第56回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開 大徳寺 大光院へ
西陣 興聖寺を出て、北向きの路地を選んで歩いて行きます。ほどなくしたら北大路通りに出ると、向かいに大徳寺が見えて来て、その大徳寺境内の南側(北大路通り)を西に進むと、信号があるので、北に進路を変えると今回初めて公開された第56回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開 大徳寺 大光院の表門前に着きました。


大光院は初めての公開で、私もここの前を通ったのは初めてです。受付は「表門」には無かったですね。

表門を入ると、狭い参道の先に「鳥塚」と書かれた石碑がありました。


受付は、客殿の入口にある花頭窓の前にありました。そこで今日から使える京都市文化観光資源保護財団からいただいた招待状を出し御朱印も書き置きですがいただきました。
これで、京都市文化観光資源保護財団からいただいた招待状は、初日に使い切りました。この先緊急時代宣言なんか出され拝観が中止になったら使えなくなるので、いち早く来た次第です。なお、写真撮影は、この先は禁止でしたが、大徳寺の寺院は撮影禁止が多いので納得です。
大光院は大徳寺の塔頭寺院で、1592年(文禄元年)豊臣秀吉の弟・大納言秀長の菩提寺として大和郡山に創建され、1599年(慶長4年)に豊臣秀長の家臣・藤堂高虎により大徳寺山内に移された。1955年(昭和30年)に現在地に移されましたが、客殿などの建物は江戸時代に建てられたものがそのまま残っています。
ここは予想通り人が多かったです。客殿に上がると仏間に入りように案内されます。さほど広くない仏間に多くの人が入られたので、案内は縁側から聞きました。仏間には開祖・古渓宗陳(こけいそうちん)と二世・蘭叔宗秀(らんしゅくそうしゅう)の木像と豊臣秀長三回忌法要の際に造られた秀長の木像が安置されてました。
客殿の襖絵はチケットの写真です。この「雲龍画」襖絵は、もとは奥州・伊達家所有の屏風絵だったのを襖絵に直されたようです。
客殿南庭は、一面の白砂とわずかな起伏のある苔の築山で構成された枯山水庭園でした。
大光院の見所は、客殿と次の茶室「蒲庵(ほあん)」だけです。入って見てみるとやっぱり物足りなさはありますね。
3畳の水屋と2畳台目の茶室で、狭いので外から覗くだけです。現在の茶室は移築されたもので、歴史は浅いそうです。蒲は天井に使われていたのをガイドさんに教えて貰いました。
「蒲庵」は、黒田如水(官兵衛)好みの茶室。もともとこの茶席についた露地に、如水の子・黒田長政と加藤清正、福島正則の三武将がそれぞれ一つずつ石を寄進したということから「三石(みついし)の席」とも称される。
10時53分に、ここを出ました。前途したとおり見所が二箇所と、内部もそんなに広くないので、15分弱で出て来ました。
ここから船岡山バス停まで歩き、市バスに乗って円町まで行き、そこでJR円町駅から帰路に着きました。
【大徳寺 大光院】









これで、京都市文化観光資源保護財団からいただいた招待状は、初日に使い切りました。この先緊急時代宣言なんか出され拝観が中止になったら使えなくなるので、いち早く来た次第です。なお、写真撮影は、この先は禁止でしたが、大徳寺の寺院は撮影禁止が多いので納得です。
大光院は大徳寺の塔頭寺院で、1592年(文禄元年)豊臣秀吉の弟・大納言秀長の菩提寺として大和郡山に創建され、1599年(慶長4年)に豊臣秀長の家臣・藤堂高虎により大徳寺山内に移された。1955年(昭和30年)に現在地に移されましたが、客殿などの建物は江戸時代に建てられたものがそのまま残っています。
ここは予想通り人が多かったです。客殿に上がると仏間に入りように案内されます。さほど広くない仏間に多くの人が入られたので、案内は縁側から聞きました。仏間には開祖・古渓宗陳(こけいそうちん)と二世・蘭叔宗秀(らんしゅくそうしゅう)の木像と豊臣秀長三回忌法要の際に造られた秀長の木像が安置されてました。
客殿の襖絵はチケットの写真です。この「雲龍画」襖絵は、もとは奥州・伊達家所有の屏風絵だったのを襖絵に直されたようです。
客殿南庭は、一面の白砂とわずかな起伏のある苔の築山で構成された枯山水庭園でした。
大光院の見所は、客殿と次の茶室「蒲庵(ほあん)」だけです。入って見てみるとやっぱり物足りなさはありますね。

「蒲庵」は、黒田如水(官兵衛)好みの茶室。もともとこの茶席についた露地に、如水の子・黒田長政と加藤清正、福島正則の三武将がそれぞれ一つずつ石を寄進したということから「三石(みついし)の席」とも称される。


【大徳寺 大光院】
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