臨済宗妙心派塔頭 養徳院 5月の月例直書き御朱印授与へ
臨済宗妙心派塔頭 養徳院 5月の月例直書き御朱印授与は、5月7日(土)と8日(日)の2日間でした。私は7日(土)に行き、直書き御朱印をいただいてきました。
いつものように京都市バスに乗り、妙心寺前で下車。総門から入って「仏殿」まで来ました。
仏殿内で、何か準備をされているようでした。この時は分かりませんでしたが、帰りに分かりました。
GWも終盤になりましたが、昨日も出掛けましたが普通でした。この日もパスは空いてましたね。
8時42分に「山門」前に着きました。着くと先客が2名。「4月の月例直書き御朱印」と同じですね。
バスの時間の都合で、この時間に着いてしまいます。開門は、「4月の月例直書き御朱印」と同様に10時になってから。天気が良く暑かったので待っているの間は、疲れました。
先にお二人が入られたので、そんなに急ぎません。15分ぐらいかかるので、手指消毒して上がりました。
入ると堂内が空いてます。聞くと本堂を建て替え工事されてるようで、本堂での御朱印授与は、今月までだそうです。来月からの予定は分かりません。
ご本尊もお引っ越しされてますが、この掛け軸の前でお参りです。
連休中は外出しませんでしたが、天気は良かったですね。それで嵐山の人出も多かったようです。襖も外されているので、風通しは良かったです。
書院に食器が置いてありました。「好きなのを持って帰ってください」と言われましたが、家で何が必要か知らないのと、鞄が重くなるので、持ち帰りません。
予想どおり9時15分ぐらいに呼ばれたので御朱印いただけました。
「明月払清風(清風明月を払い、名月清風を払う)」
清らかな風が明月を払い清め、明月の明かりが清風を清めるという意味の言葉です。
互いに作用しあって素晴らしい情景が完成している。互いを認め合う心の大切さをこの言葉から感じずにはいられません。参拝していただく方に「いつもありがとうございます」と声をかけていただくのですが、我々こそ「いつもありがとうございます」なのです。お寺はそこに訪れていただく方がいるからこそ市井に存在する意義があります。皆様の生活や存在もそうです。本当の意味での「お陰様」と向き合う時間を持ちましょう。
「一喝」
悟りを得させるための叱咤や、大声で叱りつけることと辞典を引けば出てきます。叱咤とは大声をあげて叱る、叱って励ますという事ですが「一喝」はその限りではありません。昨今は「優しく育てる教育」という言葉がひとり歩きしていると感じます。優しさとは一体何なのか?丸い言葉や柔らかい物腰ですか?甚だ疑問です。真剣に向き合うからこそ出る働きがあるのではないでしょうか?真剣に向き合うからこそです働きが「一喝」という言葉に集約しているのです。相手を思うからこそ出来る行為はその行為に責任が出ます。自身がどう思われようと真剣な働きに相手が心打たれるのはそこに相手の責任を感じるからです。厳しくも優しい、そんな経験は誰しもあるのではないでしょうか?今の人たちはそのような「一喝」に飢えているのではないでしょうか?
9時17分に「山門」から出て行きました。帰りのバスの時間に余裕があるので、ゆっくり境内を歩きます。
帰りに「仏殿」を通ると、堂内がブラスバンドの演奏が聞こえてきます。
この時は、分かりませんが、Twitterをフォローしている妙心寺塔頭 長慶院さんが教えてくれてました。この日は5月7日で、春の御室お花祭りでした。これはお釈迦様の誕生日(4月8日、旧暦では一月遅れ) をお祝いする行事だそうです。昨年と一昨年はコロナ禍により中止されたので、3年振りに開催されました。そして仁和寺の和尚方も駆けつけ、皆さんはお参りされたようですね。紙芝居でお釈迦様誕生の話を聞いて、花園高校の吹奏楽部の子たちも演奏に来ました。私はリハーサルを聞いたわけです。以前は妙心寺から仁和寺まで子どもたちと賑やかにパレードされたようですが、パレードはせずに妙心寺の仏殿の中だけでの行事となったようです。
三門前から退蔵院を見ています。今日は入りません。
雄大な「三門」を周面から撮りました。
その三門前から「勅使門」を撮りました。この門が開く姿を見たことがありません。
行きと同様に9時30分頃に「総門」を出て行きました。
ここから妙心寺前バス停に行き、ほぼ時間どおりに来たバスに乗り帰りました。
【妙心寺塔頭 養徳院】
いつものように京都市バスに乗り、妙心寺前で下車。総門から入って「仏殿」まで来ました。
仏殿内で、何か準備をされているようでした。この時は分かりませんでしたが、帰りに分かりました。
GWも終盤になりましたが、昨日も出掛けましたが普通でした。この日もパスは空いてましたね。
8時42分に「山門」前に着きました。着くと先客が2名。「4月の月例直書き御朱印」と同じですね。
バスの時間の都合で、この時間に着いてしまいます。開門は、「4月の月例直書き御朱印」と同様に10時になってから。天気が良く暑かったので待っているの間は、疲れました。
先にお二人が入られたので、そんなに急ぎません。15分ぐらいかかるので、手指消毒して上がりました。
入ると堂内が空いてます。聞くと本堂を建て替え工事されてるようで、本堂での御朱印授与は、今月までだそうです。来月からの予定は分かりません。
ご本尊もお引っ越しされてますが、この掛け軸の前でお参りです。
連休中は外出しませんでしたが、天気は良かったですね。それで嵐山の人出も多かったようです。襖も外されているので、風通しは良かったです。
書院に食器が置いてありました。「好きなのを持って帰ってください」と言われましたが、家で何が必要か知らないのと、鞄が重くなるので、持ち帰りません。
予想どおり9時15分ぐらいに呼ばれたので御朱印いただけました。
「明月払清風(清風明月を払い、名月清風を払う)」
清らかな風が明月を払い清め、明月の明かりが清風を清めるという意味の言葉です。
互いに作用しあって素晴らしい情景が完成している。互いを認め合う心の大切さをこの言葉から感じずにはいられません。参拝していただく方に「いつもありがとうございます」と声をかけていただくのですが、我々こそ「いつもありがとうございます」なのです。お寺はそこに訪れていただく方がいるからこそ市井に存在する意義があります。皆様の生活や存在もそうです。本当の意味での「お陰様」と向き合う時間を持ちましょう。
「一喝」
悟りを得させるための叱咤や、大声で叱りつけることと辞典を引けば出てきます。叱咤とは大声をあげて叱る、叱って励ますという事ですが「一喝」はその限りではありません。昨今は「優しく育てる教育」という言葉がひとり歩きしていると感じます。優しさとは一体何なのか?丸い言葉や柔らかい物腰ですか?甚だ疑問です。真剣に向き合うからこそ出る働きがあるのではないでしょうか?真剣に向き合うからこそです働きが「一喝」という言葉に集約しているのです。相手を思うからこそ出来る行為はその行為に責任が出ます。自身がどう思われようと真剣な働きに相手が心打たれるのはそこに相手の責任を感じるからです。厳しくも優しい、そんな経験は誰しもあるのではないでしょうか?今の人たちはそのような「一喝」に飢えているのではないでしょうか?
9時17分に「山門」から出て行きました。帰りのバスの時間に余裕があるので、ゆっくり境内を歩きます。
帰りに「仏殿」を通ると、堂内がブラスバンドの演奏が聞こえてきます。
この時は、分かりませんが、Twitterをフォローしている妙心寺塔頭 長慶院さんが教えてくれてました。この日は5月7日で、春の御室お花祭りでした。これはお釈迦様の誕生日(4月8日、旧暦では一月遅れ) をお祝いする行事だそうです。昨年と一昨年はコロナ禍により中止されたので、3年振りに開催されました。そして仁和寺の和尚方も駆けつけ、皆さんはお参りされたようですね。紙芝居でお釈迦様誕生の話を聞いて、花園高校の吹奏楽部の子たちも演奏に来ました。私はリハーサルを聞いたわけです。以前は妙心寺から仁和寺まで子どもたちと賑やかにパレードされたようですが、パレードはせずに妙心寺の仏殿の中だけでの行事となったようです。
三門前から退蔵院を見ています。今日は入りません。
雄大な「三門」を周面から撮りました。
その三門前から「勅使門」を撮りました。この門が開く姿を見たことがありません。
行きと同様に9時30分頃に「総門」を出て行きました。
ここから妙心寺前バス停に行き、ほぼ時間どおりに来たバスに乗り帰りました。
【妙心寺塔頭 養徳院】
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