京の七口の一つである粟田口にある天台宗門跡青蓮院の鎮守社 粟田神社へ
京の七口には粟田口、東寺口、丹波口、鳥羽口、鞍馬口、大原口、荒神口があって、京都と諸国とを結ぶために設けられた街道の出入口がありました。その粟田口にある粟田神社には、厄除け、旅立ち守護の神として古くから親しまれてました。
地下鉄東西線「蹴上駅」の2番出口を出て、三条通りを西に下って行くとこと約10分で、粟田神社と書かれた大きな社号標が左手に見えてきます。
一の鳥居をくぐると、次に「二の鳥居」をくぐり、しばらく石畳を進みます。

次に道路を挟んだ先に「三の鳥居」があって、ここから石段となります。


長い石段を上がって行きますが、車は左側を登りきり境内に止めることに。昨年はそうでした
。
石段を登り切る手前には「御神馬像」があります。神社には古くから神様が乗られる馬が飼われてました。この像は、明治時代末期に奉納されたものです。旅立ち守護に相応しい立派な姿です。
石段を登り切ると右手に「社務所」があったので、ここで十六社の朱印をいただいて、満願となったわけです。干支の置物もここで貰いました。
平安時代の第56代清和天皇御代、876年(貞観18年)国家と民の安全を祈願する為に全国の諸神へ勅使が遣わされました。その際、従五位上出羽守藤原興世(ふじわらのおきよ)は勅使として感神院祇園社(八坂神社)に七日七晩祈願されました。その満願の夜、興世の枕元に老翁のお姿の大己貴命(おおあなむちのみこと)に神託を告げられました。興世は神意なりと朝廷に秦上し、勅命により社を建てて御神霊をお祀りされましたのが粟田神社の始まりとされています。また一説には、第5代孝昭天皇(こうしょうてんのう)の分かれである粟田氏が此地を治めていた時に氏神として当社を創建したとも云われています。創建以来、京都の東の出入り口である粟田口に鎮座し、街道を行き交う人々の信仰を集め、旅立ち守護(旅行安全)と厄除けの神様として親しまれています。
境内の中央に位置する「拝殿」です。2009年(平成21年)に檜皮葺の屋根を葺き替え美しい姿が蘇っています。詳細な資料を欠きますが1703年(元禄16年)に建てられたと伝わります。

最初に「本殿」で参拝しました。ご祭神は、主座に素戔嗚尊、大己貴命(おおなむちのみこと)。左座に、八大王子命(はちだいやうじのみこと)。右座に、奇稲田媛命(くしいなだなひめのみこと)、神大市媛命(かむおおいちひめのみこと)、佐須良媛命(さすらひめのみこと) です。
本殿・幣殿は1933年(昭和8年)の棟札写から、1805年(文化2年)6月に焼失後、1823年(文政6年)に再建されたことが明らかになりました。建物は、三間社流造の本殿の前に桁行二間・梁行三間で正面に拝所の彫刻装飾を付設した幣殿が接続する複合社殿となっています。拝所の彫刻装飾には時代的特色がみられ、また流造の屋根を続けて入母屋造・妻入、さらにその正面に向唐破風造の屋根を続けて変化に富んだ外観をみせており、江戸時代後期の複合社殿として価値が高い。
今日、粟田神社に来てオレンジの幟が目立ちます。これは、1月9日~11日に「出世えびす祭」があるからです
。

次に本殿を回ります。最初が「朝日天満宮」(左)で御祭神が菅原道真公。「多賀社」(右)で多賀大社の御分霊が祀られています。

右隣が「大神宮」で神明鳥居ですね。青蓮院の坊官である鳥居小路家の旧宅地の鎮護神でしたが、明治になって粟田神社の境内に遷座されました。現在は八幡神と春日神が両脇に配されています。

その右隣が「出世恵比須神社」で、ご祭神は、蛭子大神。創建年代は不詳。もとは三条蹴上の夷谷に奉祀されていました。
今日は扉が閉まっていますが、毎年1月9日~11日の「出世えびす祭」の期間中のみ、釣り上げた鯛を持って笑っている神像が一般に公開されます。
次に本殿の向かって左側から右側に移動します。


最初は「吉兵衛神社」です。三条神宮道辺りにあった青蓮院の御門の東に奉祀されていた土地の守り神が、ここで祀られています。
この前に、水の無い池があって庭園のようでした。



ここには眺望が良い休憩所があるので、ここでお茶を飲みながら眺望を楽しんだ訳です。「平安神宮大鳥居」が見えました。


ここの「手水」は近づくと、水が出てきます。例年なら可愛いアヒルが泳いでいますが、コロナウイルスの感染対策で出されてましたね。

このあと、また摂社を巡ります。先ずは「北向稲荷神社」です。御祭神が雪丸稲荷他三座で、雪丸稲荷は三条小鍛冶宗近(平安末期の名刀匠)が一条院の勅命により剣を打つ際に相槌を打ったお稲荷さんと云われています。

朱塗りの鳥居を潜った先にあるのが、末社の「太郎兵衛神社」です。以前は青蓮院の御門の西に奉祀されていた土地の守り神だそうです。
この奥に、大正年間に造られたと伝わる「赤煉瓦の擁壁」がありました。水抜き穴から内部の栗石が見え、丁寧な仕事ぶりが伺える。
この赤煉瓦を見た後、お隣の宝物館に入ってみます。

昨年も友人と入った記憶がある「宝物館」で無料で入れます。




他に「太刀」や「合口」なども展示されてます。一通り見て、出て行きました。
宝物館を出て、最後に「能楽堂」に寄りました。毎年、今年の干支に関する置物があるんですが・・・?。
このあと、長い坂を下って帰路に着きましたが・・・?。



石段を降りる右手に「鍛冶神社」に寄りました。ご祭神が、天目一箇神、三條治宗近命、粟田口藤四郎吉光命で、後神徳が、鍛冶の神、刀剣の神、悪運を断ち良縁を切り開く神とありました。
京の東の出入口であるこの粟田口には、平安時代後期より室町時代にかけて、刀鍛冶が多く住み、三條派粟田口派と呼ばれ、後鳥羽上皇の御番鍛冶を勤める刀工を始め、数多くの名工を輩出しました。その為この地は山城国の刀鍛冶発祥の地とも呼ばれています。この三條粟田口の数多くの工達を顕著する為に当神社が創建されたと伝わります。祭神の三條治宗近命、粟田口藤四郎吉光命は、京の七口の一つとして知られる粟田口の刀工。作金者(かなだくみ)の祖である天目一筒神も祭神に祀られてる神社です。
ここをお参りすると、地下鉄東西線「東山駅」から帰路に着きました。今年も「京都十六社朱印めぐり」を達成し満足感一杯で帰ることができました
。
【粟田神社】











平安時代の第56代清和天皇御代、876年(貞観18年)国家と民の安全を祈願する為に全国の諸神へ勅使が遣わされました。その際、従五位上出羽守藤原興世(ふじわらのおきよ)は勅使として感神院祇園社(八坂神社)に七日七晩祈願されました。その満願の夜、興世の枕元に老翁のお姿の大己貴命(おおあなむちのみこと)に神託を告げられました。興世は神意なりと朝廷に秦上し、勅命により社を建てて御神霊をお祀りされましたのが粟田神社の始まりとされています。また一説には、第5代孝昭天皇(こうしょうてんのう)の分かれである粟田氏が此地を治めていた時に氏神として当社を創建したとも云われています。創建以来、京都の東の出入り口である粟田口に鎮座し、街道を行き交う人々の信仰を集め、旅立ち守護(旅行安全)と厄除けの神様として親しまれています。



本殿・幣殿は1933年(昭和8年)の棟札写から、1805年(文化2年)6月に焼失後、1823年(文政6年)に再建されたことが明らかになりました。建物は、三間社流造の本殿の前に桁行二間・梁行三間で正面に拝所の彫刻装飾を付設した幣殿が接続する複合社殿となっています。拝所の彫刻装飾には時代的特色がみられ、また流造の屋根を続けて入母屋造・妻入、さらにその正面に向唐破風造の屋根を続けて変化に富んだ外観をみせており、江戸時代後期の複合社殿として価値が高い。
今日、粟田神社に来てオレンジの幟が目立ちます。これは、1月9日~11日に「出世えびす祭」があるからです







今日は扉が閉まっていますが、毎年1月9日~11日の「出世えびす祭」の期間中のみ、釣り上げた鯛を持って笑っている神像が一般に公開されます。































京の東の出入口であるこの粟田口には、平安時代後期より室町時代にかけて、刀鍛冶が多く住み、三條派粟田口派と呼ばれ、後鳥羽上皇の御番鍛冶を勤める刀工を始め、数多くの名工を輩出しました。その為この地は山城国の刀鍛冶発祥の地とも呼ばれています。この三條粟田口の数多くの工達を顕著する為に当神社が創建されたと伝わります。祭神の三條治宗近命、粟田口藤四郎吉光命は、京の七口の一つとして知られる粟田口の刀工。作金者(かなだくみ)の祖である天目一筒神も祭神に祀られてる神社です。
ここをお参りすると、地下鉄東西線「東山駅」から帰路に着きました。今年も「京都十六社朱印めぐり」を達成し満足感一杯で帰ることができました

【粟田神社】
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