冬枯れの常寂光寺へ
この日の散歩の最後は、常寂光寺に行きました。ここは眺望を見るには、かなりの石段を登る必要があるので、最後に選んだ訳です。
9時34分に「山門」前に着きました。京都屈指の紅葉の名所も、今はすっかり紅葉は散ってしまいました。
山門を潜ると前方に「拝観受付所」があるので、拝観料500円を納めます。紅葉時には、開門前には行列ができますが、今は閑散としてますね。
拝観料を納めると前方に「仁王門」が見えます。茅葺きの仁王門は、いつ見ても美しいです。この仁王門は、もと本圀寺客殿の南門として貞和年間(1345〜49)に建立されたものを、1616年(元和2年)に移築されたそうです。
仁王門から本堂に至る石段を見ると、花灯路の行灯が残ってますね、片付けて欲しかった・・・。
石段を上がりきりると、帰りは、ここから降りないので仁王門を上から撮りました。
正面には「本堂」がありますが、非公開です。第二世通明院日韶上人(日野大納言輝資の息男)代に小早川秀秋の助力を得て、桃山城客殿を移築して本堂としたものです。
冬枯れで、こちらの句碑も見やすくなってます。「落葉ふんで 道新しく ひらけたり 義生」と書かれており、脚本家の高桑義生の作です。
その先には「展望所」があります。しかし、ここよりもっと綺麗に見える展望所が、この上にあります。
展望台の対面には「妙見堂」があります。1974年(昭和49年)に妙見堂本殿と拝殿の大改築がされたそうです。
その妙見堂の裏手から、最近整備された「竹林」に行きました。
さらに石段を上がると、嵐山花灯路の夜間拝観では行けない石段を、さらに登って行きます。
ここからは石段が急で、幅が狭くなるので夜間では危険なためでしょう。ほどなく登ると「多宝塔」が見えてきます。
多宝塔から、さらに登るとこの先に「時雨亭跡」の石碑が建っています。江戸時代の中頃まで、ここに時雨亭がありましたが、昭和初期の台風により倒壊したそうです。
時雨亭跡の側には「歌仙祠(かせんし)」があって、1890年(明治23年)の建立です。内部には藤原定家、藤原家隆像が祀られており、扁額の「歌遷祠」は富岡鉄斎の筆によるものです。
ここからも眺望は楽しみますが、まだまだ上に展望所があります。ここから「多宝塔」が見えました。
相当、足は疲れてますが、最後の石段を登り切ります。上に行くほど細くて急な石段となりました。
ここから比叡山、双ケ岡、船岡山、仁和寺五重塔、如意ヶ嶽(大文字山)が綺麗に見えます。余談ですが、この日の階段歩数は420歩でした。(登りだけカウント)
帰りは急な石段を、慎重に降りて行き「多宝塔」の前に出てきます。
多宝塔の奥に「開山堂」があるので寄りました。開山堂は、2004年(平成16年)に、明石本立寺(ほんりゅうじ)野口僧正とその夫人によって建立されました。日禛上人坐像を安置しています。
開山堂の前を通り、多宝塔は下から見上げ、そして本堂の横に降りて来ます。
本堂裏にも庭園があるので、帰りに寄りました。ここから非公開の書院が見えました。
帰りは「鐘楼」横から降ります。この辺りの紅葉は大変綺麗なんですが、すっかり葉が落ちてますね。
鐘楼の横から降りて来て、この参道は「末吉坂」と呼ばれ、その先に仁王門が見えてきました。
その「末吉坂」を通らず「休憩所」から降りるルートを下ります。
こちらには「女の碑」があるので寄った次第です。碑には「女ひとり生きここに平和を希う」と書かれています。その隣の碑には、第二次世界大戦では200万人という若者が犠牲になり、その若者たちと結ばれるはずの多くの女性が、戦後に独身のまま生きざるをえなかった・・・と書かれています。碑文揮毫は、当時の参議院議員市川房枝さんです。
その先には「砂田明の碑」があります。1928年(昭和3年)京都生まれの舞台俳優さんだそうで、常寂光寺の志縁廟への納骨を機に、砂田明を敬愛する人々の手によりこの記念碑が建立されました。
さらに降りて行くと、「小倉百人一首編纂之地」と「定家山荘跡」の石碑があります。石碑には「小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ」(貞信公)と書かれてました。
ここには10時頃に出て来ました。最初、2組ほど来られてましたが、私が出る頃には誰も居ませんでした。あの紅葉の人出は何処に・・・です。
あと二尊院とか落柿舎に行くことも有りかも知れませんが、歩き疲れました。ここから歩いて帰りました。
【常寂光寺】
9時34分に「山門」前に着きました。京都屈指の紅葉の名所も、今はすっかり紅葉は散ってしまいました。
山門を潜ると前方に「拝観受付所」があるので、拝観料500円を納めます。紅葉時には、開門前には行列ができますが、今は閑散としてますね。
拝観料を納めると前方に「仁王門」が見えます。茅葺きの仁王門は、いつ見ても美しいです。この仁王門は、もと本圀寺客殿の南門として貞和年間(1345〜49)に建立されたものを、1616年(元和2年)に移築されたそうです。
仁王門から本堂に至る石段を見ると、花灯路の行灯が残ってますね、片付けて欲しかった・・・。
石段を上がりきりると、帰りは、ここから降りないので仁王門を上から撮りました。
正面には「本堂」がありますが、非公開です。第二世通明院日韶上人(日野大納言輝資の息男)代に小早川秀秋の助力を得て、桃山城客殿を移築して本堂としたものです。
冬枯れで、こちらの句碑も見やすくなってます。「落葉ふんで 道新しく ひらけたり 義生」と書かれており、脚本家の高桑義生の作です。
その先には「展望所」があります。しかし、ここよりもっと綺麗に見える展望所が、この上にあります。
展望台の対面には「妙見堂」があります。1974年(昭和49年)に妙見堂本殿と拝殿の大改築がされたそうです。
その妙見堂の裏手から、最近整備された「竹林」に行きました。
さらに石段を上がると、嵐山花灯路の夜間拝観では行けない石段を、さらに登って行きます。
ここからは石段が急で、幅が狭くなるので夜間では危険なためでしょう。ほどなく登ると「多宝塔」が見えてきます。
多宝塔から、さらに登るとこの先に「時雨亭跡」の石碑が建っています。江戸時代の中頃まで、ここに時雨亭がありましたが、昭和初期の台風により倒壊したそうです。
時雨亭跡の側には「歌仙祠(かせんし)」があって、1890年(明治23年)の建立です。内部には藤原定家、藤原家隆像が祀られており、扁額の「歌遷祠」は富岡鉄斎の筆によるものです。
ここからも眺望は楽しみますが、まだまだ上に展望所があります。ここから「多宝塔」が見えました。
相当、足は疲れてますが、最後の石段を登り切ります。上に行くほど細くて急な石段となりました。
ここから比叡山、双ケ岡、船岡山、仁和寺五重塔、如意ヶ嶽(大文字山)が綺麗に見えます。余談ですが、この日の階段歩数は420歩でした。(登りだけカウント)
帰りは急な石段を、慎重に降りて行き「多宝塔」の前に出てきます。
多宝塔の奥に「開山堂」があるので寄りました。開山堂は、2004年(平成16年)に、明石本立寺(ほんりゅうじ)野口僧正とその夫人によって建立されました。日禛上人坐像を安置しています。
開山堂の前を通り、多宝塔は下から見上げ、そして本堂の横に降りて来ます。
本堂裏にも庭園があるので、帰りに寄りました。ここから非公開の書院が見えました。
帰りは「鐘楼」横から降ります。この辺りの紅葉は大変綺麗なんですが、すっかり葉が落ちてますね。
鐘楼の横から降りて来て、この参道は「末吉坂」と呼ばれ、その先に仁王門が見えてきました。
その「末吉坂」を通らず「休憩所」から降りるルートを下ります。
こちらには「女の碑」があるので寄った次第です。碑には「女ひとり生きここに平和を希う」と書かれています。その隣の碑には、第二次世界大戦では200万人という若者が犠牲になり、その若者たちと結ばれるはずの多くの女性が、戦後に独身のまま生きざるをえなかった・・・と書かれています。碑文揮毫は、当時の参議院議員市川房枝さんです。
その先には「砂田明の碑」があります。1928年(昭和3年)京都生まれの舞台俳優さんだそうで、常寂光寺の志縁廟への納骨を機に、砂田明を敬愛する人々の手によりこの記念碑が建立されました。
さらに降りて行くと、「小倉百人一首編纂之地」と「定家山荘跡」の石碑があります。石碑には「小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ」(貞信公)と書かれてました。
ここには10時頃に出て来ました。最初、2組ほど来られてましたが、私が出る頃には誰も居ませんでした。あの紅葉の人出は何処に・・・です。
あと二尊院とか落柿舎に行くことも有りかも知れませんが、歩き疲れました。ここから歩いて帰りました。
【常寂光寺】
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