お正月の三箇日は、唐門内が開放される豊国神社へ
今年で7年連続の「京都十六社朱印めぐり」を、例年通り豊国神社からスタートしました。豊国神社では、お正月の3日まで国宝「唐門」内に入れるのと、初詣に六波羅蜜寺に行くので、どうしてもここがスタートになってしまいます。
六波羅蜜寺で、思わぬ行列となっていたので、ここに着くのが遅れました。9時9分に着いたので、唐門内は開いてるでしょう。
参道の左手に「手水舎」があって、そこには豊臣家の家紋「桐紋」が見られます。また、秀吉の馬印に使われていた「千成瓢箪」から水がチョロチョロ。
お参りの前に、授与所にて「京都十六社朱印めぐり」の御朱印をいただきました。先客2組のが時間がかかったので、待ちましたね。
唐門は開いているのが見えましたが、先に京都女子大学作成の「大絵馬」を撮りました。
国宝「唐門」の左横には、京都芸術工芸大学作成の「招福白虎」がありました。
ご覧のように、普段は閉まっている「唐門」は開いてます。皆さんも入って行かれますし、私も入ります。
入ると、奇跡的に誰も居ません。唐門の前には「拝殿」があって、この中も通れます。すると神主さんが本殿前に来られました。
神主さんの邪魔をしないように、望遠で撮りました。本殿の正面に朝日が差し込んで思い切り逆光でしたね。
1599年(慶長4年)に、前年薨去された太閤秀吉公(豊臣秀吉)を奉祀するため、朝廷より正一位豊国大明神の神階神号を賜り、東山阿弥陀ケ峯に豊国神社が創建されました。1615年(元和元年)「大坂夏の陣」により豊臣氏滅亡後、徳川幕府の命により廃祀となりましたが、1868年(明治元年)第122代明治天皇が祭祀の復興を命ぜられ1873年(明治6年)に別格官弊社(べっかくかんぺいしゃ)に列し、1880年(明治13年)方広寺大仏殿跡地に社殿を造営し復興されました。1925年(大正14年)には秀吉公の夫人、豊臣吉子(北政所ねね)を祀る貞照(さだてる)神社が創建され、現在では出世開運・良縁成就の神様として尊崇を集めています。正面の唐門は伏見城に遺構とされ、豪華な飾金具や彫刻で装飾が施され桃山時代を代表する建造物として国宝に指定されています。
本殿の右隣にある摂社「貞照(さだてる)神社」です。こちらは正月三箇日しかお参りすることはでません。
以前、9時5分頃に来た時は開いて無かったこともあるので、少し遅い時間に来てみたら今年はお参りできました。
唐門に貼ってあった「朱印帳」です。十六社の朱印帳は無料で貰え、私はここが最初でした。これから15社巡ります。
久し振りに末社「槇本(まきもと)稲荷社」に寄りました。毎年11月8日に御火焚祭が斎行されるそうです。境内の東北角に赤鳥居を進んでいくと、覆屋の中に祠がありそこに槇本大明神が祀られています。
豊国神社のお隣には、大坂の陣のきっかけとなる「方広寺鐘銘事件」の鐘が今も残っています。
9時20分頃に豊国神社を出て、市比賣神社に向かいましたが、正面に京都タワーが見えました。
昨年の「第46回 京の夏の旅」で、豊国神社の「宝物館・書院」が特別公開されました。ただ、コロナ禍により京都に緊急時代宣言が出されたことにより、8月23日から休止、そして中止となりました。私も8月下旬にネット予約していたのに、結局行かれなかったです。今年の「京の冬の旅」が中止にならないことを祈るばかりです。
正面通りを歩いて行くと、朝鮮人からそぎ落とした耳や鼻を供養されている「耳塚」の前を通りました。
豊臣秀吉が朝鮮半島に出兵した「文禄・慶長の役」(1592~98年)において、秀吉軍の将兵は戦勝の証として首級のかわりに耳や鼻を切り取り、塩や酢に漬けて日本に持ち帰り埋めたと「淀川両岸一覧」は記す。鼻塚ともいわれる。高さ約8㍍の塚上に巨大な五輪石塔が立つ。
このあと、正面橋を渡って市比賣神社に、この日は向かいました。
【豊国神社】
六波羅蜜寺で、思わぬ行列となっていたので、ここに着くのが遅れました。9時9分に着いたので、唐門内は開いてるでしょう。
参道の左手に「手水舎」があって、そこには豊臣家の家紋「桐紋」が見られます。また、秀吉の馬印に使われていた「千成瓢箪」から水がチョロチョロ。
お参りの前に、授与所にて「京都十六社朱印めぐり」の御朱印をいただきました。先客2組のが時間がかかったので、待ちましたね。
唐門は開いているのが見えましたが、先に京都女子大学作成の「大絵馬」を撮りました。
国宝「唐門」の左横には、京都芸術工芸大学作成の「招福白虎」がありました。
ご覧のように、普段は閉まっている「唐門」は開いてます。皆さんも入って行かれますし、私も入ります。
入ると、奇跡的に誰も居ません。唐門の前には「拝殿」があって、この中も通れます。すると神主さんが本殿前に来られました。
神主さんの邪魔をしないように、望遠で撮りました。本殿の正面に朝日が差し込んで思い切り逆光でしたね。
1599年(慶長4年)に、前年薨去された太閤秀吉公(豊臣秀吉)を奉祀するため、朝廷より正一位豊国大明神の神階神号を賜り、東山阿弥陀ケ峯に豊国神社が創建されました。1615年(元和元年)「大坂夏の陣」により豊臣氏滅亡後、徳川幕府の命により廃祀となりましたが、1868年(明治元年)第122代明治天皇が祭祀の復興を命ぜられ1873年(明治6年)に別格官弊社(べっかくかんぺいしゃ)に列し、1880年(明治13年)方広寺大仏殿跡地に社殿を造営し復興されました。1925年(大正14年)には秀吉公の夫人、豊臣吉子(北政所ねね)を祀る貞照(さだてる)神社が創建され、現在では出世開運・良縁成就の神様として尊崇を集めています。正面の唐門は伏見城に遺構とされ、豪華な飾金具や彫刻で装飾が施され桃山時代を代表する建造物として国宝に指定されています。
本殿の右隣にある摂社「貞照(さだてる)神社」です。こちらは正月三箇日しかお参りすることはでません。
以前、9時5分頃に来た時は開いて無かったこともあるので、少し遅い時間に来てみたら今年はお参りできました。
唐門に貼ってあった「朱印帳」です。十六社の朱印帳は無料で貰え、私はここが最初でした。これから15社巡ります。
久し振りに末社「槇本(まきもと)稲荷社」に寄りました。毎年11月8日に御火焚祭が斎行されるそうです。境内の東北角に赤鳥居を進んでいくと、覆屋の中に祠がありそこに槇本大明神が祀られています。
豊国神社のお隣には、大坂の陣のきっかけとなる「方広寺鐘銘事件」の鐘が今も残っています。
9時20分頃に豊国神社を出て、市比賣神社に向かいましたが、正面に京都タワーが見えました。
昨年の「第46回 京の夏の旅」で、豊国神社の「宝物館・書院」が特別公開されました。ただ、コロナ禍により京都に緊急時代宣言が出されたことにより、8月23日から休止、そして中止となりました。私も8月下旬にネット予約していたのに、結局行かれなかったです。今年の「京の冬の旅」が中止にならないことを祈るばかりです。
正面通りを歩いて行くと、朝鮮人からそぎ落とした耳や鼻を供養されている「耳塚」の前を通りました。
豊臣秀吉が朝鮮半島に出兵した「文禄・慶長の役」(1592~98年)において、秀吉軍の将兵は戦勝の証として首級のかわりに耳や鼻を切り取り、塩や酢に漬けて日本に持ち帰り埋めたと「淀川両岸一覧」は記す。鼻塚ともいわれる。高さ約8㍍の塚上に巨大な五輪石塔が立つ。
このあと、正面橋を渡って市比賣神社に、この日は向かいました。
【豊国神社】
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