令和4年度「春期京都非公開文化財特別公開」金光寺へ
令和4年度「春期京都非公開文化財特別公開」金光寺は、先に訪問した雙林寺と同様に、昨年公開されましたが途中で中止となったので、こちらも2年越しの訪問です。
5月6日(金)に雙林寺に行きましたが、帰ってからガイド本を読んでいると、見損ねた所があったので、金光寺に行く前に再び雙林寺に寄って確認してきました。そこから八坂神社石段下のバス停から80号系統に乗って、河原町五条まで行く予定が、バス停を間違えて待っていたので、当然バスは来ず。次の停留所である東山安井まで行って、間違いに気づいた次第です。仕方ないので、そこからタクシーを利用し河原町五条まで行き、そこから歩いて金光寺に向かいました。土地勘があっても、思い込みは禁物ですね。ちゃんと調べないと・・・。
場所は、毎年お正月でに「京都十六社朱印めぐり」でお参りに訪れている市比賣神社の西側にあります。
金光寺は、時宗 市中山(しちゅうざん) 最勝王院(さいしょうおういん)と言い、市屋道場(いちやどうじょう)とも呼ばれています。金光寺は空也上人とゆかりがあり、承平年間(931~937)に空也上人が市比売神の御神託により堀川七条の東市(現在の西本願寺の辺り)の地に建立した市堂が起こりと伝わります。空也上人は「一たびも南無阿弥陀仏という人のはちすの上にのぼらぬはなし」と。ただ一度でも南無阿弥陀仏と唱えると阿弥陀様の救いによって娯楽浄土蓮台の上に生まれ変わることが出来ますと教えを広め、人々は鐘を打ち鳴らし念仏を唱えます。それが空也上人の踊り念仏の始まりとなりました。それが嵯峨野阿弥陀寺の六斎念仏に受け継がれています。その後、1284(弘安7年)一遍上人が空也上人を慕って、空也の遺蹟に踊屋(おどりや)を設置し庶民の教化につとめました。ときの鎌倉期第32代唐橋法印胤恵は天台宗から時宗に帰依し作阿(さあ)と名を改めました。金光寺の住職は作阿を名乗り、現在のご住職は75代目だそうです。作阿上人は市屋派の祖として崇敬され、中世には市比賣神社を鎮守社としましたが、1591年(天正19年)に豊臣秀吉による京の街の区画整理で本願寺建立により、現在に移った。本堂は1864年(元治元年)の元治大火により焼失し、大阪天満の与力の屋敷を移築したもので武家造りで屋根は切妻造となっています。
9時5分に着き、拝観料1000円を納めて入ります。帰りに知ったことですが、ここは門より中は撮影禁止だったようです。ただ知らなかったので(案内が無かったので)知らずに撮ってました。
入ると先に、右手にある寺務所にて、書き置きの御朱印をいただきました。日付を入れてもらうため帰りに受取ましたが、ご住職にお会いできました。
入ると左手にあるのが「荼枳尼天社」で、本堂は右手です。
「本堂」には靴を脱いで上がります。靴は袋に入れることになってましたが、私一人しか居ないので、置いたままにさせて貰いました。
上がると私一人のため、マンツーマンで案内を聞きました。先ずは金光寺の歴史、そして本堂内陣に祀られているご本尊の案内です。
内陣中央に、花山法皇の念持仏と伝わる阿弥陀如来立像(鎌倉時代)、向かって右手が勢至菩薩、左手に観音菩薩の阿弥陀三尊像が祀られています。そして左脇壇には左から流祖の作阿上人像、地蔵菩薩像、空也上人像が並んで祀られており、また、右脇壇には釈迦如来坐像が祀られていました。
次に珍しい重要文化財に指定されいる「遊行上人縁起絵」を案内の元に見学です。時宗の開祖、一遍の事跡を表した絵巻物は国宝に指定されていますが、こちらのは江戸時代に写したものだそうです。
遊行上人縁起絵 「第三巻三段 四条京極 四条大橋 一遍上人賦算」は一遍上人が四条大橋で布教している場面が描かれ、「第六巻二段」「第五巻五段 不動王と毘沙門の加護のもと洪水の手取川を渡る」「第九巻 伊勢神宮を参拝 内宮を参拝し天照大神に賦算する」一遍と、一遍を継承して時宗を発展させた真教(しんきょう)2人の足跡を描いた絵巻です。
ここに居る間は私だけでしたので、ゆっくり説明を聞き質問もして、9時30分頃に金光寺を出ました。西に向かって歩いて行くと、京都タワーが見えましたので撮って見た訳です。
ここ金光寺から大行寺に行くことも考えましたが、膝も良く無いので近くの地下鉄烏丸線五条駅から地下鉄に乗り、御池駅で東西線に乗り換えるつもりが・・・東西線御池駅に人が多いです。何故かなぁ・・・・と思い電車を待っていると、東山駅でホームドアの不具合で止まっているとか。ここから四条まで戻りバスに乗ることも考えましたが、前途したとおり膝が良く無いので、泣く泣くタクシーに乗り帰りました。翌日にはコロナ禍で行けてなかった整形外科を受診し、膝を診て貰った次第です。
【金光寺】
5月6日(金)に雙林寺に行きましたが、帰ってからガイド本を読んでいると、見損ねた所があったので、金光寺に行く前に再び雙林寺に寄って確認してきました。そこから八坂神社石段下のバス停から80号系統に乗って、河原町五条まで行く予定が、バス停を間違えて待っていたので、当然バスは来ず。次の停留所である東山安井まで行って、間違いに気づいた次第です。仕方ないので、そこからタクシーを利用し河原町五条まで行き、そこから歩いて金光寺に向かいました。土地勘があっても、思い込みは禁物ですね。ちゃんと調べないと・・・。
場所は、毎年お正月でに「京都十六社朱印めぐり」でお参りに訪れている市比賣神社の西側にあります。
金光寺は、時宗 市中山(しちゅうざん) 最勝王院(さいしょうおういん)と言い、市屋道場(いちやどうじょう)とも呼ばれています。金光寺は空也上人とゆかりがあり、承平年間(931~937)に空也上人が市比売神の御神託により堀川七条の東市(現在の西本願寺の辺り)の地に建立した市堂が起こりと伝わります。空也上人は「一たびも南無阿弥陀仏という人のはちすの上にのぼらぬはなし」と。ただ一度でも南無阿弥陀仏と唱えると阿弥陀様の救いによって娯楽浄土蓮台の上に生まれ変わることが出来ますと教えを広め、人々は鐘を打ち鳴らし念仏を唱えます。それが空也上人の踊り念仏の始まりとなりました。それが嵯峨野阿弥陀寺の六斎念仏に受け継がれています。その後、1284(弘安7年)一遍上人が空也上人を慕って、空也の遺蹟に踊屋(おどりや)を設置し庶民の教化につとめました。ときの鎌倉期第32代唐橋法印胤恵は天台宗から時宗に帰依し作阿(さあ)と名を改めました。金光寺の住職は作阿を名乗り、現在のご住職は75代目だそうです。作阿上人は市屋派の祖として崇敬され、中世には市比賣神社を鎮守社としましたが、1591年(天正19年)に豊臣秀吉による京の街の区画整理で本願寺建立により、現在に移った。本堂は1864年(元治元年)の元治大火により焼失し、大阪天満の与力の屋敷を移築したもので武家造りで屋根は切妻造となっています。
9時5分に着き、拝観料1000円を納めて入ります。帰りに知ったことですが、ここは門より中は撮影禁止だったようです。ただ知らなかったので(案内が無かったので)知らずに撮ってました。
入ると先に、右手にある寺務所にて、書き置きの御朱印をいただきました。日付を入れてもらうため帰りに受取ましたが、ご住職にお会いできました。
入ると左手にあるのが「荼枳尼天社」で、本堂は右手です。
「本堂」には靴を脱いで上がります。靴は袋に入れることになってましたが、私一人しか居ないので、置いたままにさせて貰いました。
上がると私一人のため、マンツーマンで案内を聞きました。先ずは金光寺の歴史、そして本堂内陣に祀られているご本尊の案内です。
内陣中央に、花山法皇の念持仏と伝わる阿弥陀如来立像(鎌倉時代)、向かって右手が勢至菩薩、左手に観音菩薩の阿弥陀三尊像が祀られています。そして左脇壇には左から流祖の作阿上人像、地蔵菩薩像、空也上人像が並んで祀られており、また、右脇壇には釈迦如来坐像が祀られていました。
次に珍しい重要文化財に指定されいる「遊行上人縁起絵」を案内の元に見学です。時宗の開祖、一遍の事跡を表した絵巻物は国宝に指定されていますが、こちらのは江戸時代に写したものだそうです。
遊行上人縁起絵 「第三巻三段 四条京極 四条大橋 一遍上人賦算」は一遍上人が四条大橋で布教している場面が描かれ、「第六巻二段」「第五巻五段 不動王と毘沙門の加護のもと洪水の手取川を渡る」「第九巻 伊勢神宮を参拝 内宮を参拝し天照大神に賦算する」一遍と、一遍を継承して時宗を発展させた真教(しんきょう)2人の足跡を描いた絵巻です。
ここに居る間は私だけでしたので、ゆっくり説明を聞き質問もして、9時30分頃に金光寺を出ました。西に向かって歩いて行くと、京都タワーが見えましたので撮って見た訳です。
ここ金光寺から大行寺に行くことも考えましたが、膝も良く無いので近くの地下鉄烏丸線五条駅から地下鉄に乗り、御池駅で東西線に乗り換えるつもりが・・・東西線御池駅に人が多いです。何故かなぁ・・・・と思い電車を待っていると、東山駅でホームドアの不具合で止まっているとか。ここから四条まで戻りバスに乗ることも考えましたが、前途したとおり膝が良く無いので、泣く泣くタクシーに乗り帰りました。翌日にはコロナ禍で行けてなかった整形外科を受診し、膝を診て貰った次第です。
【金光寺】
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