「元金閣」と呼ばれる舎利殿が修復工事中の覚雄山 鹿王院へ
今年で5回目の覚雄山 鹿王院での夜間特別拝観は、鹿王院舎利殿 修復工事および新型コロナウイルスの影響により中止となりました。
私は2016年(平成28年)11月27日に「夜間特別拝観」に行きましたが、それが初年度でした。そして、昨年と今年が中止・・・来年こそは開催されれば良いですね
。夜間拝観が中止されたので、11月8日(月)に朝、鹿王院を訪れました。
家から歩いて9時6分に「山門」前に着きました。この山門は創建時から変わらないそうです。
室町幕府3代将軍足利義満が1380年(康暦2年)足利家の繁栄と自身の長寿を祈るために建立したのが宝幢寺(ほうどうじ)で、開山は普明国師・春屋妙葩(しゅんおくみょうは)で、義満はその10年後に相国寺を建てる時にも、招聘しましたが禅師は固辞された。普明国師が生前から自らの塔所として宝幢寺内に鹿王院を建立。室町時半ば応仁の乱で退転し、天正年間(1573~93年)以降は、本山である宝幢寺の寺務は、すべて鹿王院が管掌することになった。江戸時代には鹿王院の末寺は48ケ寺なるも慶長の大地震(1605年)により倒壊。寛文年間1661~73年)に住持となった虎岑(こしん)和尚により、諸堂が修理再興され今日に至っている。
山門から参道を見ると、紅葉はイマイチです。色づくにはもう少し後になりますね。それでも入ることにしました。
入ると右手に「拝観受付所」がありますが、紅葉の最盛期にしか、ここには人は居ません。
参道の半ばでは、まだ緑でした。ここでお寺の方と擦れ違って「直ぐに戻ってくるので、ゆっくり見て行ってください」と言われたので、寄り道をしていくことに・・・
。

参道を進めば左手に「鎮守社」があって、そこの扁額には「正一位 春香稲荷大神」と書かれてました。
寄り道しましたが、次に「中門」を潜ります。
中門を潜ると、正面に「庫裏」があって、そこに拝観受付所があります。
庫裏に入る前に左手を見ると「舎利殿」が工事用の幕に覆われています。分かって来たので納得ですが、少々残念ですね。
「庫裏」に入る前に振り向くと、後ろからお寺の方が戻って来られました。それで、受付してもらい拝観料400円を納めて上がります。
上がると正面に庫裏では必ず祀られている「韋駄天像」がありました。いち早く走り来て仏法は妨げる邪鬼を取り除く・・・「韋駄天走り」ですね。


案内にしたがって進むと、前方に「本庭」と「客殿」が見えてきました。
本当なら、紅葉と「舎利殿」、そして借景の嵐山が見えるですけど・・・。残念な光景です。

「客殿前庭」は、嵐山を借景にしており平庭式の枯山水庭園です。
元々あった室町時代の庭の面影を残す庭園で、三尊石を中心に20数個の石組みを残す。嵐山を借景に樹齢400年の木斛(もっこく)、庭一面に敷き詰められた杉苔に囲まれた舎利殿は、釈迦の母国、北インドの木々の様子を思い浮かべる。
客殿に架かる「扁額」は、室町幕府3代将軍足利義満の揮毫によるものと伝わります。
舎利殿が工事中のため「客殿」の全景は、これが精一杯です。淺瓦葺き、単層入母屋造りで明治の初期の頃の再建です。
次に「本堂」に入ります。堂内は撮影禁止でしたが、以前は自由に撮れたので写真が残っています。
淺瓦葺き、三間四方の単層寄棟造り。中興の祖虎岑(こしん)和尚によって延宝年間(1673年~81年)に再建された。現在は開山堂と仏殿を兼ねている。客殿と舎利殿を渡り廊下でつなぎ、本堂中央には本尊の釈迦如来坐像と十大弟子像。向かって右側には開山の普明国師像が、そして左には開基の足利義満の衣冠束帯姿の像を安置されている。
この先が「元金閣」と呼ばれる「舎利殿」ですが、修復工事中のため全景が見えません。堂内も入れませんでした。
舎利殿とは釈迦の遺骨(舎利)を安置するお堂のこと。建築様式は唐様を主とする単層宝形造りで、江戸時代初期の建築であり、裳階(もこし)があるため外見では二層に見えるが造りは単層で、創建当時は客殿の東北にあったものを宝暦年間(1751~64年)に現在地に移された。堂内内陣に多宝塔があって、珍しい仏舎利が安置されている。それは鎌倉幕府3代将軍源実朝が宋の都、臨安の能仁寺から請うじた貴重な舎利であり、後に鎌倉の円覚寺から光厳上皇、夢想国師、後光厳上皇を経て普明国師に下賜されたものであり、後奈良天皇、正親町天皇、後水尾天皇も参拝された。宋から博多に無事到着したのが10月15日であったことから、年に一回御開帳される。


舎利殿に入れないので、渡り廊下を通って客殿まで戻りました。なお、本堂では先客が1名熱心に仏像を見られてました。玄関に靴が一足あったので、早々と来られてたんですね。

詳しいことが書いて無いので舎利殿の完成がいつ頃か分かりませんが、また再訪します。

客殿の北側には2017年(平成29年)5月5日に訪問した「春季京都非公開文化財特別公開」で入れたる茶室「芥室(かいしつ)」があります。
夜間特別拝観では、ここで呈茶をいただきましたし、このときは写真も撮れました
。

茶室「芥室(かいしつ)」には入れませんでしたが、これを見て出て行きました。そしたら、お一人入って来られましたね。まだ、そんなに色づいてないのに・・・。









9時27分に、山門から外に出ました。この時間では山門前の駐車場には1台も車は止まってません。
ここから歩いて家に帰りました。そして3週間後の11月29日(月)の8時頃に再訪してるみと・・・?。
山門に架かる変額は室町幕府3代将軍足利義満の筆によるもので、前回見損ねてました。そして駐車場には大型のタクシーが2台止まってて、山門から参道覗くと綺麗な紅葉が目に飛び込んできました。









朝早くから、テレビのクルーでしょうか撮影に来られてました。そのあと、10名弱の方が写真を撮りに来られてました。この時間なら参道の紅葉は無料で見られるからでしょう。
ここの紅葉の色は凄く綺麗でした。鹿王院の紅葉は、少し遅いので今が見頃となったんでしょう。来年はライトアップされたら良いですね。
【鹿王院】

私は2016年(平成28年)11月27日に「夜間特別拝観」に行きましたが、それが初年度でした。そして、昨年と今年が中止・・・来年こそは開催されれば良いですね


室町幕府3代将軍足利義満が1380年(康暦2年)足利家の繁栄と自身の長寿を祈るために建立したのが宝幢寺(ほうどうじ)で、開山は普明国師・春屋妙葩(しゅんおくみょうは)で、義満はその10年後に相国寺を建てる時にも、招聘しましたが禅師は固辞された。普明国師が生前から自らの塔所として宝幢寺内に鹿王院を建立。室町時半ば応仁の乱で退転し、天正年間(1573~93年)以降は、本山である宝幢寺の寺務は、すべて鹿王院が管掌することになった。江戸時代には鹿王院の末寺は48ケ寺なるも慶長の大地震(1605年)により倒壊。寛文年間1661~73年)に住持となった虎岑(こしん)和尚により、諸堂が修理再興され今日に至っている。

















元々あった室町時代の庭の面影を残す庭園で、三尊石を中心に20数個の石組みを残す。嵐山を借景に樹齢400年の木斛(もっこく)、庭一面に敷き詰められた杉苔に囲まれた舎利殿は、釈迦の母国、北インドの木々の様子を思い浮かべる。



淺瓦葺き、三間四方の単層寄棟造り。中興の祖虎岑(こしん)和尚によって延宝年間(1673年~81年)に再建された。現在は開山堂と仏殿を兼ねている。客殿と舎利殿を渡り廊下でつなぎ、本堂中央には本尊の釈迦如来坐像と十大弟子像。向かって右側には開山の普明国師像が、そして左には開基の足利義満の衣冠束帯姿の像を安置されている。

舎利殿とは釈迦の遺骨(舎利)を安置するお堂のこと。建築様式は唐様を主とする単層宝形造りで、江戸時代初期の建築であり、裳階(もこし)があるため外見では二層に見えるが造りは単層で、創建当時は客殿の東北にあったものを宝暦年間(1751~64年)に現在地に移された。堂内内陣に多宝塔があって、珍しい仏舎利が安置されている。それは鎌倉幕府3代将軍源実朝が宋の都、臨安の能仁寺から請うじた貴重な舎利であり、後に鎌倉の円覚寺から光厳上皇、夢想国師、後光厳上皇を経て普明国師に下賜されたものであり、後奈良天皇、正親町天皇、後水尾天皇も参拝された。宋から博多に無事到着したのが10月15日であったことから、年に一回御開帳される。







夜間特別拝観では、ここで呈茶をいただきましたし、このときは写真も撮れました













ここから歩いて家に帰りました。そして3週間後の11月29日(月)の8時頃に再訪してるみと・・・?。











ここの紅葉の色は凄く綺麗でした。鹿王院の紅葉は、少し遅いので今が見頃となったんでしょう。来年はライトアップされたら良いですね。
【鹿王院】
この記事へのコメント