青モミジが美しい 臨済宗南禅寺派 瑞巌山 圓光寺へ
詩仙堂を出て、次に青モミジが綺麗な圓光寺に行きました。こちらは2017年(平成29年)5月3日に来て以来です。最初に2005年(平成17年)11月28日に見事な紅葉を見に来ましたが、この頃は、そんなに多くの拝観者じゃありませんでしたが、すっかり有名になってしまって・・・それから混雑に嫌気をさして、それ以来来ていません。あと2010年(平成22年)6月5日にも来ているので、今日で4回目の訪問です。
9時15分に「山門」前に着きました。
圓光寺は、臨済宗南禅寺派の寺院で、開山は、三要元佶(さんようげんきつ)(閑室)禅師、開基は徳川家康。1601年(慶長6年)徳川家康は、国内数学の発展を図るため、下野足利学校九代学頭・三要元佶(閑室)禅師を招き、伏見に圓光寺を建立し学校とし、僧俗を問わず入学を許した。また、圓光寺学校が開かれると、僧俗を問わず入学を許し、また孔子家語・貞観政要など多くの書籍を刊行し、これらの書物は伏見版または圓光寺版と称された。圓光寺には、出版に使用された木活字が現存しており、我が国出版文化史上特筆すべき寺院であった。その後、圓光寺には相国寺山内に移り、さらに1667年(寛文7年)に現在の一乗寺に移転された。堂内には、本尊千手観音像(伝運慶作)、日本最古の木製活字五万千個(重文)、竹林図屏風六曲(円山応挙作・重文)などがある。庭園は山門を上がると枯山水の奔龍庭(ほんりゅうてい)が広がり、さらに中門を抜けると苔と紅葉の美しい十牛之庭がある。円山応挙の描いた竹林、水琴窟、栖龍池(せいりゅうち)とともに洛北の静寂さを醸し出している。また境内には徳川家康公の歯を埋葬した東照宮、花の生涯のヒロイン村山たか女、南方特別留学生サイド・オマール氏の墓がある。
山門を入って右手に拝観受付所があって拝観料500円と御朱印代金300円を納め参道を進みます。
石段を上がった突き当たりには「十一面観音立像」が祀られています。
石段を上がると枯山水の奔龍庭(ほんりゅうてい)が広がっています。
奔龍庭は渦を巻き、様々な流れを見せる白砂を雲海に見立て、天空を自在に奔る龍を石組みであらわした枯山水庭園で、伏見の藤井造園さんが作庭しました。
庭園に入る前に「玄関襖絵」を見ました。作家さんの名前は書いてありません。案内には「琳派彩還(りんぱさいげん)」とありました。
この門を入ると庭園が広がっています。入ると数人はするだろうなぁ・・・と思ってましたが、予想外の光景が・・・?。
結婚式前撮りでしょうか、方丈内で写真を撮られています。せっかく来たのに残念ですが、方丈は後回しにして庭園を巡ることに・・・。
方丈で結婚式前撮りされているので、その方丈前から「十牛之庭」を撮りました。新緑綺麗ですね。
方丈の南面に広がる枯山水庭園を「十牛之庭」と呼ばれています。サツキの刈り込みとモミジが植え込まれて疎林となし、苔庭の東側には「臥牛石」と名付けられた巨石を伏せ、これを基点にして西側に大小の庭石を巧みに配してあります。
方丈の奥に「坐禅堂」があったので覗いてみました。ここは臨済宗南禅寺派の寺院でしたね。
坐禅堂から見た「方丈」です。結婚式前撮りされています。
方丈前から十牛之庭を撮りながら歩きます。評判通り青モミジ綺麗です。
綺麗な青モミジを見ながら歩いて行くと「栖龍池(せいりゅうち)」が見えて来ました。
鳥の鳴き声しか聞こえない静寂のなか、栖龍池を抜けて石段を上がります。
左手には「鐘楼」が、右手には・・・?。
拝観受付所でいただいた由緒書きには「応挙竹林」と書いてあった竹林が広がっていました。
円山応挙がよく通った竹林があって、そのモデルとなって描いたとされる「雨竹風竹図屏風」(重文)があって、圓光寺には「瑞雲閣」で複製が展示されています。
竹林抜けるとさらに登ります。こちらには案内にあったように「花の生涯のヒロイン村山たか女、南方特別留学生サイド・オマール氏」の墓に寄って行きます。
前回も来ているので知ってましたが、マレーシア留学生のサイド・オマール氏は、マレーシア王族の出身で広島で被爆。その後、京都にて死去されました。
武者小路実篤が碑文が書いてあったので読みました。「オマール君 君はマレーからはるばる日本の広島に勉強しに来てくれた。それなのに君を迎えたのは原爆だった。嗚呼実に実に残念である。君は君の事を忘れない日本人のあることを記憶していただきたい。」と。
こちらが「村山たか女の墓」とありました。私はNHK大河ドラマ「花の生涯」は知りません。そこで少し調べてみました。
安政の大獄にかかわった井伊直弼の侍女。京都で芸妓(げいぎ)となり、金閣寺住職にひかされ一子をもうける。のち井伊直弼の寵愛をうけ、長野主膳の情報役として安政の大獄の陰で活躍。1862年(文久2年)尊攘派浪士に三条大橋で生きさらしにされ、子の多田帯刀は殺れた。尼として余生をおくり、名を妙寿と改めて洛北金福寺に入ったあと、1876年(明治9年)に亡くなった。
ここから階段を登って、見晴らしの良い展望所まで頑張って行きます。
ここが江戸幕府初代将軍・徳川家康公のお墓です。駒札には東照大権現の墓とありました。
こちらが「東照宮」です。絢爛豪華な派手さは無いですね。
ここから京都市街地を見下ろせるのでお勧めスポットです。ここまで上がって来られる人は少ないです。
眺望を見たあと汗を拭い、ゆっくり階段を降りました。降りると行きには気づかなかった石碑があったので読みました。
「坂道をのぼり来たりて月読の 光あまねきに打たれ佇つかも」国崎 望久太郎(くにさき もくたろう)
再び十牛之庭に戻り方丈に戻ると、ようやく結婚式の前撮りさんたちが出て行ってくれました。
方丈に上がる前に「水琴窟」の音色を聞きました。
ご本尊は、千手観音菩薩坐像(伝運慶作)でお参りさせて貰いました。
ご本尊の向かって左の襖絵は、富岡鉄斎筆「米點(べいてん)山水図」でした。1885年(明治18年)に紅葉の圓光寺を訪れて描いたものです。
向かって右手の襖絵は、渡辺章雄筆「瑞風青栖竹」とありました。
やっと出て行ってくれて、この広い方丈に誰も居なくなりました。
方丈の奥から「十牛之庭」を見ると、青モミジが光っています。綺麗ですね。
庭園側から方丈内を撮りました。裏手にも見所があります。
中には入れませんが「茶室」がありました。
方丈裏の露地庭園も見られました。この先には非公開の茶室「待月庵」があるそうです。
誰も居なくなった方丈内で、ゆっくりさせて貰いました。
後続の方も入って来られたので、ここを出るようにしました。その方の会話が面白かったです。「結婚式の撮影で1時間もおって、さっさと出て行ったらいいのに・・・」と。その通りです。
今日は「瑞雲閣」に入らずに、ここを出て行きました。
9時45分に出て行きました。次は一乗寺界隈で最後の訪問地である金福寺に向かいます。
【圓光寺】
9時15分に「山門」前に着きました。
圓光寺は、臨済宗南禅寺派の寺院で、開山は、三要元佶(さんようげんきつ)(閑室)禅師、開基は徳川家康。1601年(慶長6年)徳川家康は、国内数学の発展を図るため、下野足利学校九代学頭・三要元佶(閑室)禅師を招き、伏見に圓光寺を建立し学校とし、僧俗を問わず入学を許した。また、圓光寺学校が開かれると、僧俗を問わず入学を許し、また孔子家語・貞観政要など多くの書籍を刊行し、これらの書物は伏見版または圓光寺版と称された。圓光寺には、出版に使用された木活字が現存しており、我が国出版文化史上特筆すべき寺院であった。その後、圓光寺には相国寺山内に移り、さらに1667年(寛文7年)に現在の一乗寺に移転された。堂内には、本尊千手観音像(伝運慶作)、日本最古の木製活字五万千個(重文)、竹林図屏風六曲(円山応挙作・重文)などがある。庭園は山門を上がると枯山水の奔龍庭(ほんりゅうてい)が広がり、さらに中門を抜けると苔と紅葉の美しい十牛之庭がある。円山応挙の描いた竹林、水琴窟、栖龍池(せいりゅうち)とともに洛北の静寂さを醸し出している。また境内には徳川家康公の歯を埋葬した東照宮、花の生涯のヒロイン村山たか女、南方特別留学生サイド・オマール氏の墓がある。
山門を入って右手に拝観受付所があって拝観料500円と御朱印代金300円を納め参道を進みます。
石段を上がった突き当たりには「十一面観音立像」が祀られています。
石段を上がると枯山水の奔龍庭(ほんりゅうてい)が広がっています。
奔龍庭は渦を巻き、様々な流れを見せる白砂を雲海に見立て、天空を自在に奔る龍を石組みであらわした枯山水庭園で、伏見の藤井造園さんが作庭しました。
庭園に入る前に「玄関襖絵」を見ました。作家さんの名前は書いてありません。案内には「琳派彩還(りんぱさいげん)」とありました。
この門を入ると庭園が広がっています。入ると数人はするだろうなぁ・・・と思ってましたが、予想外の光景が・・・?。
結婚式前撮りでしょうか、方丈内で写真を撮られています。せっかく来たのに残念ですが、方丈は後回しにして庭園を巡ることに・・・。
方丈で結婚式前撮りされているので、その方丈前から「十牛之庭」を撮りました。新緑綺麗ですね。
方丈の南面に広がる枯山水庭園を「十牛之庭」と呼ばれています。サツキの刈り込みとモミジが植え込まれて疎林となし、苔庭の東側には「臥牛石」と名付けられた巨石を伏せ、これを基点にして西側に大小の庭石を巧みに配してあります。
方丈の奥に「坐禅堂」があったので覗いてみました。ここは臨済宗南禅寺派の寺院でしたね。
坐禅堂から見た「方丈」です。結婚式前撮りされています。
方丈前から十牛之庭を撮りながら歩きます。評判通り青モミジ綺麗です。
綺麗な青モミジを見ながら歩いて行くと「栖龍池(せいりゅうち)」が見えて来ました。
鳥の鳴き声しか聞こえない静寂のなか、栖龍池を抜けて石段を上がります。
左手には「鐘楼」が、右手には・・・?。
拝観受付所でいただいた由緒書きには「応挙竹林」と書いてあった竹林が広がっていました。
円山応挙がよく通った竹林があって、そのモデルとなって描いたとされる「雨竹風竹図屏風」(重文)があって、圓光寺には「瑞雲閣」で複製が展示されています。
竹林抜けるとさらに登ります。こちらには案内にあったように「花の生涯のヒロイン村山たか女、南方特別留学生サイド・オマール氏」の墓に寄って行きます。
前回も来ているので知ってましたが、マレーシア留学生のサイド・オマール氏は、マレーシア王族の出身で広島で被爆。その後、京都にて死去されました。
武者小路実篤が碑文が書いてあったので読みました。「オマール君 君はマレーからはるばる日本の広島に勉強しに来てくれた。それなのに君を迎えたのは原爆だった。嗚呼実に実に残念である。君は君の事を忘れない日本人のあることを記憶していただきたい。」と。
こちらが「村山たか女の墓」とありました。私はNHK大河ドラマ「花の生涯」は知りません。そこで少し調べてみました。
安政の大獄にかかわった井伊直弼の侍女。京都で芸妓(げいぎ)となり、金閣寺住職にひかされ一子をもうける。のち井伊直弼の寵愛をうけ、長野主膳の情報役として安政の大獄の陰で活躍。1862年(文久2年)尊攘派浪士に三条大橋で生きさらしにされ、子の多田帯刀は殺れた。尼として余生をおくり、名を妙寿と改めて洛北金福寺に入ったあと、1876年(明治9年)に亡くなった。
ここから階段を登って、見晴らしの良い展望所まで頑張って行きます。
ここが江戸幕府初代将軍・徳川家康公のお墓です。駒札には東照大権現の墓とありました。
こちらが「東照宮」です。絢爛豪華な派手さは無いですね。
ここから京都市街地を見下ろせるのでお勧めスポットです。ここまで上がって来られる人は少ないです。
眺望を見たあと汗を拭い、ゆっくり階段を降りました。降りると行きには気づかなかった石碑があったので読みました。
「坂道をのぼり来たりて月読の 光あまねきに打たれ佇つかも」国崎 望久太郎(くにさき もくたろう)
再び十牛之庭に戻り方丈に戻ると、ようやく結婚式の前撮りさんたちが出て行ってくれました。
方丈に上がる前に「水琴窟」の音色を聞きました。
ご本尊は、千手観音菩薩坐像(伝運慶作)でお参りさせて貰いました。
ご本尊の向かって左の襖絵は、富岡鉄斎筆「米點(べいてん)山水図」でした。1885年(明治18年)に紅葉の圓光寺を訪れて描いたものです。
向かって右手の襖絵は、渡辺章雄筆「瑞風青栖竹」とありました。
やっと出て行ってくれて、この広い方丈に誰も居なくなりました。
方丈の奥から「十牛之庭」を見ると、青モミジが光っています。綺麗ですね。
庭園側から方丈内を撮りました。裏手にも見所があります。
中には入れませんが「茶室」がありました。
方丈裏の露地庭園も見られました。この先には非公開の茶室「待月庵」があるそうです。
誰も居なくなった方丈内で、ゆっくりさせて貰いました。
後続の方も入って来られたので、ここを出るようにしました。その方の会話が面白かったです。「結婚式の撮影で1時間もおって、さっさと出て行ったらいいのに・・・」と。その通りです。
今日は「瑞雲閣」に入らずに、ここを出て行きました。
9時45分に出て行きました。次は一乗寺界隈で最後の訪問地である金福寺に向かいます。
【圓光寺】
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