豊臣秀吉の妻 北政所ねね終焉の地 圓徳院へ
建仁寺に入り損ねたので、次に高台寺か圓徳院に行ってみようと思い、高台寺西側の石畳「ねねの道」を歩いていると圓徳院の前を通ったので、速効でこちらに決めました。
「ねねの道」も電柱が無く、風情ある石畳になりました。
圓徳院の正門は「長屋門」となっています。ここには2013年(平成25年)8月30日と2017年(平成29年)3月17日に来てるので久しぶりの訪問です。
豊臣秀吉没後その妻北政所ねねは、高台寺の建立を発願し、1605年(慶長10年)秀吉との思い出深い伏見城の化粧御殿と前庭をこの地に移築して移り済んだ。ねねは、77歳で没するまでの19年間、この地で余生を送り、その間北政所を慕い大名、禅僧、茶人、歌人、画家、陶芸家等が訪れ、この地はねねの終焉の地となった。圓徳院は、ねねの没後9年目の1633年(寛永9年)、甥の木下利房(備中国足守2代目藩主)が、高台寺の三江和尚を開基に、木下家の菩提寺として開いた寺である。方丈は創建時のもので、内部の襖には、長谷川等伯の32面の水墨画が描かれ、国の重要文化財に指定されている。化粧御殿跡前庭は、伏見城より移した庭石や枯滝の石組みが配された豪華なもので、桃山時代の枯山水庭園の様式を伝え、国の名勝に指定されている。また、境内に奉祀されている三面大黒天像は、豊臣秀吉の守り本尊であり、今日でも多くの信仰を集めている。
10時55分に着きました。次の予定があるので、11時20分頃には出て行く必要がありますが、看板には撮影OKと出てるので安心して写真撮れそうです。それと何やらお札が・・・?。
「長屋門」も入ると左手に拝観受付所があって、拝観料500円を納めます。高台寺との共通券もありますが、時間が無いので、ここだけにしました。次に「唐門」を潜りますが、その前に、ご住職からと言って・・・?。
「新型コロナ退散御朱印」を無料で配られていたので、帰ってから朱印帳に貼らさせて貰いました。
唐門を入り右手に「秀吉好みの手水鉢」があります。豊臣秀吉が西尾家(今川義元の親戚)に世話になったお礼として贈ったもので、後に西尾家から圓徳院に寄贈されたものです。
そのまま奥に進むと「方丈」が見えてきて玄関から靴を袋に入れ上がります。ここは一方通行のため戻ってきません。
この「南庭」は、現代の名作庭家の北山安夫氏の監修によるもとだそうです。ずっと以前ですが、この時はここで案内がありました。
ご本尊は釈迦如来立像で、襖絵は「長谷川等伯の障壁画」が入ってましたが、現在は豊臣秀吉公を白龍として描いた室中襖絵「白龍」で、赤松燎画伯遺作です。
長谷川等伯の障壁画は、襖絵すべて桐紋襖の上に描かれた非常に珍しいものだそうです。「夏の絵」「冬の絵」など32面を所蔵さてれてますが、見られないのは残念です。
次に「上間の間」を覗くと、秀吉公好みの金箔襖「雪月花」吉村正画伯の襖絵でした。金箔が綺麗です。
次に細い廊下の先にある「下間の間」に移動し、こちらも秀吉公好みの金箔襖「松竹梅」木下育應画伯作を見ました。
狭い路地に、路面には石畳が敷き詰められ、両側には町屋が並び、京都らしい風情の「石塀小路」を、ここでは上から見られます。
この手前に収蔵庫があったんですが、スルーしてしまいました。この先に「土蔵」があって、こちらもガラス越しで見られる展示室でした。
主な展示品は、「螺鈿香炉台」「高台寺蒔絵硯箱」「木下利房像」・・・ねねの甥にあたる(ねねの実兄木下家定の次男)。
次に渡り廊下を通って、元々伏見城の化粧御殿を移築したと伝わる「書院」に入ります。
入口に「宗旦狐」が出迎えてくれました。江戸時代御所周辺に出没した古狐。茶の湯の宗匠に化けて、茶会に出たり僧侶に化けたりしたという。
その先の「照顧脚下(しょうこきゃっか)」と書かれた文字が気になりましたが、このまま奥に進みます。
照顧脚下・・・「禅宗の言葉で、他人の批判をする前に、自分の過去の言動を見つめ直して、よく考えるべきであるという自己反省の教え。または、身近なことこそ気をつけるべきという戒め。」
この圓徳院での見所である北庭の前に、手前の「歌仙の間」に入りました。
歌仙の間を出て、広い「書院」に腰を下ろして「北庭」を眺めました。現在は中止されてますが、ここで抹茶とお菓子をいただきたいですね。
伏見城で北政所ねねが住んでいた化粧御殿とその前庭を、ここに移築され、ねねは余生をくらました。伏見城にあった時は水が張られている池泉回遊式庭園だったようです。
重厚にして豪華の北庭は、深い枯池に鶴島・亀島を配し、南岸から亀島には切石橋が渡され、さらに亀島から鶴島、鶴島から北東岸へは巨大な自然石の橋が架かる。巨石をふんだんに使った石組、巨大な石橋の量感に圧倒されるのは、天下人秀吉配下の大名が、自分の地所から選りすぐり巨大な天然石を寄進したからです。中央の三ツ並んだ石が「三尊石」で、三体の仏様に見立ています。
現在は、コロナ禍のため入れませんが「小間の茶席」が見えます。茶席の手前が「檜垣の手水鉢」と呼ばれています。
書院にある「豊臣秀吉像」です。ここには秀吉の人物像が書かれてました。あまりにも有名で、もういいかなぁ・・・と。
尾張生まれ、初め姓は無く、木下姓から羽柴性へと、そして豊臣姓を賜姓(しせい)され本姓とした。俗に「人たらし」と称され、その懐柔力が知られ政務・軍略においても優れていたため織田家で頭角を現した。明智光秀の「本能寺の変」において、信長公の敵討ちを果たしたことから発言権が高まり、ついて織田家中をおさめ、天下人として関白・太閤に出世した。秀吉が生涯守り本尊とした「三面大黒天像」は、秀吉没後、正室の北政所ねねが後継し、圓徳院にて祀られている。
同じ書院にあった「北政所ねね像」です。秀吉とは当時珍しい恋愛結構で結ばれ、生涯良きパートナーでした。秀吉没後は大坂城を離れ、その弔いのために高台寺を建立し、圓徳院のこの場所で余生を過ごしました。親しみやすい人柄から、多くの公家衆・大名婦人・文化人が圓徳院を訪れたそうです。享年77歳。
11時15分に誰も居ない圓徳院の書院を出て行きました。
袋に入れていた靴を履き、最後に北庭を撮りました。
北庭を出ると、そこには京都御苑から移築された「三面大黒天堂」があったので寄って行きます。
秀吉の出世守り本尊「三面大黒天」は、珍しく大黒天、毘沙門天、弁財天の三天合体の尊像です。
三面大黒天堂のお隣には手水舎もあり、さらに、その横には・・・?。
「歌仙堂」がありました。北政所ねねの甥で歌聖として知られる初め龍野城主で、若狭小浜城主の木下勝俊(出家して長嘯子)を祀っています。
11時20分に圓徳院を出て、今日の目的地である予約しているレストランに向かいました。
【圓徳院】
「ねねの道」も電柱が無く、風情ある石畳になりました。
圓徳院の正門は「長屋門」となっています。ここには2013年(平成25年)8月30日と2017年(平成29年)3月17日に来てるので久しぶりの訪問です。
豊臣秀吉没後その妻北政所ねねは、高台寺の建立を発願し、1605年(慶長10年)秀吉との思い出深い伏見城の化粧御殿と前庭をこの地に移築して移り済んだ。ねねは、77歳で没するまでの19年間、この地で余生を送り、その間北政所を慕い大名、禅僧、茶人、歌人、画家、陶芸家等が訪れ、この地はねねの終焉の地となった。圓徳院は、ねねの没後9年目の1633年(寛永9年)、甥の木下利房(備中国足守2代目藩主)が、高台寺の三江和尚を開基に、木下家の菩提寺として開いた寺である。方丈は創建時のもので、内部の襖には、長谷川等伯の32面の水墨画が描かれ、国の重要文化財に指定されている。化粧御殿跡前庭は、伏見城より移した庭石や枯滝の石組みが配された豪華なもので、桃山時代の枯山水庭園の様式を伝え、国の名勝に指定されている。また、境内に奉祀されている三面大黒天像は、豊臣秀吉の守り本尊であり、今日でも多くの信仰を集めている。
10時55分に着きました。次の予定があるので、11時20分頃には出て行く必要がありますが、看板には撮影OKと出てるので安心して写真撮れそうです。それと何やらお札が・・・?。
「長屋門」も入ると左手に拝観受付所があって、拝観料500円を納めます。高台寺との共通券もありますが、時間が無いので、ここだけにしました。次に「唐門」を潜りますが、その前に、ご住職からと言って・・・?。
「新型コロナ退散御朱印」を無料で配られていたので、帰ってから朱印帳に貼らさせて貰いました。
唐門を入り右手に「秀吉好みの手水鉢」があります。豊臣秀吉が西尾家(今川義元の親戚)に世話になったお礼として贈ったもので、後に西尾家から圓徳院に寄贈されたものです。
そのまま奥に進むと「方丈」が見えてきて玄関から靴を袋に入れ上がります。ここは一方通行のため戻ってきません。
この「南庭」は、現代の名作庭家の北山安夫氏の監修によるもとだそうです。ずっと以前ですが、この時はここで案内がありました。
ご本尊は釈迦如来立像で、襖絵は「長谷川等伯の障壁画」が入ってましたが、現在は豊臣秀吉公を白龍として描いた室中襖絵「白龍」で、赤松燎画伯遺作です。
長谷川等伯の障壁画は、襖絵すべて桐紋襖の上に描かれた非常に珍しいものだそうです。「夏の絵」「冬の絵」など32面を所蔵さてれてますが、見られないのは残念です。
次に「上間の間」を覗くと、秀吉公好みの金箔襖「雪月花」吉村正画伯の襖絵でした。金箔が綺麗です。
次に細い廊下の先にある「下間の間」に移動し、こちらも秀吉公好みの金箔襖「松竹梅」木下育應画伯作を見ました。
狭い路地に、路面には石畳が敷き詰められ、両側には町屋が並び、京都らしい風情の「石塀小路」を、ここでは上から見られます。
この手前に収蔵庫があったんですが、スルーしてしまいました。この先に「土蔵」があって、こちらもガラス越しで見られる展示室でした。
主な展示品は、「螺鈿香炉台」「高台寺蒔絵硯箱」「木下利房像」・・・ねねの甥にあたる(ねねの実兄木下家定の次男)。
次に渡り廊下を通って、元々伏見城の化粧御殿を移築したと伝わる「書院」に入ります。
入口に「宗旦狐」が出迎えてくれました。江戸時代御所周辺に出没した古狐。茶の湯の宗匠に化けて、茶会に出たり僧侶に化けたりしたという。
その先の「照顧脚下(しょうこきゃっか)」と書かれた文字が気になりましたが、このまま奥に進みます。
照顧脚下・・・「禅宗の言葉で、他人の批判をする前に、自分の過去の言動を見つめ直して、よく考えるべきであるという自己反省の教え。または、身近なことこそ気をつけるべきという戒め。」
この圓徳院での見所である北庭の前に、手前の「歌仙の間」に入りました。
歌仙の間を出て、広い「書院」に腰を下ろして「北庭」を眺めました。現在は中止されてますが、ここで抹茶とお菓子をいただきたいですね。
伏見城で北政所ねねが住んでいた化粧御殿とその前庭を、ここに移築され、ねねは余生をくらました。伏見城にあった時は水が張られている池泉回遊式庭園だったようです。
重厚にして豪華の北庭は、深い枯池に鶴島・亀島を配し、南岸から亀島には切石橋が渡され、さらに亀島から鶴島、鶴島から北東岸へは巨大な自然石の橋が架かる。巨石をふんだんに使った石組、巨大な石橋の量感に圧倒されるのは、天下人秀吉配下の大名が、自分の地所から選りすぐり巨大な天然石を寄進したからです。中央の三ツ並んだ石が「三尊石」で、三体の仏様に見立ています。
現在は、コロナ禍のため入れませんが「小間の茶席」が見えます。茶席の手前が「檜垣の手水鉢」と呼ばれています。
書院にある「豊臣秀吉像」です。ここには秀吉の人物像が書かれてました。あまりにも有名で、もういいかなぁ・・・と。
尾張生まれ、初め姓は無く、木下姓から羽柴性へと、そして豊臣姓を賜姓(しせい)され本姓とした。俗に「人たらし」と称され、その懐柔力が知られ政務・軍略においても優れていたため織田家で頭角を現した。明智光秀の「本能寺の変」において、信長公の敵討ちを果たしたことから発言権が高まり、ついて織田家中をおさめ、天下人として関白・太閤に出世した。秀吉が生涯守り本尊とした「三面大黒天像」は、秀吉没後、正室の北政所ねねが後継し、圓徳院にて祀られている。
同じ書院にあった「北政所ねね像」です。秀吉とは当時珍しい恋愛結構で結ばれ、生涯良きパートナーでした。秀吉没後は大坂城を離れ、その弔いのために高台寺を建立し、圓徳院のこの場所で余生を過ごしました。親しみやすい人柄から、多くの公家衆・大名婦人・文化人が圓徳院を訪れたそうです。享年77歳。
11時15分に誰も居ない圓徳院の書院を出て行きました。
袋に入れていた靴を履き、最後に北庭を撮りました。
北庭を出ると、そこには京都御苑から移築された「三面大黒天堂」があったので寄って行きます。
秀吉の出世守り本尊「三面大黒天」は、珍しく大黒天、毘沙門天、弁財天の三天合体の尊像です。
三面大黒天堂のお隣には手水舎もあり、さらに、その横には・・・?。
「歌仙堂」がありました。北政所ねねの甥で歌聖として知られる初め龍野城主で、若狭小浜城主の木下勝俊(出家して長嘯子)を祀っています。
11時20分に圓徳院を出て、今日の目的地である予約しているレストランに向かいました。
【圓徳院】
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