臨済宗大本山妙心寺 大雄院「春の特別拝観」へ
臨済宗大本山妙心寺 大雄院では、4月29日(金・祝)から春の特別拝観が始まりました。拝観には予約は不要ですが、御朱印は予約が必要です。私は5月11日(水)10時からのを予約してました。
以前、「秋の特別拝観&御朱印授与」に来た時、御朱印を貰うまで、約1時間かかった経験から、この日は9時47分に「山門」前に着きました。

行列必至で来たのに、誰も居ません。拝観受付所には人が居ましたが、「時間まで待って下さい」と。

開門されたのは、9時59分でした。拝観料600円を納めましたが、聞くと拝観料無しでは御朱印が貰えないとか・・・。もう見る所も無いのにね
。
御朱印は、「庫裏」の中で貰います。番号札は1番、朱印は帰りに受け取ります。



入ると、ガイドさんがスタンバイされてました。私は、何度も来ているので案内は断りました
。
靴を脱いで上がると、いつもなら庭園側に入りますが、今日は反対側でした。

先ずは「坪庭」に面した六畳の「知足殿」の前を通ります。


最初に「庫裏玄関」から襖絵を見ます。「襖絵プロジェクト千種の花の丸襖絵」をあっさり見てると、ガイドさんより「水琴窟知ってますか?」と話されて・・・?。
何度も来ていて初めて知りました。「水琴窟」の音色を聞かせて貰いました。良い音色でしたよ。

次に「客間」に移動しました。ここも「襖絵プロジェクト千種の花の丸襖絵」をゆっくり見ることができました。
こちらに来た時、ガイドさんが「四季の引手をご存じですか?」と聞かれたので、もちろん知ってますと
。



このあと「中書院」に行けました。ここに入るのは久し振りかも・・・です。

最後に庭園に出ると、ここにもガイドさんがスタンバイされてました。そこで教えてくれたのは、杜若が咲き始めたという話しです。
「書院(翠濤軒)」は売店になってました。ここはスルーして奥に行き、に「東司(とうす)」を撮りました。畳敷きのトイレで1726年(享保11年)に客殿が再建されてから、当時の原型のまま残っています。


何度も来ているので庭園もスルーして、仏間にてお参りし出て行くことにしました。番号札1番だしね。
10時10分に出ました。私の他に、あとから3名来られただけでした。
玄関を出て庫裏に寄ると御朱印できてました。拝観者が少ないので拍子抜けしましたね
。
「春に百花有り(はるにひゃっかあり)」
「春有百花秋有月 夏有涼風冬有雪 若無閑事挂心頭 便是人間好時節」春に咲くたくさんの美しい花、秋の夜長に光る月、夏に遠山から下りくる風の涼しさ、冬には降り積もる雪の白さに心洗われる・・・どの季節でも、私たちが生きる世界は既に美しく、どんな日でも好時節である。それらを感じ取ることができるかどうかは、自分自身の心次第です。あれこれと、悩み囚われていると、時に、物事の本来の姿を視ることが難しくなります。それでも悩み尽きぬのが人であり、人生ですが、春の暖かさ、目に留まった花の美しさをふっと嬉しく思える自身の心は即ち尊いのです。
「春風(しゅんぷう)」
野火焼けども尽きず、春風吹いてまた生ず(やかやけどもつきず しゅんぷうふいてまたしょうず) 唐の詩人白居易の句です。冬に枯れた草木が野火によって焼き尽くされても、季節が巡り春風の服頃となればまた地面から新しい命の芽吹きがあります。春に生まれて夏に花開き、秋の実りがあり、冬にはまた枯れていく。いのちや物事には始まりと終わりがあり、終焉し何事も無くなったかに思えても、次の命は始まる。それが繰り返されるのが生命で、人生も同じです。良いことも悪いことも一つのところに留まっては居れません。新しい始まりの春風が吹くとき、希望の光に向かって小さな生命は芽吹きます。
10時15分に「山門」から出て行きました。「秋の特別拝観&御朱印授与」に来た時に比べて、こんなに早く出て来られるとは・・・・
。
ここから妙心寺バス停から京都市バスに乗って帰路に着きました。次回の予定は発表されてませんが、行くかどうか微妙ですね。
【妙心寺塔頭 大雄院】

以前、「秋の特別拝観&御朱印授与」に来た時、御朱印を貰うまで、約1時間かかった経験から、この日は9時47分に「山門」前に着きました。

































玄関を出て庫裏に寄ると御朱印できてました。拝観者が少ないので拍子抜けしましたね


「春有百花秋有月 夏有涼風冬有雪 若無閑事挂心頭 便是人間好時節」春に咲くたくさんの美しい花、秋の夜長に光る月、夏に遠山から下りくる風の涼しさ、冬には降り積もる雪の白さに心洗われる・・・どの季節でも、私たちが生きる世界は既に美しく、どんな日でも好時節である。それらを感じ取ることができるかどうかは、自分自身の心次第です。あれこれと、悩み囚われていると、時に、物事の本来の姿を視ることが難しくなります。それでも悩み尽きぬのが人であり、人生ですが、春の暖かさ、目に留まった花の美しさをふっと嬉しく思える自身の心は即ち尊いのです。
「春風(しゅんぷう)」
野火焼けども尽きず、春風吹いてまた生ず(やかやけどもつきず しゅんぷうふいてまたしょうず) 唐の詩人白居易の句です。冬に枯れた草木が野火によって焼き尽くされても、季節が巡り春風の服頃となればまた地面から新しい命の芽吹きがあります。春に生まれて夏に花開き、秋の実りがあり、冬にはまた枯れていく。いのちや物事には始まりと終わりがあり、終焉し何事も無くなったかに思えても、次の命は始まる。それが繰り返されるのが生命で、人生も同じです。良いことも悪いことも一つのところに留まっては居れません。新しい始まりの春風が吹くとき、希望の光に向かって小さな生命は芽吹きます。


ここから妙心寺バス停から京都市バスに乗って帰路に着きました。次回の予定は発表されてませんが、行くかどうか微妙ですね。
【妙心寺塔頭 大雄院】
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