江戸時代の文人石川丈山が隠棲のため建立した詩仙堂へ
5月19日(木)は、この日に帰省する東京の家族のお土産を買いに「一乗寺 中谷」に行くつもりで、その買い物の前に久し振りに詩仙堂に行きました。詩仙堂には2005年(平成17年)11月28日と2010年(平成22年)6月5日に来て以来、本当に久し振りの訪問です。
ここに行くことを思いついたのは、毎朝拝聴しているKBS京都「笑福亭晃瓶のほっかほかラジオ」のパーソナリティである中村薫さんが主催されている「薫の京都ぶらぶら歩き」でした。薫さんが一乗寺界隈の青モミジを5月15日(日)と16日(月)に会費3000円で参加募集されてて、一乗寺下り松、金福寺、詩仙堂、八大神社、圓光寺を散策されると聞き、久しく行ってないなぁ・・・と思いついた訳です。それで東京から家族が帰ってくるので、土産物の事もあるので、この日に行くことになりました。
詩仙堂には、叡山電鉄本線「出町柳駅」を8時36分に出る鞍馬行きに乗りますが、叡山電鉄も久し振りのため、事前に調べておきました。ワンマンカーで、降りる時は前の車両から、後ろの車両のドアは開かないようです。それで、出町柳駅で1両車に乗り一乗寺で、運転席側から降車した訳です。8時41分に降り、そこから詩仙堂まで緩やかな坂をゆっくり歩いて行きました。
8時51分に「一乗寺下り松」の前を通りました。宮本武蔵・吉岡一門の決闘で知られています。中学生の同級生と、ここまで自転車で見に来ました。二人とも宮本武蔵の漫画を読んで無謀にも、ここまで見に来た訳です。
ナビも無い時代に壬生寺の近くから、こんな所まで来たんですが、道順なんか全く記憶がありません。
次に、その先にあるのが「八大神社一の鳥居」があります。今日は八大神社には行きません。
8時56分に着くと、「小有洞(しょうゆうどう)の門」は開いてました。
「小有洞の門」をくぐると暫く石畳が続き、再び石段を上がると中門の「老梅関(ろうばいかん)の門」に出会います。
門を入ると正面に「嘯月楼(しょうげつろう)」が見えます。
拝観受付所は、その横の玄関から入ります。そこで拝観料500円と御朱印代金300円を納めます。朱印は書き置きのみだそうです。
詩仙堂は、正しくは、六六山(ろくろくざん)詩仙堂丈山(しせんどうじょうざん)寺と号する曹洞宗大本山永平寺の末寺院である。詩仙堂は、江戸時代の文人石川丈山(いしかわじょうざん)が59歳の1641年(寛永18年)隠棲のため建立した山荘で、凹凸窠(おうとつか)とも呼ばれている。凹凸窠とは、でこぼこした土地に建てた住居という意味です。丈山は、三河国(愛知県)の人で、徳川家康に仕えていたが、禄を辞して京都に住み、詩作に励むとともに林羅山ら一流の文化人とも交わり、茶道においては奥義を極めた。晩年は当地で悠々自適の生活を行い、1672年(寛文12年)89歳で没した。 建物は、詩仙堂、嘯月楼(ちょうげつろう)など十の区画からなり、詩仙堂には、狩野探幽(かのうたんゆう)に書かせた中国の三十六詩人の肖像と詩を描いた額が掲げられている。庭園は、東には滝を、前庭には躑躅、皐月の苅込みを配した枯山水庭園で、庭の奥からの丈山愛好の僧都(そうず)(鹿おどし)の音が風情を添えている。
拝観順路を進むと、詩仙堂のご本尊である馬郎婦観音(めろうふかんのん)が祀られておりお参りします。
余談ですが、ATMで小銭を出し入れすると手数料が必要となったので、お賽銭に使うようになりました。物を買うときも、釣り銭貰わずになるべく小銭を使うようにしています。
先ずは「書院」に入ります。ここから南面に広がる庭園を見ることができます。
書院には先に4名の方が入られてて、写真を撮られてました。
前面に白砂を敷き詰め、サツキの刈り込みの築山が低く配されています。サツキは咲き始めてました。まもなくピンクに染まるでしょうね。
書院には掛け軸が架かってて、「福禄壽(丈山書)」とありました。
こちらは「凹凸窠」と書かれた上には「七ヶ条の覚 (丈山書)」が展示されてました。
皆さん、書院の後方から写真を撮られているので、ここは後回しにして、お隣の部屋に移動します。
こちらは「詩仙の間」と言います。2005年(平成17年)11月28日と2010年(平成22年)6月5日に来た時は、撮影禁止でしたが解禁されたようです。
この「詩仙の間」では、四方の壁に中国の漢晋唐宋の詩家36人の肖像を狩野探幽に書かせて「三十六詩仙」が架かっています。
また、こちらは伏見桃山城の欄間に架かっていた、左甚五郎作「壁間彫物」が展示されていました。
次が「至楽巣(しらくそう)」で、ここから庭にスリッパを履いて散策します。
庭に降りたのは、私が最初でした。この先には誰も居ないので、庭園をゆっくり散策です。
最初に見るのは凹凸窠の十境に見立てた一つである「洗蒙瀑(せんもうばく)」でした。こちらは創建当時からある滝で、蒙昧を洗うという意味だそうです。
サツキの刈り込み越しに「嘯月楼」を見上げています。刈り込みが高いので、庭園から書院が見えないようになっています。
石段を降りると「僧都(そうず)(鹿おどし)」がありました。先程からカーンと鳴っていたのはこれでした。
久し振りに来たので、ここの庭園がこんなに奥行きがあったのかなぁ・・・と思いながら先に進みます。
先程の「洗蒙瀑」から流れてくる水を「流葉陌(りゅうようはく)」と呼び、池にそそがれています。
詩仙堂の下段にある庭園を「百花塢(ひゃっかのう)」と呼ばれています。塢は土手の意味、丈山は花を愛し、多くの花を持ち込みました。
百花塢の北に植栽に囲まれて建つ茶室「残月軒」です。昭和に入って建てられたものです。
残月軒の西側には坐禅堂「十方明峰閣(じゅぽうめいほうかく)」が建っています。
その前庭は現代の作庭。1966年(昭和41年)から曹洞宗の寺院となったからです。
これ以上は行けないので、石段を上がって戻ります。ここにはカキツバタが咲いていました。
そろそろ後続の方も庭に降りて来られてきました。戻るときに池を見ると錦鯉が泳いでます。
今日はサツキが咲き始めてましたが、まもなくピンク色に染まりそうです。ここから至楽巣に戻り上がりました。
こちらが、いただいた御朱印です。前途したとおり書き置きのみ用意されています。
入口まで戻ると丈山が残した「六勿銘(ろっこつめい)」が掲げられています。火の用心・戸締まり用心・早起き・粗食・倹約・掃除といった6つの戒めが書かれているようです。
受付の前を通って出ようとしたら、奥に「おくどさん」があったので、見てみました。
帰りに気づいた、右手にあった「躍淵軒(やくえんけん)」は、案内では侍童(じどうの間)とありました。
9時13分に「小有洞(しょうゆうどう)の門」から出て行きました。ここから京都市街地が見えます。叡山電鉄「一乗寺駅」を出て、これだけ登ってきたわけです。
次は、ここから直ぐの道を右折し圓光寺に向かいます。
【詩仙堂】
ここに行くことを思いついたのは、毎朝拝聴しているKBS京都「笑福亭晃瓶のほっかほかラジオ」のパーソナリティである中村薫さんが主催されている「薫の京都ぶらぶら歩き」でした。薫さんが一乗寺界隈の青モミジを5月15日(日)と16日(月)に会費3000円で参加募集されてて、一乗寺下り松、金福寺、詩仙堂、八大神社、圓光寺を散策されると聞き、久しく行ってないなぁ・・・と思いついた訳です。それで東京から家族が帰ってくるので、土産物の事もあるので、この日に行くことになりました。
詩仙堂には、叡山電鉄本線「出町柳駅」を8時36分に出る鞍馬行きに乗りますが、叡山電鉄も久し振りのため、事前に調べておきました。ワンマンカーで、降りる時は前の車両から、後ろの車両のドアは開かないようです。それで、出町柳駅で1両車に乗り一乗寺で、運転席側から降車した訳です。8時41分に降り、そこから詩仙堂まで緩やかな坂をゆっくり歩いて行きました。
8時51分に「一乗寺下り松」の前を通りました。宮本武蔵・吉岡一門の決闘で知られています。中学生の同級生と、ここまで自転車で見に来ました。二人とも宮本武蔵の漫画を読んで無謀にも、ここまで見に来た訳です。
ナビも無い時代に壬生寺の近くから、こんな所まで来たんですが、道順なんか全く記憶がありません。
次に、その先にあるのが「八大神社一の鳥居」があります。今日は八大神社には行きません。
8時56分に着くと、「小有洞(しょうゆうどう)の門」は開いてました。
「小有洞の門」をくぐると暫く石畳が続き、再び石段を上がると中門の「老梅関(ろうばいかん)の門」に出会います。
門を入ると正面に「嘯月楼(しょうげつろう)」が見えます。
拝観受付所は、その横の玄関から入ります。そこで拝観料500円と御朱印代金300円を納めます。朱印は書き置きのみだそうです。
詩仙堂は、正しくは、六六山(ろくろくざん)詩仙堂丈山(しせんどうじょうざん)寺と号する曹洞宗大本山永平寺の末寺院である。詩仙堂は、江戸時代の文人石川丈山(いしかわじょうざん)が59歳の1641年(寛永18年)隠棲のため建立した山荘で、凹凸窠(おうとつか)とも呼ばれている。凹凸窠とは、でこぼこした土地に建てた住居という意味です。丈山は、三河国(愛知県)の人で、徳川家康に仕えていたが、禄を辞して京都に住み、詩作に励むとともに林羅山ら一流の文化人とも交わり、茶道においては奥義を極めた。晩年は当地で悠々自適の生活を行い、1672年(寛文12年)89歳で没した。 建物は、詩仙堂、嘯月楼(ちょうげつろう)など十の区画からなり、詩仙堂には、狩野探幽(かのうたんゆう)に書かせた中国の三十六詩人の肖像と詩を描いた額が掲げられている。庭園は、東には滝を、前庭には躑躅、皐月の苅込みを配した枯山水庭園で、庭の奥からの丈山愛好の僧都(そうず)(鹿おどし)の音が風情を添えている。
拝観順路を進むと、詩仙堂のご本尊である馬郎婦観音(めろうふかんのん)が祀られておりお参りします。
余談ですが、ATMで小銭を出し入れすると手数料が必要となったので、お賽銭に使うようになりました。物を買うときも、釣り銭貰わずになるべく小銭を使うようにしています。
先ずは「書院」に入ります。ここから南面に広がる庭園を見ることができます。
書院には先に4名の方が入られてて、写真を撮られてました。
前面に白砂を敷き詰め、サツキの刈り込みの築山が低く配されています。サツキは咲き始めてました。まもなくピンクに染まるでしょうね。
書院には掛け軸が架かってて、「福禄壽(丈山書)」とありました。
こちらは「凹凸窠」と書かれた上には「七ヶ条の覚 (丈山書)」が展示されてました。
皆さん、書院の後方から写真を撮られているので、ここは後回しにして、お隣の部屋に移動します。
こちらは「詩仙の間」と言います。2005年(平成17年)11月28日と2010年(平成22年)6月5日に来た時は、撮影禁止でしたが解禁されたようです。
この「詩仙の間」では、四方の壁に中国の漢晋唐宋の詩家36人の肖像を狩野探幽に書かせて「三十六詩仙」が架かっています。
また、こちらは伏見桃山城の欄間に架かっていた、左甚五郎作「壁間彫物」が展示されていました。
次が「至楽巣(しらくそう)」で、ここから庭にスリッパを履いて散策します。
庭に降りたのは、私が最初でした。この先には誰も居ないので、庭園をゆっくり散策です。
最初に見るのは凹凸窠の十境に見立てた一つである「洗蒙瀑(せんもうばく)」でした。こちらは創建当時からある滝で、蒙昧を洗うという意味だそうです。
サツキの刈り込み越しに「嘯月楼」を見上げています。刈り込みが高いので、庭園から書院が見えないようになっています。
石段を降りると「僧都(そうず)(鹿おどし)」がありました。先程からカーンと鳴っていたのはこれでした。
久し振りに来たので、ここの庭園がこんなに奥行きがあったのかなぁ・・・と思いながら先に進みます。
先程の「洗蒙瀑」から流れてくる水を「流葉陌(りゅうようはく)」と呼び、池にそそがれています。
詩仙堂の下段にある庭園を「百花塢(ひゃっかのう)」と呼ばれています。塢は土手の意味、丈山は花を愛し、多くの花を持ち込みました。
百花塢の北に植栽に囲まれて建つ茶室「残月軒」です。昭和に入って建てられたものです。
残月軒の西側には坐禅堂「十方明峰閣(じゅぽうめいほうかく)」が建っています。
その前庭は現代の作庭。1966年(昭和41年)から曹洞宗の寺院となったからです。
これ以上は行けないので、石段を上がって戻ります。ここにはカキツバタが咲いていました。
そろそろ後続の方も庭に降りて来られてきました。戻るときに池を見ると錦鯉が泳いでます。
今日はサツキが咲き始めてましたが、まもなくピンク色に染まりそうです。ここから至楽巣に戻り上がりました。
こちらが、いただいた御朱印です。前途したとおり書き置きのみ用意されています。
入口まで戻ると丈山が残した「六勿銘(ろっこつめい)」が掲げられています。火の用心・戸締まり用心・早起き・粗食・倹約・掃除といった6つの戒めが書かれているようです。
受付の前を通って出ようとしたら、奥に「おくどさん」があったので、見てみました。
帰りに気づいた、右手にあった「躍淵軒(やくえんけん)」は、案内では侍童(じどうの間)とありました。
9時13分に「小有洞(しょうゆうどう)の門」から出て行きました。ここから京都市街地が見えます。叡山電鉄「一乗寺駅」を出て、これだけ登ってきたわけです。
次は、ここから直ぐの道を右折し圓光寺に向かいます。
【詩仙堂】
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