令和4年度「春期京都非公開文化財特別公開」雙林寺へ
令和4年度「春期京都非公開文化財特別公開」雙林寺(そうりんじ)は、昨年は4月1日から公開されたのですが、4月12日から「まん延防止等重点措置」の発令を受けて休止となり、その後中止となりました。私は昨年行きそびれてしまったので、2年越しの訪問を5月6日(金)に行って来ました。
雙林寺の公開期間は4月23日(土)~5月15日(日)まで。参考までに昨年は4月1日~5月16日まででしたので、今年は短いですね。ここは未訪でしたが、非公開の寺院では無く、御朱印はいつでも貰えるみたいです。ただガイドさんが詳しく説明してくれるのと、ご本尊の「薬師如来坐像(重文)」にライトが当たるので見やすいのが利点かなぁ・・・?。通常の拝観料は200円のようで、特別拝観の1000円の値打ちがあるかどうか・・・?。
この日の天気予報は良かったですが、晴れてるけど空には雲が広がっています。青空が見えない空模様でした。そんな曇り空の中、自宅からバスに乗って嵐電嵐山駅に行きました。3連休では嵐山は凄い人出でしたが・・・?。
嵐電嵐山駅から天神川駅に向かいました。3連休が終わったので電車もガラガラです。
地下鉄東西線東山駅から歩いて15分程度で行けると思いましたが、白川沿いを歩いたため、あとで地図を調べると遠回りしてたんです。登り坂もあって、当初の予定では無理かなぁ・・・と。予定では先に高台寺に行き、そのあと雙林寺に行くつもりでしたが、膝痛の影響か高台寺に9時到着は無理なことが途中で分かり、目的を雙林寺だけに変更した次第です。
8時58分に「大雲院」の前を通りました。祇園閣も見えましたね。
次に「西行庵」の前を通り、少し登って行きます。
そして9時ちょうどに看板の前に着きました。
雙林寺は金玉山(きんぎょくざん)と号する天台宗の寺である。延暦年間(782~805)に尾張蓮定鑑(おわりのむらじじょうかん)が伝教大師最澄を開基に招じて創建したのが当寺の起こりと伝えられる。その後、第74代鳥羽天皇の皇女入寺などもあって栄え、広い境内と多くの塔頭子院を有したが、中世になって衰微するに至った。応永年間(1394~1427)に国阿(こくあ)上人が再興し、時宗一派の本山となり、東山道場と称したが、応仁の乱後再び衰え、明治維新のときに天台宗に改まった。更に、明治の中頃、円山公園が設置された際に多くの寺地を失い、現在は本堂の一字にその名残をとどめるのみである。本堂に安置する木造薬師如来坐像(重文)は平安時代の翻波式衣文(ほんぱしきえもん)がよく表現されている。この地には、かつて、西行、平康頼(たいらのやすより)、頓阿(とんあ)などが庵住したと伝えられ、本堂南西飛地境内地には今も西行堂が建つ。また、豊臣秀吉もここで花見の宴を催したといわれる。
看板から北に向くと、墓石会社の大きな看板があって、その奥に「本堂」が見えました。
墓石会社の看板があるので、特別公開が無ければお参りに来ることは躊躇したでしょう。靴を袋に入れ上がり、先ずは手指消毒し検温されます。
拝観料1000円を納めると、護摩木を渡されるのでそれを持って堂内に入り、願い事を書いて本尊前に奉納します。入るとご住職が朝のお勤めをされていたので、案内が始まるのを待ちます。待っている間に前途したとおり護摩木を奉納し、書き置きの御朱印をいただました。
入ると先客が3名でした。先に前方に座られ、間隔を空けて座ります。案内は、学生さんでした。ただ不慣れなのか、声が小さいので私には聞こえずらかったです。殆ど耳に入らず、終わったら前方に行きお参りさせて貰いました。内陣の右の間の奥には歓喜天がお祀りされていますが絶対秘仏です。ライトが付いているので見えましたが、当然厨子は閉まっています。
看板の写真でも分かりますが、重要文化財に指定されている薬師如来坐像です。照らされているのではっきり見えました。左手には薬壺(やっこ)を持たれた姿、長い間戦乱、騒乱などをかいくぐり守り伝えられたのでしょう。カヤの一木造りで像高は85㌢もありました。
右手の大黒天像は小さかったです。七福神の大黒天は右手に小槌、左手に袋を背負った、にこやか表情を想像しますが、こちらの木像は平安時代の作で、左手に宝棒を持ち、鎧をまとったものものしい姿は、武装大黒天と呼ばれています。
また左手には、西行法師像があって、像高35㌢、鎌倉時代末期から室町時代にかけての作と伝わるものと案内されました。西行法師は元は武士でしたが、何らかの理由で出家し僧侶になられたとか。ここから近くの西行庵は、西行終焉の地と言われています。
見所は堂内だけで、9時16分には私を含めた4名とも出ました。狭い堂内だけで1000円は、やっぱり高いなぁ・・・が率直な感想でした。
本堂前には「伝教大師童形像」がありました。この御像は、1953年(昭和28年)来、京都二条城北側に所在した少年サポートセンターにお祀りされていたものです。2010年(平成22年)京都市東山区に移設されることになり、伝教大師が開かれた寺、雙林寺に来られることになりました。
この日は、これで帰りました。帰ってから「拝観の手引き」を見ると、法華塚や頓阿法師、西行法師、平康頼の供養塔が書かれています。あれって何処にあったの?と言うことで5月9日に再訪しました。
この日は、円山公園内を通って、八坂神社を横切り、地下鉄東西線三条京阪駅から帰路に着きました。そして9日(月)です。・・・?。
6日(金)にスルーしていた「地蔵堂」です。堂内には地蔵菩薩が祀られています。1872年(明治5年)法華塚を修繕したとき、地中から出現したという。その後、信者が病気平癒を祈願したところ数日中に全快されたため、その霊験に感謝しお堂を建立されました。
こちらが「法華塚」です。鳥羽天皇皇女 綾雲(あや)女王が、鳥羽法皇の菩提を弔うため法華塔を建立し、法皇自ら書写された金字法華経八巻を納められたが、応仁の乱で罹災したため、その灰土を集めて塚としたと伝わります。
そして本堂の西側を進むと供養塔がありました。向かって左より「頓阿法師」「西行法師」「平康頼」と並んでいます。いずれも当時のゆかり深い人物です。
8時40分頃に来ましたが、既に学生さんが準備されてました。早くから来られているんですね。私は早々に引き上げました。
次の予定が、この日のメインだったので「西行庵」は写真だけ撮りました。雙林寺の飛び地なんですね。
西行法師は、平安時代末期の僧侶であり、新古今和歌集の代表的な歌人の一人です。出家する前の俗名を佐藤義清(さとうのりきよ)と称し、もと鳥羽上皇の北面の武士でした。1140年(保延6年)に出家し諸国を行脚して全国各地の風光明媚な自然を愛で和歌を詠んだそうです。この地は、西行が蔡華園院(さいけおういん)を営み、終焉の地であったと伝わるものです。明治時代中期には荒廃を極めてて、1893年(明治26年)に、富岡鉄斎が勧進文を書き、小文法師が浄財を募り、当時の京都市長らの尽力により再建され現在に至っています。
この日は、次の目的地に急いで向かった次第です。その模様は後日。
【雙林寺】
雙林寺の公開期間は4月23日(土)~5月15日(日)まで。参考までに昨年は4月1日~5月16日まででしたので、今年は短いですね。ここは未訪でしたが、非公開の寺院では無く、御朱印はいつでも貰えるみたいです。ただガイドさんが詳しく説明してくれるのと、ご本尊の「薬師如来坐像(重文)」にライトが当たるので見やすいのが利点かなぁ・・・?。通常の拝観料は200円のようで、特別拝観の1000円の値打ちがあるかどうか・・・?。
この日の天気予報は良かったですが、晴れてるけど空には雲が広がっています。青空が見えない空模様でした。そんな曇り空の中、自宅からバスに乗って嵐電嵐山駅に行きました。3連休では嵐山は凄い人出でしたが・・・?。
嵐電嵐山駅から天神川駅に向かいました。3連休が終わったので電車もガラガラです。
地下鉄東西線東山駅から歩いて15分程度で行けると思いましたが、白川沿いを歩いたため、あとで地図を調べると遠回りしてたんです。登り坂もあって、当初の予定では無理かなぁ・・・と。予定では先に高台寺に行き、そのあと雙林寺に行くつもりでしたが、膝痛の影響か高台寺に9時到着は無理なことが途中で分かり、目的を雙林寺だけに変更した次第です。
8時58分に「大雲院」の前を通りました。祇園閣も見えましたね。
次に「西行庵」の前を通り、少し登って行きます。
そして9時ちょうどに看板の前に着きました。
雙林寺は金玉山(きんぎょくざん)と号する天台宗の寺である。延暦年間(782~805)に尾張蓮定鑑(おわりのむらじじょうかん)が伝教大師最澄を開基に招じて創建したのが当寺の起こりと伝えられる。その後、第74代鳥羽天皇の皇女入寺などもあって栄え、広い境内と多くの塔頭子院を有したが、中世になって衰微するに至った。応永年間(1394~1427)に国阿(こくあ)上人が再興し、時宗一派の本山となり、東山道場と称したが、応仁の乱後再び衰え、明治維新のときに天台宗に改まった。更に、明治の中頃、円山公園が設置された際に多くの寺地を失い、現在は本堂の一字にその名残をとどめるのみである。本堂に安置する木造薬師如来坐像(重文)は平安時代の翻波式衣文(ほんぱしきえもん)がよく表現されている。この地には、かつて、西行、平康頼(たいらのやすより)、頓阿(とんあ)などが庵住したと伝えられ、本堂南西飛地境内地には今も西行堂が建つ。また、豊臣秀吉もここで花見の宴を催したといわれる。
看板から北に向くと、墓石会社の大きな看板があって、その奥に「本堂」が見えました。
墓石会社の看板があるので、特別公開が無ければお参りに来ることは躊躇したでしょう。靴を袋に入れ上がり、先ずは手指消毒し検温されます。
拝観料1000円を納めると、護摩木を渡されるのでそれを持って堂内に入り、願い事を書いて本尊前に奉納します。入るとご住職が朝のお勤めをされていたので、案内が始まるのを待ちます。待っている間に前途したとおり護摩木を奉納し、書き置きの御朱印をいただました。
入ると先客が3名でした。先に前方に座られ、間隔を空けて座ります。案内は、学生さんでした。ただ不慣れなのか、声が小さいので私には聞こえずらかったです。殆ど耳に入らず、終わったら前方に行きお参りさせて貰いました。内陣の右の間の奥には歓喜天がお祀りされていますが絶対秘仏です。ライトが付いているので見えましたが、当然厨子は閉まっています。
看板の写真でも分かりますが、重要文化財に指定されている薬師如来坐像です。照らされているのではっきり見えました。左手には薬壺(やっこ)を持たれた姿、長い間戦乱、騒乱などをかいくぐり守り伝えられたのでしょう。カヤの一木造りで像高は85㌢もありました。
右手の大黒天像は小さかったです。七福神の大黒天は右手に小槌、左手に袋を背負った、にこやか表情を想像しますが、こちらの木像は平安時代の作で、左手に宝棒を持ち、鎧をまとったものものしい姿は、武装大黒天と呼ばれています。
また左手には、西行法師像があって、像高35㌢、鎌倉時代末期から室町時代にかけての作と伝わるものと案内されました。西行法師は元は武士でしたが、何らかの理由で出家し僧侶になられたとか。ここから近くの西行庵は、西行終焉の地と言われています。
見所は堂内だけで、9時16分には私を含めた4名とも出ました。狭い堂内だけで1000円は、やっぱり高いなぁ・・・が率直な感想でした。
本堂前には「伝教大師童形像」がありました。この御像は、1953年(昭和28年)来、京都二条城北側に所在した少年サポートセンターにお祀りされていたものです。2010年(平成22年)京都市東山区に移設されることになり、伝教大師が開かれた寺、雙林寺に来られることになりました。
この日は、これで帰りました。帰ってから「拝観の手引き」を見ると、法華塚や頓阿法師、西行法師、平康頼の供養塔が書かれています。あれって何処にあったの?と言うことで5月9日に再訪しました。
この日は、円山公園内を通って、八坂神社を横切り、地下鉄東西線三条京阪駅から帰路に着きました。そして9日(月)です。・・・?。
6日(金)にスルーしていた「地蔵堂」です。堂内には地蔵菩薩が祀られています。1872年(明治5年)法華塚を修繕したとき、地中から出現したという。その後、信者が病気平癒を祈願したところ数日中に全快されたため、その霊験に感謝しお堂を建立されました。
こちらが「法華塚」です。鳥羽天皇皇女 綾雲(あや)女王が、鳥羽法皇の菩提を弔うため法華塔を建立し、法皇自ら書写された金字法華経八巻を納められたが、応仁の乱で罹災したため、その灰土を集めて塚としたと伝わります。
そして本堂の西側を進むと供養塔がありました。向かって左より「頓阿法師」「西行法師」「平康頼」と並んでいます。いずれも当時のゆかり深い人物です。
8時40分頃に来ましたが、既に学生さんが準備されてました。早くから来られているんですね。私は早々に引き上げました。
次の予定が、この日のメインだったので「西行庵」は写真だけ撮りました。雙林寺の飛び地なんですね。
西行法師は、平安時代末期の僧侶であり、新古今和歌集の代表的な歌人の一人です。出家する前の俗名を佐藤義清(さとうのりきよ)と称し、もと鳥羽上皇の北面の武士でした。1140年(保延6年)に出家し諸国を行脚して全国各地の風光明媚な自然を愛で和歌を詠んだそうです。この地は、西行が蔡華園院(さいけおういん)を営み、終焉の地であったと伝わるものです。明治時代中期には荒廃を極めてて、1893年(明治26年)に、富岡鉄斎が勧進文を書き、小文法師が浄財を募り、当時の京都市長らの尽力により再建され現在に至っています。
この日は、次の目的地に急いで向かった次第です。その模様は後日。
【雙林寺】
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