相国寺の塔頭寺院の一つ 臨済宗相国寺派 鹿苑寺(金閣寺)へ
12月22日(水)は、2020年(令和2年)2月7日以来来て無かった鹿苑寺(金閣寺)に行って来ました。
昨日は、一年で夜が最も長い「冬至」でした。今日以降は、だんだん昼が長くなるけど、まだまだ寒い日が続きそうで、週末は10年に一度の大寒波襲来と天気予報では言ってました。当日、所用先からタクシーに乗り金閣寺に向かい、そのタクシーが金閣寺に近づくと「金閣寺の前でお客さんを降ろすとガードマンに怒られるので、遠回りして良いですか?」と聞かれました。聞くと、金閣寺の前でお客さんを降ろすとガードマンにチェックされ、それ以降金閣寺には出入り禁止になるとの事。私は「遠回りは良いから、運転手さんの都合の良いところで降ろして」とお願いし、運転手さんもその通り入口から少し離れた所で降ろしてくれました。
少し歩いて「黒門」から入りました。入ると・・・驚きです!! 多くの修学旅行生が来てました。
案内図を見ると「総門」へ急ぎます。前方に修学旅行生の団体が、そして私の後ろに修学旅行生が・・・?。
総門の手前に「馬繋」がありました。ここで馬を降りて参拝されたのでしょう。
ここ金閣寺は1994年(平成6年)にユネスコの世界文化遺産「古都京都の文化財」の1つとして世界遺産の登録指定を受けました。それを記念した石碑が総門前にあります。
そして、こちらが「総門」です。拝観受付所は、ここを入った先にあります。
総門を入って左手に「鐘楼」がありますが、舎利殿を見たいので先を急ぎます。
反対側を見ると「庫裏」と「方丈」があります。ここも特別公開で入れますが、タイミングが悪くまだ未訪です。
鐘楼前には「舟形(一文字蹲踞)」もありました。詳しいことは不明です。
ここから庭園に入る「参拝門」です。一方通行のため入ると、ここに戻れません。
入ると、最初に「舎利殿」を見ると、この光景となります。肉眼ではもう少し近くで見えるでしょう。
そしてズームし、このように金色に輝く「舎利殿」を撮りました。
室町時代を代表する池泉回遊式庭園ですが、「鏡湖池(きょうこち)」を半周しかできません。
鏡湖池には「亀島」「鶴島」、そして最も大きい「葦原島」などが点在しています。
「舎利殿」と手前「葦原島」をズームで捉えました。
次に舎利殿の初層を捉えました。寝殿造りの法水院(ほっすいいん)。内部は白木と白壁で、室町幕府3大将軍足利義満公の坐像などが安置されてますが、見えません。
タクシーの運転手さんに写真を撮って貰っている修学旅行生の邪魔になるので、これだけ撮ってここを離れました。今日の金閣(舎利殿)は美しいです。
非公開の「方丈」です。1678年(延宝6年)に第108代後水尾天皇により再興。皇后東福門院(徳川和子)が聖観世音菩薩を本尊して寄進されたものです。
現在の方丈は2007年(平成19年)に復元され、石踊達哉(いしおどりたつや)・森田りえ子両画伯に秋田杉の一枚板に筆を揮(ふる)ってもらい、杉戸絵として花を添えています。方丈は、元は一丈四方の居所でしたが、現在の方丈は本堂して法要等を行っています。
金閣(舎利殿)を真横から見られる所まで、やって来ました。その前に・・・?。
殆どの方が行かれない「陸舟の松」を見に来ました。室町幕府3代将軍足利義満公遺愛の盆栽を移し帆掛け舟の形に仕立てたと伝えられる五葉の松です。樹齢は600年だとか。
初層は前途したとおり寝殿造りの「法水院(ほっすいいん)」、中層は書院造りの「潮音洞(ちょうおんどう)」、花頭窓をもつ最上層は禅宗仏殿造りの「究竟頂(くっきょうちょう)」で、3つの様式を折衷した楼閣。上層と中層には金箔を施し、茅葺きの屋根には鳳凰が載せられてます。
内部は非公開で、究竟頂の天井と壁には金箔が施され、床は黒漆で塗られ、花頭窓からは外光も取り入れている。そのため目映いばかりの光にあふれ、中央には釈迦の遺骨である仏舎利が安置されている。中層の潮音洞内部の天井には飛天図が描かれ、壁と床が黒漆塗り、中央の須弥壇には四天王に守られた岩屋観音坐像が祀られているようで、写真しか見ることができません。
ここで金閣 舎利殿から離れます。ここから暫く見られなくなりますが、一方通行のため奥に進むと・・・?。
この先には「売店」がありますが、私は寄りません。
その売店の奥に「榊雲(しんうん)」があって見えません。春日大神をお祀りしているようで金閣寺の鎮守社とされてるようです。
このあと順路に従って進むと「銀河泉」があります。室町幕府3代将軍足利義満公がお茶の水用に使ったと伝わります。
次に見るのが足利義満公が手洗いに用いたとされる「厳下水(がんかすい)」です。
次が「金閣寺垣」ですが、通行はできません。小竹垣の代表とされ、両側に背の低い竹垣となっています。
金閣寺垣を過ぎたら、次に「龍門瀧」を見ます。鯉が滝を登ると龍になるという“登竜門”にちなんだものです。今にも跳ね上がろうとする龍の姿が動きのある「鯉魚石(りぎょせき)」で表されています。
次に石段を上がる手前に「石仏」があって、周りにお賽銭が散らばってます。
石段を上がると、数少ない西園寺を偲ぶ遺構を目にします。足利義満公が鹿苑寺(金閣寺)を造営する前は、この地に西園寺という豪壮な寺がありました。
金閣寺の北側の一番高い所にあるのが「安民沢(あんたくみん)」で池の中には西園寺家の鎮守という「白蛇塚」と呼ばれる多宝塔が建っています。
鎌倉時代の公卿である西園寺公経(さいおんじきんつね)は、1224年(元仁元年)に壮麗な西園寺を建立し、その北側には別荘として寝殿も建てました。広大な敷地に本堂、不動堂、妙音堂、愛染堂、五大堂などの大伽藍を造営するほどの勢力も、南北朝時代に衰え、この地を義満に譲りました。
この先に振り返ると「舎利殿」が見えており、この眺望を「見返り金閣」といいます。ここから先、舎利殿は見えません。
この先に茶室があるのを知っているで、この見返り金閣で写真を撮っている修学旅行生を抜いて先を急ぎました。
狙いどおり、茶室「夕佳亭(せっかてい)」には誰も居ません。
茶室に近寄ると「貴人橸(きんじんとう)」がありました。昔、高貴な人が座られた腰掛け石を室町幕府がここに移設しました。
次の見所は、室町幕府8代将軍足利義政公遺愛の「富士形手水鉢」です。富士山の形してますね。
柵があるので、茶室内には入れませんが、内部はじっくり見られます。
鹿苑寺(金閣寺)での見所は、これで終わりです。この門から出て行きました。
ガードマンさんが立っているで、逆から入ることはできません。出ると正面に「不動堂」があり、ここは無料でお参りすることはできます。
帰りも「黒門」から出て行きました。黒門は、きぬがけの路に面してて、対面に市バスの停留所があるので帰りには、バスで所用先に戻ります。
その市バスの停留所ですが、きぬがけの路にあったのが移動してました。西大路通り沿いまで行かなくては行きません。先にタクシーの話しをしましたが、どうも金閣寺は市バスもきぬがけの路を通るのを拒否したみたいですね。結局私は、立命館大学前まで歩くことになりました。ここからは59号系統しかないので、それに乗って所用先に行けたので良かったけど、金閣寺前バス停が移動してるとは・・・。知らない方も多のでは・・・と思いましたね。
【鹿苑寺(金閣寺)】
昨日は、一年で夜が最も長い「冬至」でした。今日以降は、だんだん昼が長くなるけど、まだまだ寒い日が続きそうで、週末は10年に一度の大寒波襲来と天気予報では言ってました。当日、所用先からタクシーに乗り金閣寺に向かい、そのタクシーが金閣寺に近づくと「金閣寺の前でお客さんを降ろすとガードマンに怒られるので、遠回りして良いですか?」と聞かれました。聞くと、金閣寺の前でお客さんを降ろすとガードマンにチェックされ、それ以降金閣寺には出入り禁止になるとの事。私は「遠回りは良いから、運転手さんの都合の良いところで降ろして」とお願いし、運転手さんもその通り入口から少し離れた所で降ろしてくれました。
少し歩いて「黒門」から入りました。入ると・・・驚きです!! 多くの修学旅行生が来てました。
案内図を見ると「総門」へ急ぎます。前方に修学旅行生の団体が、そして私の後ろに修学旅行生が・・・?。
総門の手前に「馬繋」がありました。ここで馬を降りて参拝されたのでしょう。
ここ金閣寺は1994年(平成6年)にユネスコの世界文化遺産「古都京都の文化財」の1つとして世界遺産の登録指定を受けました。それを記念した石碑が総門前にあります。
そして、こちらが「総門」です。拝観受付所は、ここを入った先にあります。
総門を入って左手に「鐘楼」がありますが、舎利殿を見たいので先を急ぎます。
反対側を見ると「庫裏」と「方丈」があります。ここも特別公開で入れますが、タイミングが悪くまだ未訪です。
鐘楼前には「舟形(一文字蹲踞)」もありました。詳しいことは不明です。
ここから庭園に入る「参拝門」です。一方通行のため入ると、ここに戻れません。
入ると、最初に「舎利殿」を見ると、この光景となります。肉眼ではもう少し近くで見えるでしょう。
そしてズームし、このように金色に輝く「舎利殿」を撮りました。
室町時代を代表する池泉回遊式庭園ですが、「鏡湖池(きょうこち)」を半周しかできません。
鏡湖池には「亀島」「鶴島」、そして最も大きい「葦原島」などが点在しています。
「舎利殿」と手前「葦原島」をズームで捉えました。
次に舎利殿の初層を捉えました。寝殿造りの法水院(ほっすいいん)。内部は白木と白壁で、室町幕府3大将軍足利義満公の坐像などが安置されてますが、見えません。
タクシーの運転手さんに写真を撮って貰っている修学旅行生の邪魔になるので、これだけ撮ってここを離れました。今日の金閣(舎利殿)は美しいです。
非公開の「方丈」です。1678年(延宝6年)に第108代後水尾天皇により再興。皇后東福門院(徳川和子)が聖観世音菩薩を本尊して寄進されたものです。
現在の方丈は2007年(平成19年)に復元され、石踊達哉(いしおどりたつや)・森田りえ子両画伯に秋田杉の一枚板に筆を揮(ふる)ってもらい、杉戸絵として花を添えています。方丈は、元は一丈四方の居所でしたが、現在の方丈は本堂して法要等を行っています。
金閣(舎利殿)を真横から見られる所まで、やって来ました。その前に・・・?。
殆どの方が行かれない「陸舟の松」を見に来ました。室町幕府3代将軍足利義満公遺愛の盆栽を移し帆掛け舟の形に仕立てたと伝えられる五葉の松です。樹齢は600年だとか。
初層は前途したとおり寝殿造りの「法水院(ほっすいいん)」、中層は書院造りの「潮音洞(ちょうおんどう)」、花頭窓をもつ最上層は禅宗仏殿造りの「究竟頂(くっきょうちょう)」で、3つの様式を折衷した楼閣。上層と中層には金箔を施し、茅葺きの屋根には鳳凰が載せられてます。
内部は非公開で、究竟頂の天井と壁には金箔が施され、床は黒漆で塗られ、花頭窓からは外光も取り入れている。そのため目映いばかりの光にあふれ、中央には釈迦の遺骨である仏舎利が安置されている。中層の潮音洞内部の天井には飛天図が描かれ、壁と床が黒漆塗り、中央の須弥壇には四天王に守られた岩屋観音坐像が祀られているようで、写真しか見ることができません。
ここで金閣 舎利殿から離れます。ここから暫く見られなくなりますが、一方通行のため奥に進むと・・・?。
この先には「売店」がありますが、私は寄りません。
その売店の奥に「榊雲(しんうん)」があって見えません。春日大神をお祀りしているようで金閣寺の鎮守社とされてるようです。
このあと順路に従って進むと「銀河泉」があります。室町幕府3代将軍足利義満公がお茶の水用に使ったと伝わります。
次に見るのが足利義満公が手洗いに用いたとされる「厳下水(がんかすい)」です。
次が「金閣寺垣」ですが、通行はできません。小竹垣の代表とされ、両側に背の低い竹垣となっています。
金閣寺垣を過ぎたら、次に「龍門瀧」を見ます。鯉が滝を登ると龍になるという“登竜門”にちなんだものです。今にも跳ね上がろうとする龍の姿が動きのある「鯉魚石(りぎょせき)」で表されています。
次に石段を上がる手前に「石仏」があって、周りにお賽銭が散らばってます。
石段を上がると、数少ない西園寺を偲ぶ遺構を目にします。足利義満公が鹿苑寺(金閣寺)を造営する前は、この地に西園寺という豪壮な寺がありました。
金閣寺の北側の一番高い所にあるのが「安民沢(あんたくみん)」で池の中には西園寺家の鎮守という「白蛇塚」と呼ばれる多宝塔が建っています。
鎌倉時代の公卿である西園寺公経(さいおんじきんつね)は、1224年(元仁元年)に壮麗な西園寺を建立し、その北側には別荘として寝殿も建てました。広大な敷地に本堂、不動堂、妙音堂、愛染堂、五大堂などの大伽藍を造営するほどの勢力も、南北朝時代に衰え、この地を義満に譲りました。
この先に振り返ると「舎利殿」が見えており、この眺望を「見返り金閣」といいます。ここから先、舎利殿は見えません。
この先に茶室があるのを知っているで、この見返り金閣で写真を撮っている修学旅行生を抜いて先を急ぎました。
狙いどおり、茶室「夕佳亭(せっかてい)」には誰も居ません。
茶室に近寄ると「貴人橸(きんじんとう)」がありました。昔、高貴な人が座られた腰掛け石を室町幕府がここに移設しました。
次の見所は、室町幕府8代将軍足利義政公遺愛の「富士形手水鉢」です。富士山の形してますね。
柵があるので、茶室内には入れませんが、内部はじっくり見られます。
鹿苑寺(金閣寺)での見所は、これで終わりです。この門から出て行きました。
ガードマンさんが立っているで、逆から入ることはできません。出ると正面に「不動堂」があり、ここは無料でお参りすることはできます。
帰りも「黒門」から出て行きました。黒門は、きぬがけの路に面してて、対面に市バスの停留所があるので帰りには、バスで所用先に戻ります。
その市バスの停留所ですが、きぬがけの路にあったのが移動してました。西大路通り沿いまで行かなくては行きません。先にタクシーの話しをしましたが、どうも金閣寺は市バスもきぬがけの路を通るのを拒否したみたいですね。結局私は、立命館大学前まで歩くことになりました。ここからは59号系統しかないので、それに乗って所用先に行けたので良かったけど、金閣寺前バス停が移動してるとは・・・。知らない方も多のでは・・・と思いましたね。
【鹿苑寺(金閣寺)】
この記事へのコメント