室町幕府8代将軍足利義政が晩年に創建した観音殿 慈照寺(銀閣寺)へ
旧三井家下鴨別邸を出て、京阪出町柳駅まで戻りそこからタクシーに乗り向かった先は、東山慈照寺(銀閣寺)でした。世界文化遺産に指定されている銀閣寺に来るのは2010年(平成22年)10月2日以来です。
京阪出町柳駅にはタクシー乗り場があります。そこからタクシーに乗り向かった先が銀閣寺でした。コロナ禍前まで外国人観光客や修学旅行生が多く、人混みが苦手な私は敬遠してました。タクシーは百万遍の交差点から今出川通りに入り、東へ進み白川通りを超えて鹿ヶ谷通りの信号前で降ろされました。この先は車両通行止めというこで、ここから歩きます。ここから銀閣寺までは、ずっと登りなんですね。頑張って歩き、9時43分に門前に着きました。
銀閣寺は8時30分開門ですが、2月は9時開門です。開門から40分過ぎてますが、誰も歩いてません。
臨済宗相国寺派大本山相国寺の境外塔頭の一つである東山慈照寺(とうざんじしょうじ)が銀閣寺の正式名称です。室町幕府8代将軍足利義政は、後継者問題から応仁の乱が起こると、政治を離れて風雅の世界へ逃避行し、将軍職を離れたあと、7年かけて風雅の世界へ隠棲するため1490年(延徳2年)に建立したのが観音殿でした。義政の祖父にあたる3代将軍足利義満の北山殿(鹿苑寺)にならい夢想国師が再興した西芳寺庭園を理想とし、西芳寺にあった舎利殿をモデルに義満は金閣(舎利殿)を、義政は銀閣(観音殿)を建てました。東山山荘には持仏堂(東求堂)・西指庵・超然亭といった建物が造られますが、義政はそれらを見ずに亡くなります。遺言により東山山荘は夢想国師を勧請開山に迎え禅寺とされ、義政の法号から東山慈照寺(とうざんじしょうじ)と名付けられました。
案内図がある所から石畳を歩き「総門」をくぐります。長いこと来て無かったので、拝観受付所が分かりません。
総門から中門までの間は「銀閣寺垣」と呼ばれています。石垣、竹垣、椿の生垣で構成され、綺麗に刈り込みされてますね。
銀閣寺垣を抜け「中門」の手前に「拝観受付所」がありました。以前は、もっと手前かなぁ・・・と記憶が錯綜するなか、拝観料500円を納めお札をいただきます。
この「中門」を入ると、左手に受付があって、先程のお札に付いている半券を取られます。そして、いよいよ銀閣寺庭園に入ります。
と思ったら、左手に「庫裏」を、正面に唐門の「宝処閣」を見て、右手の門をくぐります。
庭園に入ると、さっそく銀閣の名の由来となった「観音堂」が見えました。手前は「八幡社」です。
振り向くと「向月台」、その奥が「銀沙灘(ぎんしゃだん)」、そして「方丈」、国宝「東求堂」が見えています。
向月台は高さ1.8㍍、銀沙灘は高さ35~40㌢もあります。江戸時代初期、宮城丹波守豊盛が整備する前、池は白い流砂で埋まっていたそうで、その砂を盛り上げことが、砂盛りにつながったといわれています。
南に庭園を面する「方丈」は、外周の大部分を舞良戸という桟を密に組み付けた板戸で囲んであります。ここは特別公開時に見られます。
江戸時代に知恩院の普請奉行を務めた宮城丹波守豊盛(元は豊臣秀吉配下の武将)の援助により造営された「方丈」には、3つの間があり、与謝野蕪村と池大雅の作になる襖絵があります。
方丈前から銀沙灘越しに観音堂を捉えました。
方丈と東求堂の間にある小さな庭園の奥に「銀閣寺形手水鉢」が見えました。別名を袈裟型手水鉢と呼ばれるモダンなデザインです。
国宝「東求堂」で、春や秋の特別公開の時に入れますが、私は入ったことがありません。
桧皮葺の東求堂は、元は足利義政の持仏堂として阿弥陀三尊像を安置し、1486年(文明18年)に建立された。仏間の北東には同仁齋(どうじんさい)と呼ばれる四畳半の書院があります。
国宝「東求堂」を錦鏡池(きんきょうち)越しに撮りました。
銀沙灘越しに唐門(宝処閣)、方丈を撮りました。白砂の銀沙灘が綺麗です。
次に東求堂を左手に見て参道を進むと錦鏡池に架かる「木橋」があったので渡ります。
錦鏡池の中にある名石「大内石」です。室町時代の守護大名・大内政弘(おおうちまさひろ)が東山山荘造営に際し、室町幕府第8代将軍・足利義政に献上した石と言われます。
このあと、この銀閣寺で最も綺麗に観音堂(銀閣)が撮れるビュースポットがあります。
観音堂(銀閣)の1階は心風殿と呼ばれ住宅風の建物。2階は花頭窓に囲まれた禅宗様の造りで潮音閣と言います。ここの須弥壇に観音菩薩坐像(洞中観音)が安置されてますが、1階も2階も非公開です。銀閣の名は金色に輝く鹿苑寺舎利殿を金閣と呼ばれたことの対峙ですが、建物の外側に銀箔を貼った形跡は認められてません。
このあと一方通行の苑路を巡ります。ただ、庭園内には誰も居ないので逆行しても関係ないでしょうけど。
樹齢500年の「千代の槇」で、マキ科のラカンマキだそうです。スギ苔を生じる平庭の中程に植えられ、近くに池泉があります。
その先には小さな滝を見つけました。「洗月泉」と呼ばれています。
まるで西芳寺(苔寺)を思わせる、綺麗な苔庭です。
このあと東求堂の方向へ向かうようですが、その前に「木橋」を渡ります。
結界があるので、これ以上は行けません。ここから国宝「東求堂」を撮りました。
錦鏡池にある「白鶴島」には石橋が架かっています。手前から「仙桂橋」と奥に「仙袖橋」が見えました。
少し石段を上がった先には鎮守社「辨財天」が祀られていました。
ここから東求堂の裏にある「弄清亭(ろうせいてい)」が見えました。1996年(平成8年)に再建されました。
登り切った先には「お茶の井庭園」と「お茶の井跡」がありました。
この庭園石組みは1931年(昭和6年)に発掘され、竹亭漱蘚亭(そうせんてい)跡であり西芳寺(苔寺)の龍淵水石組を模範に作られたとされている庭園です。義政公愛用のお茶の井跡は水質も豊で、現在もお茶会等の飲料水として使用されています。泉辺の石組みは、当時遺構そのままであり、茶庭の蹲踞手水鉢前の源流とされています。
そこから、少し急な石段を登って行きます。結構登りましたね。
登り切ると、展望所はありませんが、観音堂や銀沙灘を見下ろして見られます。見ての通り誰も居ません。
ここから緩やかに下って行きます。苑路は一方通行になっているので下りは緩やかに長い参道が続きます。
降りて来て、少し戻って、最初に行ったビュースポットで、一枚だけ撮りました。今日は1階部分が閉まっていたのは残念です。
拝観ルートに戻り、観音堂(銀閣)の横に行き銀閣の見納めの写真を撮りました。
あまり紹介されない、銀閣の裏側です。これから工事をされるのか、終わったのか知りませんが、足場がありました。
観音堂(銀閣)を抜けると、竹林があって、その先に売店とトイレがありました。
帰りに「拝観受付所」を通り「総門」から出て行きました。帰りには何組か入って行かれましたが、今日は本当に空いてました。
ここから白川通りを下がって行き、錦林車庫前のバス停から帰路に着きました。
【世界文化遺産 銀閣寺】
京阪出町柳駅にはタクシー乗り場があります。そこからタクシーに乗り向かった先が銀閣寺でした。コロナ禍前まで外国人観光客や修学旅行生が多く、人混みが苦手な私は敬遠してました。タクシーは百万遍の交差点から今出川通りに入り、東へ進み白川通りを超えて鹿ヶ谷通りの信号前で降ろされました。この先は車両通行止めというこで、ここから歩きます。ここから銀閣寺までは、ずっと登りなんですね。頑張って歩き、9時43分に門前に着きました。
銀閣寺は8時30分開門ですが、2月は9時開門です。開門から40分過ぎてますが、誰も歩いてません。
臨済宗相国寺派大本山相国寺の境外塔頭の一つである東山慈照寺(とうざんじしょうじ)が銀閣寺の正式名称です。室町幕府8代将軍足利義政は、後継者問題から応仁の乱が起こると、政治を離れて風雅の世界へ逃避行し、将軍職を離れたあと、7年かけて風雅の世界へ隠棲するため1490年(延徳2年)に建立したのが観音殿でした。義政の祖父にあたる3代将軍足利義満の北山殿(鹿苑寺)にならい夢想国師が再興した西芳寺庭園を理想とし、西芳寺にあった舎利殿をモデルに義満は金閣(舎利殿)を、義政は銀閣(観音殿)を建てました。東山山荘には持仏堂(東求堂)・西指庵・超然亭といった建物が造られますが、義政はそれらを見ずに亡くなります。遺言により東山山荘は夢想国師を勧請開山に迎え禅寺とされ、義政の法号から東山慈照寺(とうざんじしょうじ)と名付けられました。
案内図がある所から石畳を歩き「総門」をくぐります。長いこと来て無かったので、拝観受付所が分かりません。
総門から中門までの間は「銀閣寺垣」と呼ばれています。石垣、竹垣、椿の生垣で構成され、綺麗に刈り込みされてますね。
銀閣寺垣を抜け「中門」の手前に「拝観受付所」がありました。以前は、もっと手前かなぁ・・・と記憶が錯綜するなか、拝観料500円を納めお札をいただきます。
この「中門」を入ると、左手に受付があって、先程のお札に付いている半券を取られます。そして、いよいよ銀閣寺庭園に入ります。
と思ったら、左手に「庫裏」を、正面に唐門の「宝処閣」を見て、右手の門をくぐります。
庭園に入ると、さっそく銀閣の名の由来となった「観音堂」が見えました。手前は「八幡社」です。
振り向くと「向月台」、その奥が「銀沙灘(ぎんしゃだん)」、そして「方丈」、国宝「東求堂」が見えています。
向月台は高さ1.8㍍、銀沙灘は高さ35~40㌢もあります。江戸時代初期、宮城丹波守豊盛が整備する前、池は白い流砂で埋まっていたそうで、その砂を盛り上げことが、砂盛りにつながったといわれています。
南に庭園を面する「方丈」は、外周の大部分を舞良戸という桟を密に組み付けた板戸で囲んであります。ここは特別公開時に見られます。
江戸時代に知恩院の普請奉行を務めた宮城丹波守豊盛(元は豊臣秀吉配下の武将)の援助により造営された「方丈」には、3つの間があり、与謝野蕪村と池大雅の作になる襖絵があります。
方丈前から銀沙灘越しに観音堂を捉えました。
方丈と東求堂の間にある小さな庭園の奥に「銀閣寺形手水鉢」が見えました。別名を袈裟型手水鉢と呼ばれるモダンなデザインです。
国宝「東求堂」で、春や秋の特別公開の時に入れますが、私は入ったことがありません。
桧皮葺の東求堂は、元は足利義政の持仏堂として阿弥陀三尊像を安置し、1486年(文明18年)に建立された。仏間の北東には同仁齋(どうじんさい)と呼ばれる四畳半の書院があります。
国宝「東求堂」を錦鏡池(きんきょうち)越しに撮りました。
銀沙灘越しに唐門(宝処閣)、方丈を撮りました。白砂の銀沙灘が綺麗です。
次に東求堂を左手に見て参道を進むと錦鏡池に架かる「木橋」があったので渡ります。
錦鏡池の中にある名石「大内石」です。室町時代の守護大名・大内政弘(おおうちまさひろ)が東山山荘造営に際し、室町幕府第8代将軍・足利義政に献上した石と言われます。
このあと、この銀閣寺で最も綺麗に観音堂(銀閣)が撮れるビュースポットがあります。
観音堂(銀閣)の1階は心風殿と呼ばれ住宅風の建物。2階は花頭窓に囲まれた禅宗様の造りで潮音閣と言います。ここの須弥壇に観音菩薩坐像(洞中観音)が安置されてますが、1階も2階も非公開です。銀閣の名は金色に輝く鹿苑寺舎利殿を金閣と呼ばれたことの対峙ですが、建物の外側に銀箔を貼った形跡は認められてません。
このあと一方通行の苑路を巡ります。ただ、庭園内には誰も居ないので逆行しても関係ないでしょうけど。
樹齢500年の「千代の槇」で、マキ科のラカンマキだそうです。スギ苔を生じる平庭の中程に植えられ、近くに池泉があります。
その先には小さな滝を見つけました。「洗月泉」と呼ばれています。
まるで西芳寺(苔寺)を思わせる、綺麗な苔庭です。
このあと東求堂の方向へ向かうようですが、その前に「木橋」を渡ります。
結界があるので、これ以上は行けません。ここから国宝「東求堂」を撮りました。
錦鏡池にある「白鶴島」には石橋が架かっています。手前から「仙桂橋」と奥に「仙袖橋」が見えました。
少し石段を上がった先には鎮守社「辨財天」が祀られていました。
ここから東求堂の裏にある「弄清亭(ろうせいてい)」が見えました。1996年(平成8年)に再建されました。
登り切った先には「お茶の井庭園」と「お茶の井跡」がありました。
この庭園石組みは1931年(昭和6年)に発掘され、竹亭漱蘚亭(そうせんてい)跡であり西芳寺(苔寺)の龍淵水石組を模範に作られたとされている庭園です。義政公愛用のお茶の井跡は水質も豊で、現在もお茶会等の飲料水として使用されています。泉辺の石組みは、当時遺構そのままであり、茶庭の蹲踞手水鉢前の源流とされています。
そこから、少し急な石段を登って行きます。結構登りましたね。
登り切ると、展望所はありませんが、観音堂や銀沙灘を見下ろして見られます。見ての通り誰も居ません。
ここから緩やかに下って行きます。苑路は一方通行になっているので下りは緩やかに長い参道が続きます。
降りて来て、少し戻って、最初に行ったビュースポットで、一枚だけ撮りました。今日は1階部分が閉まっていたのは残念です。
拝観ルートに戻り、観音堂(銀閣)の横に行き銀閣の見納めの写真を撮りました。
あまり紹介されない、銀閣の裏側です。これから工事をされるのか、終わったのか知りませんが、足場がありました。
観音堂(銀閣)を抜けると、竹林があって、その先に売店とトイレがありました。
帰りに「拝観受付所」を通り「総門」から出て行きました。帰りには何組か入って行かれましたが、今日は本当に空いてました。
ここから白川通りを下がって行き、錦林車庫前のバス停から帰路に着きました。
【世界文化遺産 銀閣寺】
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