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開」では内部に入りました。
書院では、円山応挙筆の愛しい小犬の杉戸絵を始め、円山派の絵師による障壁画が残っている。四季折々の農夫の風景を情緒豊かに描いた応挙の孫、円山応震の襖絵「四季耕作図」は、皇女たちが目にしたこともない農村の仕事を学ぶものであったらしい。





書院の公開が無いので、再び本堂まで戻ってくると、ようやく後続の方が入って来られました。それまでは私一人でした。
最初に写真を撮って、それから堂内の「秋の人形展」を見て行きました。春も来てますが、華やかさは春に比べると無いですね。ここまで、かなり歩いて来たので、少々お疲れ気味です
。
ビデオは見なかったので、10時15分に出て行きました。この日から始まったので空いてましたし、紅葉もこれから見頃となるでしょう。ひょっとしたら再訪するかもです。
以前は、写真が撮れなかったので、この「人形塚」ぐらいでした。1959年(昭和34年)に、お人形と人形制作などに関わられた方々の供養のために建立されましたそうです。毎年10月14日に人形供養が行われています。この石碑には武者小路実篤の詩が刻まれてました。
「人形よ 誰がつくりしか 誰に愛されしか 知らぬども 愛された事実こそ 汝が 成仏の誠なれ」
10時17分に「大門」を出て、寺之内通りを東に進みます。途中の、俵屋吉富 小川店で買い物をし、そのまま東に進み烏丸通に出て地下鉄に乗って帰りました。烏丸今出川駅では、同志社大学の学生さんでしょうか、大挙降りて来られたのには驚きましたね。おかげで電車内は空いてましたが
。
そして、3週間たった11月26日(金)に、紅葉が見頃になったかなぁ・・・と思い、再訪してみると・・・?。

入る前に、庭園の紅葉が見えました。「人形塚」の奥、イロハモミジ期待できそうです。

紅葉が見頃なのに、入ってみると3週間前より拝観者が少なく、たった2組だけ・・・でした。



少し散り始めてましたが、再訪しに、ここまでやって来て良かったです。
「中庭」の紅葉も綺麗でした。この庭は期待してなかったのにね。次は鶴亀の庭です。

「鶴亀の庭」の紅葉も綺麗でした
。




お庭の紅葉が思っていたより綺麗だったので、行くなら11月下旬がお勧めです
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【旧百々御所 宝鏡寺門跡】



旧百々御所 宝鏡寺門跡は、2006年(平成18年)3月5日「平成18年度 春の人形展」と、2013年(平年25年)2月10日の「第47回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開」に来ているので、今日で3回目です。今日来た目的は、昨年から写真撮影を解禁されたからです。以前は、玄関を入ってから撮影を禁止されてました。以前、訪問した時、綺麗な庭を撮りたいなぁ・・・と思っていたので来てみました。ただ春はコロナ禍のため拝観を中止されたので、この秋に拝観を再開されたのは本当に良かったです





宝鏡寺は、山号を「西山(せいざん)」と号し、百々御所(どどのごしょ)の御所号をもつ、臨済宗単立の尼門跡寺院です。 本尊は聖観世音菩薩で、伊勢の二見浦で漁網により上げられた折り、小さな宝鏡を手にし光り輝いていたため人々は驚き朝廷に献上した伝えられています。北朝4代後光厳天皇が宮中の御黒戸(おくろど)に安置していたところ、その後時折吉祥のしるしが現れたため、京洛に栄えていた無外如大禅尼(むがいにょだいぜんに)が開山の尼五山第一西山景愛寺(けいあいじ)に納めました。時の住職、光厳天皇皇女第六世華林宮惠厳(かりんのみやえごん)禅尼は、早速宝鏡寺を開山し、後光厳天皇より宝鏡寺の号を賜りました。その後も皇女が歴代となる宮門跡となり百々御所(どどのごしょ)と号されました。堂宇は1788年(天明8年)の天明の大火で焼失するも、1798年(寛永10年)より書院が再興され、東端北寄りに主座敷である「御座の間」、手前に「次の間」の大広間を配し、襖絵は1833年(天保4年)に円山派の絵師によって描かれました。次に1830年(文政13年)に本堂・使者の間・大玄関が再興しました。さらに1847年(弘化4年)に光格天皇勅作の阿弥陀如来像とともに御所の建物を賜り阿弥陀堂が造営されました。なお各建物は京都市指定文化財です。境内には椿の月光・熊谷・侘助を始め、百人一首で詠まれた奈良の都の八重桜、第119代光格天皇ゆかりの伊勢撫子など珍しい花が四季折々に咲き誇ります。そして傍らに流れる小川は、応仁の乱に東西陣営の境になった清流でした。ふだんは非公開ですが、春と秋に人形展が開かれ公開されます。



先に来られていた団体さんが先に入られると思ったですが、動かれないので先に入らせて貰いました。受付で拝観料600円を納めて堂内に入ります。受付では「写真はお庭だけにさせて貰ってます」と言われました。「やっぱり庭は写真撮れるようになったんや」と









ご本尊は由緒に書いてあったように、伊勢二見ケ浦で鏡を持たれ漁網にかかり上げられた聖観世音菩薩ですが堂内は暗いです。あと第108代後水尾天皇信仰の釈迦如来像が御所より宝鏡寺に安置されてます。他に歴代天皇・皇后の御尊牌が祀られてました。襖絵は、正面に狩野探幽の「秋の図」。向かって右には、河股幸和画伯筆「伊勢撫子と鶺鴒(セキレイ)」(月)。左に「伊勢撫子と鶺鴒」(日)でした。







日野富子は、公卿日野政光の娘で、室町幕府8代将軍足利義政の妻となった。世継ぎがいなかったことから将軍の後継者を弟義視を定めていたが、その翌年富子に義尚が生まれ世継ぎ争いになり、これが「応仁の乱」を引き起こす要因の一つとなった。宝鏡寺の北に隣接して、北朝第5代後円融天皇の母、崇賢門院を開基とする浄土宗の大慈院が明治初期まであったが、この崇賢門院は富子の親族であり、後に富子は出家し妙善院となって大慈院に入った。宝鏡寺は大慈院の住職を兼務していたこともあって、大慈院は宝鏡寺に引き継がれ日野富子の像も宝鏡寺に祀られるようになった。宝鏡寺第十五世渓山禅師は、義政と富子との間に生まれた娘である。



第120代仁孝(にんこう)天皇を父君に持つ和宮内親王は、公武合体のため江戸幕府14代将軍徳川家茂に降嫁し、江戸城開城に隠れた功績を残した。和宮が幼少の頃、生母橋本経子(はしもとつねこ)の許より姉君桂宮淑子(かつらのみやすみこ)内親王の御殿に移ってから百々御所(宝鏡寺)にて若い上臈(じょうろう)達と盤雙六(ばんすごろく)や貝合せなどに興じて「鶴亀の庭」で遊んだと言う。

書院では、円山応挙筆の愛しい小犬の杉戸絵を始め、円山派の絵師による障壁画が残っている。四季折々の農夫の風景を情緒豊かに描いた応挙の孫、円山応震の襖絵「四季耕作図」は、皇女たちが目にしたこともない農村の仕事を学ぶものであったらしい。






最初に写真を撮って、それから堂内の「秋の人形展」を見て行きました。春も来てますが、華やかさは春に比べると無いですね。ここまで、かなり歩いて来たので、少々お疲れ気味です



「人形よ 誰がつくりしか 誰に愛されしか 知らぬども 愛された事実こそ 汝が 成仏の誠なれ」
10時17分に「大門」を出て、寺之内通りを東に進みます。途中の、俵屋吉富 小川店で買い物をし、そのまま東に進み烏丸通に出て地下鉄に乗って帰りました。烏丸今出川駅では、同志社大学の学生さんでしょうか、大挙降りて来られたのには驚きましたね。おかげで電車内は空いてましたが

そして、3週間たった11月26日(金)に、紅葉が見頃になったかなぁ・・・と思い、再訪してみると・・・?。


















【旧百々御所 宝鏡寺門跡】
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