足腰の守護神 護王神社へ
1月17日(月)は、所用先から歩いて護王神社へお参りに行きました。家族の御守りをお返えして、新しい御守りをいただきに来た訳です。
烏丸通りを北に向いて歩いて来たので、「表門」から境内に入ります。
この日は17日(月)ですが、翌日も所用があったので来てました。それで向かいに渡って烏丸通りの東から表門を撮ったわけです。
護王神社には、イノシシが至る所に居ます。先ずは表門の右手に居ました。
例年通り「拝殿」には「大絵馬」が架かっています。今日の目的はこれを撮るつもりもありました。原画は京都市在住で亥年生まれの日本画家・曲子明良(まげしあきら)氏のご揮毫だそうです。
表門を入って右手には「手水舎」があって、鼻を触ると幸せになると言われる「幸運の霊猪」があって、近づくと鼻から水が出て来ます。
先に本殿前の「中門」で参拝をすませます。御祭神は、和気清麻呂公命(わけのきよまろこうのみこと)、和気広虫媛命(わけのひろむしひめのみこと)の二柱です。
創建時期は定かではありませんが、元は高雄神護寺の境内に和気清麻呂公の霊社として祀られ「護法善神」と称されました。1851年(嘉永4年)に第121代孝明天皇が清麻呂命の功績を称えて「正一位護王大明神」の神階し神号を同社に授与。1874年(明治7年)に現社名へと改称し、別格官幤社に列され、1886年(明治19年)に第122代明治天皇の勅命により、京都御所蛤御門前に(現在地)に社殿を造営。1915年(大正4年)には御祭神の姉君・和気広虫姫命も祭神として合祀され現在に至っています。
次にお隣の「祈願殿(きがんでん)」もお参りします。この中には、和気清麻呂公命と和気広虫姫命の御神像が安置されてるようです。
ここで、古い御守りを家族の分を含め返納しました。
このあと、「授与所」で御守りをいただきました。コロナ感染対策でしょうか、巫女さんに言ってそれをいただく方法でしたね。
昨日は、「皇后盃全国都道府県対抗女子駅伝競走大会」があって都大路をランナーが走りました。そのランナー達でしょうか、お参りに来られてました。何処の府県かは分かりませんでした。
少し時間があるので、境内を散策です。こちらは拝殿前の「狛猪」で、ちゃんと阿吽の形をしています。
手水舎から境内を回ります。最初は石碑で「千年の皇都護りし和気命を いのししも守る花梨熟る宮」(興四郎)と書かれています。その奥が京都市選定の名木「かりんの木」です。
その横が吉井勇の歌碑で、「風なきに 榠櫨(くわりん)の實(み)また ほろと落つ かくて極まる 庭のしづけさ」と書いてありました。
境内の東側にある「針の碑」です。毎年2月8日に行われる針供養祭で、針を柔らかい蒟蒻に刺して労をねぎらい供養されます。
境内東側の最後が「伊勢神宮遥拝所」です。東に向いてますが、実際は東南方向だと思います。
次に北側に移動し東から、最初が「祖霊社(近衛社)」です。護王神社の歴代宮司、神職、役員総代の霊を祀られています。
次が、「久邇宮家御霊殿」で、1964年(昭和39年)旧久邇宮家邸宅より遷座されました。お向かいの京都御所内から東京へ移られたため、ここに遷移されたのでしょう。
手前を見ると「仏足石」が。
ズームで撮った「和気清麻呂公像」は、1942年(昭和17年)に滋野国民学校(滋野中学校)に建立されたものを2002年(平成14年)に移されたものです。
北側の最後が「警察消防招魂社」です。警察や消防で職務に殉じた人ををお祀されています。
そして喜多門(北門)近くに、ここの御祭神である「和気清麻呂公銅像」が、京都御所に向かって真っ直ぐ立っています。
その奥に「日本一のさざれ石」がありました。君が代でお馴染みですね。岐阜県揖斐郡春日村産だそうです。
参拝する「中門」の右にも手水舎があって、ここにも「幸運の霊猪」が居ました。
本殿右手前には“招魂樹(おがたまのき)の根本”に「足萎難儀回復の碑」があって、足腰の病気やけがの回復を願って多くの方が祈願に来られます。参拝者は足形の石の上に乗ったり、碑をさすったりして祈願するようです。
また、本殿左手前には“招魂樹(おがたまのき)の根本”に「願掛け猪の石像」があり、その周りに「座立亥串(くらたていぐし)」という願掛けの串がさしてあります。自分の名前と願い事を書いた紙札をはさんで、願かけ猪の前に刺し立てて願かけをするといいます。
引いて撮ると「招魂樹(おがたまのき)」の大きさが分かります。
祈祷殿の南にチェーンソー彫刻の「飛翔親子猪」があります。樹齢300年の桂の木に神猪が子猪を守る姿を刻んだものです。
こちらは「猪コレクション」ですが、何度か来てるのでスルーさせて貰いました。
本殿前の「中門」から「拝殿」を見ると、綺麗な生け花が奉納されてました。
最後に「大イチョウ」を撮って、ここを出ました。秋には黄色に染まるのでしょう、再訪します。
護王神社の北門を出ると、向かいに石碑がありました。読むと「水戸藩邸跡」と書いてありました。この付近に水戸藩邸があったそうです。
この日は、ここから急いで所用先まで戻り帰りました。
【護王神社】
【水戸藩邸跡】
烏丸通りを北に向いて歩いて来たので、「表門」から境内に入ります。
この日は17日(月)ですが、翌日も所用があったので来てました。それで向かいに渡って烏丸通りの東から表門を撮ったわけです。
護王神社には、イノシシが至る所に居ます。先ずは表門の右手に居ました。
例年通り「拝殿」には「大絵馬」が架かっています。今日の目的はこれを撮るつもりもありました。原画は京都市在住で亥年生まれの日本画家・曲子明良(まげしあきら)氏のご揮毫だそうです。
表門を入って右手には「手水舎」があって、鼻を触ると幸せになると言われる「幸運の霊猪」があって、近づくと鼻から水が出て来ます。
先に本殿前の「中門」で参拝をすませます。御祭神は、和気清麻呂公命(わけのきよまろこうのみこと)、和気広虫媛命(わけのひろむしひめのみこと)の二柱です。
創建時期は定かではありませんが、元は高雄神護寺の境内に和気清麻呂公の霊社として祀られ「護法善神」と称されました。1851年(嘉永4年)に第121代孝明天皇が清麻呂命の功績を称えて「正一位護王大明神」の神階し神号を同社に授与。1874年(明治7年)に現社名へと改称し、別格官幤社に列され、1886年(明治19年)に第122代明治天皇の勅命により、京都御所蛤御門前に(現在地)に社殿を造営。1915年(大正4年)には御祭神の姉君・和気広虫姫命も祭神として合祀され現在に至っています。
次にお隣の「祈願殿(きがんでん)」もお参りします。この中には、和気清麻呂公命と和気広虫姫命の御神像が安置されてるようです。
ここで、古い御守りを家族の分を含め返納しました。
このあと、「授与所」で御守りをいただきました。コロナ感染対策でしょうか、巫女さんに言ってそれをいただく方法でしたね。
昨日は、「皇后盃全国都道府県対抗女子駅伝競走大会」があって都大路をランナーが走りました。そのランナー達でしょうか、お参りに来られてました。何処の府県かは分かりませんでした。
少し時間があるので、境内を散策です。こちらは拝殿前の「狛猪」で、ちゃんと阿吽の形をしています。
手水舎から境内を回ります。最初は石碑で「千年の皇都護りし和気命を いのししも守る花梨熟る宮」(興四郎)と書かれています。その奥が京都市選定の名木「かりんの木」です。
その横が吉井勇の歌碑で、「風なきに 榠櫨(くわりん)の實(み)また ほろと落つ かくて極まる 庭のしづけさ」と書いてありました。
境内の東側にある「針の碑」です。毎年2月8日に行われる針供養祭で、針を柔らかい蒟蒻に刺して労をねぎらい供養されます。
境内東側の最後が「伊勢神宮遥拝所」です。東に向いてますが、実際は東南方向だと思います。
次に北側に移動し東から、最初が「祖霊社(近衛社)」です。護王神社の歴代宮司、神職、役員総代の霊を祀られています。
次が、「久邇宮家御霊殿」で、1964年(昭和39年)旧久邇宮家邸宅より遷座されました。お向かいの京都御所内から東京へ移られたため、ここに遷移されたのでしょう。
手前を見ると「仏足石」が。
ズームで撮った「和気清麻呂公像」は、1942年(昭和17年)に滋野国民学校(滋野中学校)に建立されたものを2002年(平成14年)に移されたものです。
北側の最後が「警察消防招魂社」です。警察や消防で職務に殉じた人ををお祀されています。
そして喜多門(北門)近くに、ここの御祭神である「和気清麻呂公銅像」が、京都御所に向かって真っ直ぐ立っています。
その奥に「日本一のさざれ石」がありました。君が代でお馴染みですね。岐阜県揖斐郡春日村産だそうです。
参拝する「中門」の右にも手水舎があって、ここにも「幸運の霊猪」が居ました。
本殿右手前には“招魂樹(おがたまのき)の根本”に「足萎難儀回復の碑」があって、足腰の病気やけがの回復を願って多くの方が祈願に来られます。参拝者は足形の石の上に乗ったり、碑をさすったりして祈願するようです。
また、本殿左手前には“招魂樹(おがたまのき)の根本”に「願掛け猪の石像」があり、その周りに「座立亥串(くらたていぐし)」という願掛けの串がさしてあります。自分の名前と願い事を書いた紙札をはさんで、願かけ猪の前に刺し立てて願かけをするといいます。
引いて撮ると「招魂樹(おがたまのき)」の大きさが分かります。
祈祷殿の南にチェーンソー彫刻の「飛翔親子猪」があります。樹齢300年の桂の木に神猪が子猪を守る姿を刻んだものです。
こちらは「猪コレクション」ですが、何度か来てるのでスルーさせて貰いました。
本殿前の「中門」から「拝殿」を見ると、綺麗な生け花が奉納されてました。
最後に「大イチョウ」を撮って、ここを出ました。秋には黄色に染まるのでしょう、再訪します。
護王神社の北門を出ると、向かいに石碑がありました。読むと「水戸藩邸跡」と書いてありました。この付近に水戸藩邸があったそうです。
この日は、ここから急いで所用先まで戻り帰りました。
【護王神社】
【水戸藩邸跡】
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