後白河上皇の祈り世界が蘇る国宝の大移動 蓮華王院 三十三間堂 へ

智積院の特別公開を見終わると、2010年(平成22年)7月24日から来て無かった蓮華王院 三十三間堂に向かいました。ただ、小雪が霙(みぞれ)に変わって・・・それで傘を差してということになりました。三十三間堂には2010年(平成22年)7月24日以来、本当に久しぶりの訪問で、智積院の次に行く予定にしてました。

IMG_6535.jpgIMG_6567.jpg9時44分に着いて、拝観料600円を納め入りました。ここから前回と違った仏像の配置を見ることになります。

およそ850年前、平安時代から鎌倉時代へ移り行く激動の時代であった1164年(長寛2年)に建てられた蓮華王院 三十三間堂の堂内には、祈りの空間に、金色に輝く1001体の千手観音立像(国宝)が並び、三十三間堂を建てた後白河上皇の祈り世界があります。

三十三間堂堂内の中央には中尊の丈六「千手観音坐像(国宝)」を安置。その周りを四天王、そして下段には二十八部衆像を配置。左右に風神雷神像が安置されてました。ただ、創建から長い年月を経て当時の後白河上皇が意図した配置が分からなくなっていたそうです。そこで、堂内の仏像の胎内から見つかった一枚の版画絵。それは創建当時の姿に迫る手がかりがありました。

それを元に、2018年(平成30年)7月に、仏像を創建当時の姿に戻す、「国宝 仏像」の大移動が実施されたわけです。何が変わったかは・・・?。

堂内の中央には湛慶作(鎌倉時代初期)の丈六「千手観音坐像(国宝)」が安置されており中尊と呼ばれています。その中尊の前に全て国宝の「二十八部衆像」が配置されています。中尊の側には四天王が配置されてましたが、絵図を元に向かって左に「大弁功徳天像(国宝)」を安置。この仏様は音楽や芸能を司り財を授けてくれる女神として広く信仰されている辨天様です。そして向かって右に「姿藪仙像(国宝)」を安置、こちらの仏様は元々インドの仙人で、殺生の罪で地獄に落ちるも仏教に帰依し徳の高い修行者になったという。向かって左の大弁功徳天像の後方には「帝釈天王像(国宝)」、向かって右の姿藪仙像の後方に「大梵天王(国宝)」が配置され、中尊の脇の四体が決まりました。

次に二十八部衆像の左右に安置されている風神雷神像の入替です。「風神像(国宝)」は自然の大いなる営みを神格かした風の神様。「雷神像(国宝)」は時に惠の雨を降らせ時に台風を巻き起こす水の神。これまでの位置は向かって左が風神、右が雷神でした。今回の大移動で参考にされたのが、建仁寺所有の「風神雷神図屏風(国宝)」出、作者の俵屋宗達は、三十三間堂を見て描いたとされ、この屏風図を元に左右入替の大移動を実施。向かって右に雷神像、左に風神像と変わりました。

また、二十八部衆像の配置も換えられたそうです。向かって右側に笛を吹く「迦楼羅像(国宝)」、小さなシンバルを鳴らす「緊那羅像(国宝)」、鼓を打つ「乾闥婆像(国宝)」、琵琶を弾く「摩睺羅像(国宝)」が、今回の移動で並ぶことになりました。いずれも音楽によって観音の世界を彩る神々が集結したことになります。他に「那羅延堅固像(仁王・国宝)」、東西南北を守護する四天王の「毘楼勒叉(ぴるろくしゃ)像(国宝)」、「毘沙門天像(国宝)」、「難陀龍王像(国宝)」などの「二十八部衆像」の魅力は一体一体が大変優れた見応えのある造形の像で、群像表現として聖なる世界をそこに作り出すと言う、まとまりとしての表現の豊かさが、ひとつ大きな要素なんでしょう。

堂内は当然のことながら撮影禁止のため写真はありません。私も、もう一度訪問して再度確かめたいと思います。今日は後述しますが時間が無かったので、急いで堂内を回りました。じっくり鑑賞するなら堂内だけでも30分はかかりますね。

IMG_6536.jpg9時58分に堂内を出て、次に新しくなったと聞いた庭園を巡ります。

2021年(令和3年)3月に、本堂東側に池庭回遊式庭園が整備されたという話しを、建仁寺塔頭 霊源院の和尚さんから聞いてました。庭好きで、この時から久しく行ってない三十三間堂に行こうと決めてました

IMG_6538.jpg庭園に入る前に石碑を見つけました。後白河上皇院政庁法住寺殿址碑と書いてあって、1158年(保元3年)8月、皇子二条天皇に譲位して上皇となった後白河院政が約30年にわたり院政を行った政庁あとです。

IMG_6539.jpgこの庭を手掛けたのは、昭和の名作庭家 中根金作さんを祖父にもつ中根行宏さん、直紀さん兄弟です。建仁寺塔頭 霊源院のお庭と一緒ですね。

じつは庭園は新設ではなく、1961年(昭和36年)の後白河法皇770回忌記念事業の際に、中根金作さんにより造園されたお庭がベースになってて、2010年(平成22年)7月24日の訪問時もありました。

IMG_6544.jpg中根金作さんは、鎌倉時代に再建された本堂の様式に調和するよう、お庭も特に池の石組については古式の手法で行われたそうです。

お孫さんは祖父の仕事の良い部分を残しつつ、過去の史料を頼りに三十三間堂の往時の姿をできる限り再現したといいます。

IMG_6541.jpgこちらは「写経奉納塔」と石碑には書いてありました。

IMG_6547.jpgこちらは「法然塔(名号石)」で、1204年(元久元年)3月、時の第83代土御門天皇が当院で後白河上皇の13回忌を行った際に、請いをうけた法然上人が音曲に秀でた僧を伴って「六時礼賛」という法要を修しました。この碑は、その遺蹟として「法然上人霊場」にも数えられています。

IMG_6549.jpg霙まじりの雪が降るなか「東大門」に来ました。ここで少しばかり雨宿りをして、後述しますが電話をしました。

IMG_6551.jpg東大門前には手水舎があって「夜泣泉(よなきせん)」と書かれいます。創建の翌年の1165年(長寛3年)6月7日に堂僧が夢お告げにより発見したという霊泉です。

「古今著聞集」には「いつも冷たく美味しくて飲んでもお腹を痛めない“極楽井”でどんなに汲んでも尽きず、汲まない時も余ることの無い不思議な泉だ。」と記されています。夜のしじまに水の湧きだす音が人が“すすり泣く”声に似てることから“夜泣き”泉と言われるようになり、いつの頃からか傍らに地蔵尊が奉られるようになりました。特に幼児の「夜泣き封じ」に功徳があるとして地蔵様の「前掛け」を持ち帰り子供の枕に敷けば“夜泣き”が治まるとされ、今もその御利益を求める参拝が続いています。

IMG_6554.jpg本堂の正面に張り出した「向拝」は後白河上皇専用の祈りの空間だったことが近年の研究で分かりました。この空間は、後の時代の建築では見られないそうです。上皇が法要で来られた時には幕が掛けられ外からは見えなかったそうですが、この空間でお祈りをされたと伝わります。

IMG_6557.jpgIMG_6558.jpgIMG_6559.jpgIMG_6560.jpgIMG_6561.jpg庭園を見ながらお堂の南側まで来ると「鐘楼」がありました。小雪は止んでませんが陽がさすようになりました。

IMG_6563.jpg今日は時間も無かったし、工事中で行けるかどうかも分からなかったので、境内の西南角にある「久勢稲荷大明神」は写真だけです。

IMG_6564.jpg長いお堂は和様の入母屋造り本瓦葺きの「総檜造り」で、約120㍍もあります。

最後に三十三間堂と呼ばれるようになった由来は?・・・三十三間とは、お堂を支える柱が33あるという意味。では何故33何でしょう?それには大切な訳があります。中尊の千手観音は、人々を救う時、相手に合わせて姿を変えます。仏、天、龍、夜叉、帝釈、毘沙門など何と33通りに変身するといいます。33にはそんな意味がありました。

IMG_6565.jpgIMG_6566.jpgIMG_6568.jpg10時7分に、ここを出ました。2010年(平成22年)7月24日以来、久しぶりに見る1001体の仏像は圧巻でしたし、また再訪します。

ここを急いで出て来た訳は・・・智積院から気づいてたんですが、スマホに着信があることを。そして堂内東側で仏像を見ている時にも着信があったので、急いで堂内西側に回り込みスマホを見ると、家からLINEがたくさん来てます。堂内で電話する訳にいけないので、お堂を出て外の庭園に入ってから確認し電話すると「急ぎで帰って来て」と。それで庭園だけ写真を撮って、次の予定をキャンセル(とくに予約してません)し、帰ることにしました。ここからタクシーで帰る選択肢もありましたが、タクシー代が高くつくのと電車の方が早いと思い京阪電車、地下鉄東西線と乗り継ぎ、太秦天神川駅からタクシーで向かいました。まぁ・・・大変なことになってましたが・・・。今度はゆっくり鑑賞したいですね。

【蓮華王院 三十三間堂】

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