第56回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開 西陣 興聖寺へ
2月1日(火)は、第56回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開 西陣 興聖寺に行きました。紅葉の名所宇治 興聖寺と比べるため、前に“西陣”が付いてます
。
西陣 興聖寺は初めての訪問ですが、場所は以前から知ってました。市バスで行くのがもっとも近い事も知ってましたが、市バスは時間が読めないので、地下鉄烏丸線「鞍馬口駅」から徒歩で向かうことにしました。
10時2分に「山門」前に着きました。計算通りに歩いてましたが、堀川通りの信号に引っかかり2分遅れた次第です。
臨済宗興聖寺派本山で、山号を圓通山と号す。1603年(慶長8年)戦国武将で茶人の古田重然(ふるたしげなり)(通称古田織部)が虚応円耳(きいんえんに)禅師を開山として創建した。後に第107代後陽成天皇及び第108代後水尾天皇の勅願所となる。当初は顕密兼修の寺院であったが、1701年(元禄14年)に禅宗寺院となる。現在の仏殿は1689年(元禄2年)の建立。庫裏、方丈は1788年(天明8年)の「天明の大火」後に再建された。当寺は、創建した古田織部にちなみ「織部寺」とも称される。古田織部は、千利休が大成された茶道を継承しつつ、大胆で自由な気風を好み、茶器制作、建築、作庭などにわたって「織部好み」と呼ばれる流行をもたらした。江戸幕府2代将軍徳川秀忠の茶の湯師範も勤めたが、大坂夏の陣に際して豊臣方に内通したとの嫌疑で自刀を命じられた。境内の墓所には一族の墓石が建立されている。

信号待ちをしている間にお二人が入って行かれました。山門の扁額は山号でしたね。
山門を入ると、次に「中門」があって、その門の左に「拝観受付所」がありました。そこで拝観料800円のところ、今日から使える京都市文化観光資源保護財団からいただいた招待状を出しました。
ここと、次に行く所は無料で入ります。入ると正面に「本堂(仏殿)」が見えました。最初に、こちらから見学です。


正面に見える仏堂を見ながら順路に沿って進みます。左(北)には「庫裏」がありますが、「唐門」まで進むとガイドさんがスタンバイされてました。
唐門を入るとスリッパが用意されているので、渡り廊下を通って「本堂(仏殿」に入りました。堂内は撮影禁止です。
堂内にはガイドさんが案内してくれますが、先客の方の案内をされていたので、ざっと見て出て行きました。この時期堂内で話しを聞くのは少々怖いですし遠慮しています。
天井には祖的が手掛けた「雲龍図」が、本尊の釈迦如来像を中心に、向かって左に戦国武将藤堂高虎の寄進と伝わる達磨像が安置。右に弥勒菩薩像が安置されてました。
早々に仏殿を出て、次に「方丈」に入りました。ガイドさんに聞いて、ここは撮影OKと確認していると、御朱印はここでいただくことも受付で聞いてました。
渡り廊下を通って「方丈」に入りました。方丈内に先客がいるので、先に庭園を見学です。



方丈の南側に綺麗な庭園が拡がっています。おもに苔と楓だそうで、手入れはご住職がされているとか。


こちらの襖は、2021年(令和3年)2月に写真家・杏橋幹彦氏によって撮影された「青波」が奉納されてました。
御朱印は、朱印帳を持参してきましたが書き置きのみでした。予想通りですね。2種類ありましたが、ご本尊のをいただきました。

次にガイドさんが案内してくれた珍しい「降り蹲踞」です。地面を深く大きく掘り下げ螺旋状の石段を降りた先に手水鉢が据えられています。

ここは織部寺・・・と言う訳では無いでしょうけど「織部灯籠」がありました
。
次に茶室「雲了庵」と、織部の院号から名連れられた祠堂「雲了軒」に入ります。
茶室「雲了庵」は撮影禁止でした。こちらは茶室前にあった「蹲踞」です。


祠堂「雲了軒」では、ガイドさんから話しを聞きました。
10畳の広間の奥には、束帯姿の「織部像」が祀られていました。織部の木像は撮影禁止でした。
帰りに「降り蹲踞」の反対側の庭園を撮りました。特に何もありませんが・・・
。
帰りも「唐門」から出て行くことに。驚いたことに先客の2名は、今頃仏殿から出て来られましたね。
山門まで戻る途中に、石碑があって「雪の柏樹(はくじゅ)」と書かれてました。


10時21分に山門から出て行きました。コロナウイルスの感染爆発で、参拝者は少なかったですね。
次の目的地は、初めて公開された寺院です。多分、ここの比じゃないほど多いでしょう。足早に次にへと向かいました。
【西陣 興聖寺】


西陣 興聖寺は初めての訪問ですが、場所は以前から知ってました。市バスで行くのがもっとも近い事も知ってましたが、市バスは時間が読めないので、地下鉄烏丸線「鞍馬口駅」から徒歩で向かうことにしました。

臨済宗興聖寺派本山で、山号を圓通山と号す。1603年(慶長8年)戦国武将で茶人の古田重然(ふるたしげなり)(通称古田織部)が虚応円耳(きいんえんに)禅師を開山として創建した。後に第107代後陽成天皇及び第108代後水尾天皇の勅願所となる。当初は顕密兼修の寺院であったが、1701年(元禄14年)に禅宗寺院となる。現在の仏殿は1689年(元禄2年)の建立。庫裏、方丈は1788年(天明8年)の「天明の大火」後に再建された。当寺は、創建した古田織部にちなみ「織部寺」とも称される。古田織部は、千利休が大成された茶道を継承しつつ、大胆で自由な気風を好み、茶器制作、建築、作庭などにわたって「織部好み」と呼ばれる流行をもたらした。江戸幕府2代将軍徳川秀忠の茶の湯師範も勤めたが、大坂夏の陣に際して豊臣方に内通したとの嫌疑で自刀を命じられた。境内の墓所には一族の墓石が建立されている。








堂内にはガイドさんが案内してくれますが、先客の方の案内をされていたので、ざっと見て出て行きました。この時期堂内で話しを聞くのは少々怖いですし遠慮しています。
天井には祖的が手掛けた「雲龍図」が、本尊の釈迦如来像を中心に、向かって左に戦国武将藤堂高虎の寄進と伝わる達磨像が安置。右に弥勒菩薩像が安置されてました。
早々に仏殿を出て、次に「方丈」に入りました。ガイドさんに聞いて、ここは撮影OKと確認していると、御朱印はここでいただくことも受付で聞いてました。























山門まで戻る途中に、石碑があって「雪の柏樹(はくじゅ)」と書かれてました。



次の目的地は、初めて公開された寺院です。多分、ここの比じゃないほど多いでしょう。足早に次にへと向かいました。
【西陣 興聖寺】
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