NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主役 明智光秀ゆかりの「明智藪」と「明智光秀の胴塚」へ
11月25日(木)の昨日は、天龍寺塔頭 臨川寺の特別拝観から西山の紅葉を見に行きましたが、今日は京都市山科区にある紅葉を巡るつもりで、自宅を友人の車で出発。最初の目的にである、醍醐寺に8時30分頃着きました。ただ、開門は9時のため、以前友人が行ったことがあると言ってた「明智藪」を見に行くことになりました。
2020年(令和2年)のNHK大河ドラマは、明智光秀を描いた「麒麟がくる」でした。その明智光秀ゆかりの「明智藪」が、京都市伏見区小栗栖にありますが、竹藪に覆われていると思いきや住宅街の一角に石碑がありました。道路幅も狭く急な坂を登っていくのと、途中までは「明智藪」と案内が出てますが、途中から案内も無いので、友人は近くに歩いている人に聞いてやっと着いた・・・と。
1582年(天正10年)6月2日、明智光秀は本能寺に宿泊していた主君 織田信長を急襲し(本能寺の変)、自害させました。しかし、光秀はすぐ後の6月13日に、備中高松城から引き上げて来た(中国大返し)羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)らと山崎(天王山)で戦い(山崎の戦い)敗北。光秀は近江坂本城(明智光秀の居城)を目指して逃れますが、その途中、伏見区小栗栖小阪町の竹藪(通称、明智藪)から突き出された竹槍に刺されて重傷を負い、その場で自害し、家臣に首を打たせてたと伝わっています。その際、光秀の首は介錯をした家来によって隠されたと伝え伝わる「首塚」が京都市粟田口にあります。

住宅街に、この石碑が建ってますが、竹藪はもう少し先にあるので、ここからは歩いて向かいます。

この竹藪前まで車では行けません。光秀の時代では、ここは竹藪の真ん中だったんでしょうね。
ここから山を一つ越えたら大津市に入るのにね。無念だったでしょう。ここから車に戻りますが、車はバックで降りて行きます。友人の運転技術に任せるしかありせんが上手です
。このあと、私は知りませんでしたが、ここから2㌔先に「明智光秀の胴塚」があるので行ってみると・・・。
京都市山科区勧修寺に、この石碑がありました。ここも分かりづらいですね。明智光秀の遺体(胴体)が埋葬された「明智光秀の胴塚」があったと伝わる石碑です。
友人が、胴塚を探すのに行ったり来たりしたので、醍醐寺の開門時間が近づいて来ました。ここから醍醐寺の駐車場に急いで行ってくれようにお願いしたわけです
。なお、光秀の首塚は、宮津市の盛林寺にもありました。
【明智藪】

【明智光秀の胴塚】

2020年(令和2年)のNHK大河ドラマは、明智光秀を描いた「麒麟がくる」でした。その明智光秀ゆかりの「明智藪」が、京都市伏見区小栗栖にありますが、竹藪に覆われていると思いきや住宅街の一角に石碑がありました。道路幅も狭く急な坂を登っていくのと、途中までは「明智藪」と案内が出てますが、途中から案内も無いので、友人は近くに歩いている人に聞いてやっと着いた・・・と。
1582年(天正10年)6月2日、明智光秀は本能寺に宿泊していた主君 織田信長を急襲し(本能寺の変)、自害させました。しかし、光秀はすぐ後の6月13日に、備中高松城から引き上げて来た(中国大返し)羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)らと山崎(天王山)で戦い(山崎の戦い)敗北。光秀は近江坂本城(明智光秀の居城)を目指して逃れますが、その途中、伏見区小栗栖小阪町の竹藪(通称、明智藪)から突き出された竹槍に刺されて重傷を負い、その場で自害し、家臣に首を打たせてたと伝わっています。その際、光秀の首は介錯をした家来によって隠されたと伝え伝わる「首塚」が京都市粟田口にあります。




ここから山を一つ越えたら大津市に入るのにね。無念だったでしょう。ここから車に戻りますが、車はバックで降りて行きます。友人の運転技術に任せるしかありせんが上手です


友人が、胴塚を探すのに行ったり来たりしたので、醍醐寺の開門時間が近づいて来ました。ここから醍醐寺の駐車場に急いで行ってくれようにお願いしたわけです

【明智藪】
【明智光秀の胴塚】
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