第56回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開 智積院【Ⅰ期】へ
1月20日(木)は、寒気の南下が強まり天気予報は雪で、午前中の降水(雪)確率は60%でした。朝から氷点下の冷え込みでしたが、第56回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開 智積院【Ⅰ期】の公開日が1月30日(日)までで、来週の予定を考えると行く日が見当たらないため、底冷えする朝に家を出て、嵐電、地下鉄東西線、京阪電車を乗り継いで七条駅から歩いて向かいました。七条駅で地上に上がって来たら小雪が舞ってましたが、傘を差すほどでも無かったですが・・・とにかく寒い・・・。
8時53分に「総門」前に着きました。受付は9時からで、少し早いなぁ・・・と思いながら向かいます。
「冠木門(かぶきもん)」前にも冬の旅の看板が出てました。
8時55分に「拝観受付所」に行くと、4組の方が並ばれてました。ただ5分前に受付が始まりましたね。(写真は帰りに撮ったものです)
受付では、先に「収蔵庫」に行く用に案内されます。先の4組の方は入られました。私は昨年も来ているので、帰りに寄るつもりで先に「唐門」を通り庭園に向かいます。
唐門の正面は「講堂」です。こちは庭園に上がる時に間近でお参りできます。
庭園に行く前に、「高浜虚子句碑」を見ていきます。1930年(昭和5年)に智積院を訪れた時に詠んだもので、「ひらひらと つくもをぬひて 落花かな」と書かれていました。
講堂を回り込むと、前方に「利休好みの庭」と伝えられる庭園が見えてきます。冬枯れですね。
奥に進むと「茶室」があって、その先の「大書院(おおしょいん)」に入ります。
朝一番に入ったので、「大書院」には誰も居ません。
大書院には、長谷川等伯筆「楓図」、息子久蔵筆「桜図」をはじめ、上段の間に「松に立葵図」などの模写が嵌められています。本物は収蔵庫で見られます。
大書院前には「一文字型手水鉢」があります。先程の茶室に入る前に使われるのでしょう。
東山随一の名庭で名勝に指定されてる庭園も今は冬枯れですね。
皐が彩る築山は中国の廬山を象っているといい山裾や中腹に石組みを配し変化を付けています。青石を用いた石橋など桃山様式が見られる部分は、祥雲禅寺庭園の遺構を残している。祥雲禅寺時代に造られた鑑賞式林泉を1674年(延宝2年)に修築されました。
こちらは「宸殿」で非公開です。【Ⅱ期】1月31日(月)から2月28日(月)まで特別公開されます。
このあと大書院の裏手も見て、講堂に出ました。講堂内は撮影禁止のため、一通り一周し出て行きました。
唐門を出て収蔵庫には行きませんでした。出ると小雪から霙(みぞれ)に変わってて、傘を差すことに・・・。
次の目的地は、今日の主役です。これを見るために来たようなもので、通常拝観の庭園や大書院をあっさり見たのは、そのためです。場所は案内の通り「金堂(こんどう)」を左手に曲がります。
境内の北東エリアが、今回の特別公開エリアです。ただ、大師堂に通じる階段は上がれなくなってました。
そして、最後に階段を上がった先に、係の方が立っているのでチケットを見せます。
今回の冬の旅で通常非公開の「密厳堂」「求聞持堂」「三部権現社拝殿」が特別公開されています。特に案内が無かったので、私は「三部権現社拝殿」から見て行くことにしました。その理由は、私の前に並ばれていた方が収蔵庫に入られ、そのあと庭園を見ずに、このエリアに来られて「密厳堂」に入られたのと、私の後ろに並ばれていた1組が収蔵庫も行かず、いきなりこのエリアに来られてようで、こちらも「密厳堂」に入られたので、空いている誰も居ない拝殿を選択したわけです。
こちらは最後に訪問する「密厳堂」です。この時間から、霙まじりの雪が強くなってきて、カメラにも雪が写るようになりました。
こちらが「三部権現社拝殿」で、靴を脱いで上がりました。ここではガイドさんが案内してくれます。
17世紀前半頃に建立された拝殿の鏡天井には作者不詳の「龍図」が描かれています。ここは撮影はOKでした。
冬の旅が始まった三連休では、約500人ほどの方が来られたようで、今日みたいにゆっくり写真は撮れなかったようです。やっぱり昨年が中止され公開されなかったので、多くの方が来られたのでしょう。
三部権現社は当山の総鎮守にして根來寺大伝法院以来相承の守護神です。三部権現とは、中央は仏部埾無動尊本部の十天等てあり、その左は金剛部丹生高野両大明神等です。その右は蓮華部天照大神・八幡・加茂等の日本大小の神紙一千余社の総社です。
次には「求聞持堂(ぐもんじどう)」に入りました。こちらは読めなかったので、先にガイドさんに聞いた次第です。通常非公開で堂内に入るのは初めてです。堂内の撮影は禁止でした。
求聞持堂(ぐもんじどう)は、文殊堂とも護摩堂とも言われ、1844年(嘉永4年)当山第37世信海僧正の時に落成。本尊は虚空蔵菩薩、お前立ちは不動明王。
写真は、昨年のパンフから転載。今日は虚空蔵菩薩が御開帳されていので、不動明王は見損ねてしまいました。
最後に、誰も居なくなった「密厳堂」に入りました。この時、9時25分頃でしたが、堂内にはガイドさんが居て案内を聞きました。ただ厨子は固く閉まってて、「覚鑁像」は見られません。
境内の奥にある密厳堂は、江戸時代初期の1667年(寛文7年)建立された現存する最古のお堂で、開山堂や覚鑁堂とも呼ばれています。真言宗中興の祖 覚鑁(かくばん)の像を安置。覚鑁は20歳で高野山に登り当時の衰微していた高野山真言教学を再興して真言宗の基礎を確立。後に紀州根來寺に退隠して学侶の養成に当たりました。
この時、お寺の方が来られ厨子を開けられました。ただ開けられただけで、ライトが付いてないので、真っ暗です。ガイドさん自ら開ける訳には行かないので待つしか無いと言われてました。コンセントを探してたりしているようでしたが、なかなか電気が付かないので、私は諦めました。
見られなかったので、昨年のパンフから。「興教大師覚鑁(こうぎょうだいしかくばん)像」です。
私の前に行かれていた2組3名の方は、見ずに帰られたようです。ただ、再び戻って来られたら話しは別ですが。
このエリアで覚鑁の銅像があるとガイドさんに聞いたので、寄りました。ここには「興教大師尊像建立願文」と書かれたものがあって、帰ってから読みました。
奥には小さな社があって、先の「三部権現社」の他に地主天皇の藤森鎮守(上)、白山大権現(下の右)、天満宮(下の中)、愛宕大権現(下の左)の末社がありました。
こちらは「運敞蔵(うんしょうぐら)」と言い、1673(延寶元年)運敞僧正によって建立。中には僧正一代にわたって収集された貴重な内外の書籍文献が収蔵されており、1693年(元禄6年)僧正の坐像がこの蔵に祀られています。
最後に北東エリアと言うか、特別拝観エリアを「鐘楼」を見て出て行きました。
帰りに「金堂」に寄るつもりが工事中のため上がれませんでした。残念。
お隣の「明王殿」に寄れたのでお参りできました。
霙まじりの天候で、傘を差してここを9時38分に出て行きました。遠くに「京都タワー」見えました。
私のスマホはジャンバーのポケットに入ってて、何か着信があったのは分かってましたが、傘を差していたこともあって、見ずにいました。これが後々響くことになるとは・・・?。
【智積院】
8時53分に「総門」前に着きました。受付は9時からで、少し早いなぁ・・・と思いながら向かいます。
「冠木門(かぶきもん)」前にも冬の旅の看板が出てました。
8時55分に「拝観受付所」に行くと、4組の方が並ばれてました。ただ5分前に受付が始まりましたね。(写真は帰りに撮ったものです)
受付では、先に「収蔵庫」に行く用に案内されます。先の4組の方は入られました。私は昨年も来ているので、帰りに寄るつもりで先に「唐門」を通り庭園に向かいます。
唐門の正面は「講堂」です。こちは庭園に上がる時に間近でお参りできます。
庭園に行く前に、「高浜虚子句碑」を見ていきます。1930年(昭和5年)に智積院を訪れた時に詠んだもので、「ひらひらと つくもをぬひて 落花かな」と書かれていました。
講堂を回り込むと、前方に「利休好みの庭」と伝えられる庭園が見えてきます。冬枯れですね。
奥に進むと「茶室」があって、その先の「大書院(おおしょいん)」に入ります。
朝一番に入ったので、「大書院」には誰も居ません。
大書院には、長谷川等伯筆「楓図」、息子久蔵筆「桜図」をはじめ、上段の間に「松に立葵図」などの模写が嵌められています。本物は収蔵庫で見られます。
大書院前には「一文字型手水鉢」があります。先程の茶室に入る前に使われるのでしょう。
東山随一の名庭で名勝に指定されてる庭園も今は冬枯れですね。
皐が彩る築山は中国の廬山を象っているといい山裾や中腹に石組みを配し変化を付けています。青石を用いた石橋など桃山様式が見られる部分は、祥雲禅寺庭園の遺構を残している。祥雲禅寺時代に造られた鑑賞式林泉を1674年(延宝2年)に修築されました。
こちらは「宸殿」で非公開です。【Ⅱ期】1月31日(月)から2月28日(月)まで特別公開されます。
このあと大書院の裏手も見て、講堂に出ました。講堂内は撮影禁止のため、一通り一周し出て行きました。
唐門を出て収蔵庫には行きませんでした。出ると小雪から霙(みぞれ)に変わってて、傘を差すことに・・・。
次の目的地は、今日の主役です。これを見るために来たようなもので、通常拝観の庭園や大書院をあっさり見たのは、そのためです。場所は案内の通り「金堂(こんどう)」を左手に曲がります。
境内の北東エリアが、今回の特別公開エリアです。ただ、大師堂に通じる階段は上がれなくなってました。
そして、最後に階段を上がった先に、係の方が立っているのでチケットを見せます。
今回の冬の旅で通常非公開の「密厳堂」「求聞持堂」「三部権現社拝殿」が特別公開されています。特に案内が無かったので、私は「三部権現社拝殿」から見て行くことにしました。その理由は、私の前に並ばれていた方が収蔵庫に入られ、そのあと庭園を見ずに、このエリアに来られて「密厳堂」に入られたのと、私の後ろに並ばれていた1組が収蔵庫も行かず、いきなりこのエリアに来られてようで、こちらも「密厳堂」に入られたので、空いている誰も居ない拝殿を選択したわけです。
こちらは最後に訪問する「密厳堂」です。この時間から、霙まじりの雪が強くなってきて、カメラにも雪が写るようになりました。
こちらが「三部権現社拝殿」で、靴を脱いで上がりました。ここではガイドさんが案内してくれます。
17世紀前半頃に建立された拝殿の鏡天井には作者不詳の「龍図」が描かれています。ここは撮影はOKでした。
冬の旅が始まった三連休では、約500人ほどの方が来られたようで、今日みたいにゆっくり写真は撮れなかったようです。やっぱり昨年が中止され公開されなかったので、多くの方が来られたのでしょう。
三部権現社は当山の総鎮守にして根來寺大伝法院以来相承の守護神です。三部権現とは、中央は仏部埾無動尊本部の十天等てあり、その左は金剛部丹生高野両大明神等です。その右は蓮華部天照大神・八幡・加茂等の日本大小の神紙一千余社の総社です。
次には「求聞持堂(ぐもんじどう)」に入りました。こちらは読めなかったので、先にガイドさんに聞いた次第です。通常非公開で堂内に入るのは初めてです。堂内の撮影は禁止でした。
求聞持堂(ぐもんじどう)は、文殊堂とも護摩堂とも言われ、1844年(嘉永4年)当山第37世信海僧正の時に落成。本尊は虚空蔵菩薩、お前立ちは不動明王。
写真は、昨年のパンフから転載。今日は虚空蔵菩薩が御開帳されていので、不動明王は見損ねてしまいました。
最後に、誰も居なくなった「密厳堂」に入りました。この時、9時25分頃でしたが、堂内にはガイドさんが居て案内を聞きました。ただ厨子は固く閉まってて、「覚鑁像」は見られません。
境内の奥にある密厳堂は、江戸時代初期の1667年(寛文7年)建立された現存する最古のお堂で、開山堂や覚鑁堂とも呼ばれています。真言宗中興の祖 覚鑁(かくばん)の像を安置。覚鑁は20歳で高野山に登り当時の衰微していた高野山真言教学を再興して真言宗の基礎を確立。後に紀州根來寺に退隠して学侶の養成に当たりました。
この時、お寺の方が来られ厨子を開けられました。ただ開けられただけで、ライトが付いてないので、真っ暗です。ガイドさん自ら開ける訳には行かないので待つしか無いと言われてました。コンセントを探してたりしているようでしたが、なかなか電気が付かないので、私は諦めました。
見られなかったので、昨年のパンフから。「興教大師覚鑁(こうぎょうだいしかくばん)像」です。
私の前に行かれていた2組3名の方は、見ずに帰られたようです。ただ、再び戻って来られたら話しは別ですが。
このエリアで覚鑁の銅像があるとガイドさんに聞いたので、寄りました。ここには「興教大師尊像建立願文」と書かれたものがあって、帰ってから読みました。
奥には小さな社があって、先の「三部権現社」の他に地主天皇の藤森鎮守(上)、白山大権現(下の右)、天満宮(下の中)、愛宕大権現(下の左)の末社がありました。
こちらは「運敞蔵(うんしょうぐら)」と言い、1673(延寶元年)運敞僧正によって建立。中には僧正一代にわたって収集された貴重な内外の書籍文献が収蔵されており、1693年(元禄6年)僧正の坐像がこの蔵に祀られています。
最後に北東エリアと言うか、特別拝観エリアを「鐘楼」を見て出て行きました。
帰りに「金堂」に寄るつもりが工事中のため上がれませんでした。残念。
お隣の「明王殿」に寄れたのでお参りできました。
霙まじりの天候で、傘を差してここを9時38分に出て行きました。遠くに「京都タワー」見えました。
私のスマホはジャンバーのポケットに入ってて、何か着信があったのは分かってましたが、傘を差していたこともあって、見ずにいました。これが後々響くことになるとは・・・?。
【智積院】
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