与謝蕪村ら近世の俳人の墓や句碑が残る佛日山 金福寺へ

圓光寺を出て、次に金福寺(こんぷくじ)に向かいます。こちらも2005年(平成17年)11月28日に紅葉を見に来て以来来てませんでした。17年も来て無かったので、道順は忘れてました。圓光寺から久し振りに歩いてみると、けっこう距離がありましたね、6分もかかりました。私の記憶では、もっと近かったように覚えていたですが・・・?

IMG_1526.jpg圓光寺から、この看板の通り金福寺に向かいます。私の記憶では、この先すぐの所にあったように思ったですが・・・?。

IMG_1691.jpg道の角には看板が出ているので迷うことはありません。前途したとおり圓光寺から6分で「山門」前に着きました。

佛日山(ぶつにちざん)金福寺(こんぷくじ)は、864年(貞観6年)安恵僧都(あんねそうず)が円仁(慈覚大師)の遺志を継ぎ創建。大師自作の観音像を本尊として安置した。もとは天台宗の寺院でしたが江戸中期に圓光寺の沢雲長老の法嗣鉄舟和尚が再興し、現在は臨済宗南禅寺派となり現在に至っている。松尾芭蕉が鉄舟と親交を深めたという芭蕉庵は荒廃したが、のち与謝蕪村が再興。背後の丘に与謝蕪村ら近世の俳人の墓や句碑がある。また、舟橋聖一作歴史小説「花の生涯」や諸田玲子の「奸婦にあらず」のヒロイン村山たか女は1862年(文久2年)、勤皇の志士によって三条河原でさらし者にされたが、3日後助けられて金福寺に入り尼として1876年(明治9年)まで14年間過ごし、当寺で生涯を終った。本堂では与謝蕪村と村山たか女の遺品が拝観できる。庭園は皐月の築山と白砂の簡素な枯山水。3段の生垣ごしには素朴な趣の芭蕉庵の萱葺き屋根が見える。芭蕉庵からは洛中が一望できる。

IMG_1692.jpg山門」を入って正面に拝観受付所があって、そこは覚えていました。

IMG_1761.jpg山門の左手に村山たか女創建の「辨財天」がありますが、工事中のため拝観停止中です。

拝観料500円で、御朱印代金300円と合わせて納めました。ここから2005年(平成17年)11月28日に来た時は、見事な紅葉が見られました。

IMG_1759.jpgこの門を入ると庭園が見られます。

IMG_1694.jpgIMG_1695.jpgIMG_1696.jpgIMG_1698.jpgここではサツキが咲いてました。久し振りにみる庭園綺麗です。

庭園は、方丈南の書院「残照亭」に南面する枯山水庭園。競り上がるような地形に大小の皐月を配し、境内背後の東山を借景としている。こじんまりした庭は俳味に富む。

IMG_1697.jpg次に石段を上がって上から庭園を見てみます。

IMG_1699.jpgIMG_1700.jpg庭園には先の詩仙堂でお見かけした先客がお一人居ました。上から庭園は後程にして、先を急ぎます。

IMG_1701.jpgIMG_1702.jpg石段を登り切ると右手に「芭蕉庵」、左手に「与謝野蕪村の墓」がありますが、先に芭蕉庵に向かいます。

IMG_1703.jpgこちらが「芭蕉庵」です。ここは以前来たときの記憶が全くありませんでした。

芭蕉庵は鉄舟和尚と親交のあった松尾芭蕉が寺を訪れたゆかりから、芭蕉庵と呼ばれた。のちに庵は荒廃、1781年(天明元年)与謝野蕪村一門が再興。以来、俳句愛好家から親しまれている。

IMG_1704.jpgIMG_1705.jpgIMG_1706.jpg芭蕉庵の事はすっかり忘れてました。帰ってから昔の写真を見て想い出した次第です

IMG_1710.jpgIMG_1712.jpg芭蕉庵には「芭蕉の碑」がありました。蕪村や道立(どうりゅう)が建てたもので芭蕉の生涯を称えた文が刻まれているそうです。

IMG_1714.jpg芭蕉庵をあっさり見て、次に与謝野蕪村の墓に向かいます。

IMG_1716.jpgその前に石碑が点在していたので見て行きます。こちらは「時雨るるや軒の干菜の錣釣(しころづ)」四郎 とありました。

IMG_1717.jpg松村呉春の碑」舎弟の景文が建てた。

IMG_1718.jpgここから石段を上がって行きます。

IMG_1719.jpgこちらは「村山たか女の参り墓」です。村山たか女は金福寺で隠棲してましたが、ここで生涯を閉じました。本墓は圓光寺ですが、末寺であった金福寺には本墓の土を埋め、彼女の筆跡を刻み参り墓とされました。

IMG_1720.jpgその左には「栗色の落葉をいだき かまきりの 今朝のつめたき土にうごかず」(ゆ里)とありました。

IMG_1722.jpgこちらは「穎原退蔵筆塚」です。穎原退蔵(えばらたいぞう)は九州五島の生まれ。京都大学文学部の教授で著書も多く近世文学特に芭蕉、蕪村、徘徊にかんする学問的業績が立派だった。筆塚の文字は新村出先生である。

IMG_1724.jpgさらに登って、こちらの石碑の案内には「青木月斗(あおきげっと)」本名は青木新護、大阪の人、俳句を正岡子規に学び精進した。大阪俳壇の重鎮であった。満月会に川割り、野に地三日月会を起こした。ここ金福寺詠んだ句「蕪村の墓に隣して寝る霜夜かな狸追いし和尚の話夜半の冬提灯で墓へ参りぬ星冴ゆる」と書いてありました。

IMG_1726.jpg振り向けば、ここには「展望所」があり、京都市街地が見渡せます。正面には愛宕山が見えてます。

IMG_1731.jpgそして最も高い所にあったのが「与謝野蕪村の墓」でした。江戸中期の俳人であり、画家でもあり、俳諧中興の代表的な人物です。

IMG_1730.jpgお隣が「江森月居の墓」です。京都の人。蕪村門下の高弟で几董と共に双璧と言われた人物。

IMG_1732.jpgこちらが「𠮷分大魯の墓(よしわけたいろのはか)」で、徳島の藩士、蕪村門下、個性豊かな俳人。

IMG_1733.jpgこちらが「森川魯文の墓」で、京都の人、四条派の画家、長谷川王峯に学ぶ、各種の展覧会で受賞を重ね名声を上げた。

IMG_1734.jpg右が「呉月渓(呉春)の墓」、左が「呉景文の墓」とありました。

IMG_1736.jpgIMG_1738.jpg与謝野蕪村の墓から、再び階段を降り庭園に戻ってきました。

IMG_1741.jpg庭園にも石碑がありました。「花守は野守に劣るけふの月」(蕪村)、「西と見て日は入りにけり春の海」(百池)と書いてありました。

IMG_1744.jpg最後に書院残照亭」に入りました。ここは以前来たときの記憶がまったくありません。上がれなかったかも知れません。

IMG_1746.jpgこちらの掛け軸は、蕪村が64歳のとき、当寺のために描いた「芭蕉翁像」です。

IMG_1748.jpgお隣が「村山たか女御位牌」です。

IMG_1749.jpgIMG_1752.jpg堂内の与謝蕪村と村山たか女の遺品を見学し、お隣の本堂へ。

IMG_1750.jpg内陣中央に、ご本尊の「聖観音像」を安置。脇侍に「毘沙門天像」、「不動明王像」を安置。現在、弁天堂が工事中のため、「辨財天像」も安置されてました。

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以前、来た時に入れたかどうか記憶がありませんが、ここでゆっくりさせて貰いました。

IMG_1693.jpgIMG_1760.jpg10時12分に、ここを出て行きました。久しぶりの訪問は新鮮でした

金福寺から、一乗寺 中谷に寄ってネット販売なら9ケ月待ちの抹茶ティラミスをお土産に買い、叡山鉄道、京阪電車、地下鉄東西線、市バスを乗り継いで帰路に着きました。

【金福寺】

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