第56回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開 正伝永源院へ
2月4日(金)は、京都ウンタースペシャル2022で予約しているレストランに行く前に、第56回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開 建仁寺 正伝永源院に行きました。
通常非公開の寺院ですが、年に3回ほど公開があります。私は2011年(平成23年)1月15日に「京の冬の旅」で行き、2013年(平成25年)5月2日に「躑躅」で、2013年(平成25年)11月20日には「紅葉」で行ってます。それ以来来てないので、久しぶりの訪問してみようと思った次第です。
2013年(平成25年)までは、職場が建仁寺 正伝永源院の近くにあったので、特別公開されるとお昼休みを利用して来てました。それで祇園界隈に来ると、やっぱり懐かしいですね。当日は阪急河原町駅から懐かしい通勤ルートを通り目的地にやって来ました。2013年(平成25年)には、この界隈は外国人観光客だらけでしたが、今は皆無です。殆ど人が歩いてないなか10時23分に表門前に着きました。
拝観料800円を納め、スタンプラリーの用紙に3つ目のスタンプを押して貰ったので、これで“ちょっと一服”2箇所行けます。楽しみですね。
正伝永源院は建仁寺の塔頭寺院の一つで、「正伝院」と「永源庵」の二つの歴史を持っています。正伝院は鎌倉時代中期、文永年間(1264年~75年)において、大覚禅師の法嗣(はっす)である中国僧義翁紹仁勅謚普覚禅師によって開山となりました。永源庵は南北朝時代、正平年間(1346年~70年)に建仁寺39世・鉄庵道生の法嗣である無涯仁浩禅師によって創建されました。正伝院は戦国時代の天文年間(1532年~55年)に荒廃しますが、1618年(元和4年)に織田信長の弟・織田有楽斎(長益)により再興し、隠居所と茶室「如庵」が建てられました。1868年(明治元年)神仏分離令後の廃仏毀釈後、建仁寺塔頭の多くが廃され、無住となっていた永源庵は堂宇のみを残すのみとなりました。しかし堂宇の取り壊しは免れたところ、正伝院が境内の建物を放棄し、寺号のみを残して旧永源庵の現在地に移ります。のち「永源」の名を受けつぎ、「正伝永源院」と改めました。ご本尊は釈迦如来で、寺宝には織田有楽斎に関する遺品が多い。現在も方丈には「永源庵」と「正伝院」の二つの扁額架かっています。
スタンプラリー接待箇所で、「ここから近い清水店はコロナ禍で中止になった」と聞きましたが、元々そちらには行かないので問題ありません。表門の正面は「庫裏」が・・・。
その庫裏の左手に「中門」があり、そちらを潜ります。
入ると左手(南側)に「細川石」と書かれた大きな石碑があります。この正伝永源院は、熊本細川家とゆかりがあるんですね。
熊本藩主・細川家の菩提寺が「永源庵」で、明治に入り廃仏毀釈により「永源」の名が消えることを憂した細川侯爵が名を残すことを希望され、「正伝永源院」となった経緯がありました。
北側を見ると「織田有楽斎の墓」があります。有楽斎は織田信長の弟で、長益と号した。信長の死後、剃髪し、千利休に師事して茶道の宗匠となり、茶道三昧の生活を送ったが1621年(元和7年)71歳で没した。
お隣が「織田有楽斎夫人の墓(雲仙院)」です。平手政秀の娘だとか。政秀は、「信長の奇行を憂い、自身の死で諌めるため」との美談として有名ですね。
次に有楽斎の孫「織田長好の墓」(右)と、関白「一条昭良室の墓」(左)です。
有樂斎の次男・織田頼長の長男として生れ織田長好と称しました。江戸時代は、茶人として有楽流を継承し活躍したそうです。また、頼長の長女は、関白・一条昭良の妻となりました。有楽斎の墓は正伝院の移転後も旧地に残っていましたが、1962年(昭和37年)秋、織田有楽斎、その夫人、娘、孫の三基の墓はともにここに移されたようですね。
久々のため、このエリアは忘れてました。次に「唐門」を入って、いよいよ方丈に上がります。
くぐると、1組2名の方が出ていかれ、方丈には5名程度の団体さんでしょうか来られてました。ただ、こちらも直ぐに出て行かれたので、私が出るまで独占でした・・・ただ、ガイドさん2名は居ましたが。
入ると下駄箱に靴を預け上がります。その下駄箱の奥が、5月頃に躑躅が咲き誇って綺麗なんです。
この時は人はが居たので、ガイドさんより仏間にて「案内しますけど」と言われましたが、随分前ですが聞いたことがあるので、断りました。聞くと庭に降りても良いとのことで、スリッパに履き替え茶室「如庵」に向かいました。
本物の国宝「如庵」は名鉄犬山ホテル敷地内にあります。こちらは写しですが、本物まで見に行くには遠すぎますね。
注意書きに、「庭の苔を踏まないように」とあったので、注意して飛び石をつたって茶室まで来ました。以前は、撮影禁止だった茶室内が撮影OKとなってます。来て良かったです。
以前、案内で聞いた壁に古い暦を貼っているのが見えます。このことから別名「暦張席」で知られているようです。「有楽囲」「有楽窓」など有楽斎好みの特徴を見ることができました。
先に来られていた人らが帰られたので、次に「方丈」を見て回ります。
「永源庵」と「正伝院」の二つの扁額がかかる方丈内は、仏間のみ撮影禁止でした。ただ以前は撮れたので写真が残っています。
こちらの襖絵は複製ではなく、本物の狩野山楽筆「蓮鷲図(れんろず)」です。向かって右から蓮の蕾から開花、そして散ってしまう模様が描かれていました。
堂内にあった「織田有楽斎像」です。2011年(平成23年)に財団法人住友財団の援助により修復されたと書かれてました。
この正伝永源院は細川家の菩提寺で、その縁で細川護煕元首相が奉納した襖絵「知音(ちいん)」がお隣の部屋にありました。京都の東山の桜が描かれています。
庭を見ていたら、「方丈の西側にも部屋があるので見て行ってください」と言われたので向かいます。そんな事、すっかり忘れてました。
こちらの部屋にも細川護煕元首相が奉納された襖絵がありました。「聴雪(ちょうせつ)」と題し、冬の京都の模様が描かれています。
この部屋には狩野洞雲(益信)筆「観音図・雲龍図・虎図」の三幅対の軸など寺宝が展示されてましたが、ことらは撮影禁止でした。
最後の部屋は、何も書かれて無いので分かりません。写真だけ撮っておきました。
以前、来た時には無かった「武野紹鴎(たけの じょうおう)供養塔」が庭園の中にありました。
武野紹鴎は堺の承認で千利休の師としても知られている。25回忌にあたる1579年(天正7年)娘婿で弟子の今井宗久が堺の寺に供養塔を建立。江戸時代初期に、茶人であった織田有楽斎が隠棲していた正伝院の境内に移した記録が残る。しかし、明治初期の神仏分離令で正伝院の土地が没収され、供養塔も1916年(大正5年)に藤田家が入手。その藤田家の邸宅跡地「太閤園」に置かれていたが、2021年(令和3年)春、運営していた藤田観光が太閤園を売却したのを機に約100年振りに、正伝永源院に戻すことになった。奇しくも有楽斎没後400年の節目でした。
帰りに「鐘楼」や「鎮守社」など見てから10時40分頃に出て行きました。
こちらが受付で、いただいた御朱印で2種類ありました。ともに書き置きのみです。
このあと、懐かしの建仁寺に行こうと北門に向かう角にも看板がありました。
ここで、まさかの事件が・・・?。いつも定期入れの中にいれてある無料バスで入れるカードがありません。唖然・・・入れ忘れてました。それで予定を変更し、ある所を目指すことに・・・。
【建仁寺 正伝永源院】
通常非公開の寺院ですが、年に3回ほど公開があります。私は2011年(平成23年)1月15日に「京の冬の旅」で行き、2013年(平成25年)5月2日に「躑躅」で、2013年(平成25年)11月20日には「紅葉」で行ってます。それ以来来てないので、久しぶりの訪問してみようと思った次第です。
2013年(平成25年)までは、職場が建仁寺 正伝永源院の近くにあったので、特別公開されるとお昼休みを利用して来てました。それで祇園界隈に来ると、やっぱり懐かしいですね。当日は阪急河原町駅から懐かしい通勤ルートを通り目的地にやって来ました。2013年(平成25年)には、この界隈は外国人観光客だらけでしたが、今は皆無です。殆ど人が歩いてないなか10時23分に表門前に着きました。
拝観料800円を納め、スタンプラリーの用紙に3つ目のスタンプを押して貰ったので、これで“ちょっと一服”2箇所行けます。楽しみですね。
正伝永源院は建仁寺の塔頭寺院の一つで、「正伝院」と「永源庵」の二つの歴史を持っています。正伝院は鎌倉時代中期、文永年間(1264年~75年)において、大覚禅師の法嗣(はっす)である中国僧義翁紹仁勅謚普覚禅師によって開山となりました。永源庵は南北朝時代、正平年間(1346年~70年)に建仁寺39世・鉄庵道生の法嗣である無涯仁浩禅師によって創建されました。正伝院は戦国時代の天文年間(1532年~55年)に荒廃しますが、1618年(元和4年)に織田信長の弟・織田有楽斎(長益)により再興し、隠居所と茶室「如庵」が建てられました。1868年(明治元年)神仏分離令後の廃仏毀釈後、建仁寺塔頭の多くが廃され、無住となっていた永源庵は堂宇のみを残すのみとなりました。しかし堂宇の取り壊しは免れたところ、正伝院が境内の建物を放棄し、寺号のみを残して旧永源庵の現在地に移ります。のち「永源」の名を受けつぎ、「正伝永源院」と改めました。ご本尊は釈迦如来で、寺宝には織田有楽斎に関する遺品が多い。現在も方丈には「永源庵」と「正伝院」の二つの扁額架かっています。
スタンプラリー接待箇所で、「ここから近い清水店はコロナ禍で中止になった」と聞きましたが、元々そちらには行かないので問題ありません。表門の正面は「庫裏」が・・・。
その庫裏の左手に「中門」があり、そちらを潜ります。
入ると左手(南側)に「細川石」と書かれた大きな石碑があります。この正伝永源院は、熊本細川家とゆかりがあるんですね。
熊本藩主・細川家の菩提寺が「永源庵」で、明治に入り廃仏毀釈により「永源」の名が消えることを憂した細川侯爵が名を残すことを希望され、「正伝永源院」となった経緯がありました。
北側を見ると「織田有楽斎の墓」があります。有楽斎は織田信長の弟で、長益と号した。信長の死後、剃髪し、千利休に師事して茶道の宗匠となり、茶道三昧の生活を送ったが1621年(元和7年)71歳で没した。
お隣が「織田有楽斎夫人の墓(雲仙院)」です。平手政秀の娘だとか。政秀は、「信長の奇行を憂い、自身の死で諌めるため」との美談として有名ですね。
次に有楽斎の孫「織田長好の墓」(右)と、関白「一条昭良室の墓」(左)です。
有樂斎の次男・織田頼長の長男として生れ織田長好と称しました。江戸時代は、茶人として有楽流を継承し活躍したそうです。また、頼長の長女は、関白・一条昭良の妻となりました。有楽斎の墓は正伝院の移転後も旧地に残っていましたが、1962年(昭和37年)秋、織田有楽斎、その夫人、娘、孫の三基の墓はともにここに移されたようですね。
久々のため、このエリアは忘れてました。次に「唐門」を入って、いよいよ方丈に上がります。
くぐると、1組2名の方が出ていかれ、方丈には5名程度の団体さんでしょうか来られてました。ただ、こちらも直ぐに出て行かれたので、私が出るまで独占でした・・・ただ、ガイドさん2名は居ましたが。
入ると下駄箱に靴を預け上がります。その下駄箱の奥が、5月頃に躑躅が咲き誇って綺麗なんです。
この時は人はが居たので、ガイドさんより仏間にて「案内しますけど」と言われましたが、随分前ですが聞いたことがあるので、断りました。聞くと庭に降りても良いとのことで、スリッパに履き替え茶室「如庵」に向かいました。
本物の国宝「如庵」は名鉄犬山ホテル敷地内にあります。こちらは写しですが、本物まで見に行くには遠すぎますね。
注意書きに、「庭の苔を踏まないように」とあったので、注意して飛び石をつたって茶室まで来ました。以前は、撮影禁止だった茶室内が撮影OKとなってます。来て良かったです。
以前、案内で聞いた壁に古い暦を貼っているのが見えます。このことから別名「暦張席」で知られているようです。「有楽囲」「有楽窓」など有楽斎好みの特徴を見ることができました。
先に来られていた人らが帰られたので、次に「方丈」を見て回ります。
「永源庵」と「正伝院」の二つの扁額がかかる方丈内は、仏間のみ撮影禁止でした。ただ以前は撮れたので写真が残っています。
こちらの襖絵は複製ではなく、本物の狩野山楽筆「蓮鷲図(れんろず)」です。向かって右から蓮の蕾から開花、そして散ってしまう模様が描かれていました。
堂内にあった「織田有楽斎像」です。2011年(平成23年)に財団法人住友財団の援助により修復されたと書かれてました。
この正伝永源院は細川家の菩提寺で、その縁で細川護煕元首相が奉納した襖絵「知音(ちいん)」がお隣の部屋にありました。京都の東山の桜が描かれています。
庭を見ていたら、「方丈の西側にも部屋があるので見て行ってください」と言われたので向かいます。そんな事、すっかり忘れてました。
こちらの部屋にも細川護煕元首相が奉納された襖絵がありました。「聴雪(ちょうせつ)」と題し、冬の京都の模様が描かれています。
この部屋には狩野洞雲(益信)筆「観音図・雲龍図・虎図」の三幅対の軸など寺宝が展示されてましたが、ことらは撮影禁止でした。
最後の部屋は、何も書かれて無いので分かりません。写真だけ撮っておきました。
以前、来た時には無かった「武野紹鴎(たけの じょうおう)供養塔」が庭園の中にありました。
武野紹鴎は堺の承認で千利休の師としても知られている。25回忌にあたる1579年(天正7年)娘婿で弟子の今井宗久が堺の寺に供養塔を建立。江戸時代初期に、茶人であった織田有楽斎が隠棲していた正伝院の境内に移した記録が残る。しかし、明治初期の神仏分離令で正伝院の土地が没収され、供養塔も1916年(大正5年)に藤田家が入手。その藤田家の邸宅跡地「太閤園」に置かれていたが、2021年(令和3年)春、運営していた藤田観光が太閤園を売却したのを機に約100年振りに、正伝永源院に戻すことになった。奇しくも有楽斎没後400年の節目でした。
帰りに「鐘楼」や「鎮守社」など見てから10時40分頃に出て行きました。
こちらが受付で、いただいた御朱印で2種類ありました。ともに書き置きのみです。
このあと、懐かしの建仁寺に行こうと北門に向かう角にも看板がありました。
ここで、まさかの事件が・・・?。いつも定期入れの中にいれてある無料バスで入れるカードがありません。唖然・・・入れ忘れてました。それで予定を変更し、ある所を目指すことに・・・。
【建仁寺 正伝永源院】
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