西国三十三ヵ所 第22番札所 補陀洛山 総持寺へ
9月16日(金)は、15年振りに大阪に行きました。13年間大阪市に勤めていたものの15年前に大阪から京都に転勤して以来、大阪には一度も足を踏み入れて無かったからです。大阪には、あまり良い印象が残って無かったのも事実で、大阪を敬遠してました。ただ、最近西国三十三ヵ所札所巡りを再開した時、「西国三十三所草創1300年」の特別御朱印をいただけることが分かったのと、散華が新しく変わっていたので、四巡目回って見ようかなぁ・・・と思い立った訳です。確定じゃないけど、取り急ぎ大阪府茨木市にある西国三十三ヵ所 第22番札所 補陀洛山 総持寺から行くことにしたわけです。
今日は三ヵ所回るので入念に電車の時間を考えました。その結果は・・・自宅から先ず市バスに乗って、阪急嵐山駅まで行きます。そこから阪急電車に乗り桂駅まで。桂駅で京都線に乗り換える訳で、今度は普通電車に乗り総持寺駅まで行きました。早く行くなら、桂駅で通勤特急で高槻市駅まで行き、そこで普通電車に乗り換え総持寺駅まで行く・・・これなら15分遅く家を出られますが、まず桂駅から総持寺駅まて座れないです。13年の大阪勤めの経験で分かってました。
阪急総持寺駅に7時45分に着いて、総持寺の入口に7時54分に着きました。総持寺駅西口から歩いて5分ぐらいでしょう、看板も出ているので迷うことはありません。
2006年(平成18年)8月17日以来、久しぶりの訪問で、入口も変わったなぁ・・・が実感です。
この「手水鉢」は、近づくと水が出るようになっています。感染予防&節水ですよね。
石段も山門も綺麗になりましたね。今日は天気が良すぎて朝から暑いです。
886年(仁和2年)創建。開山の中納言 藤原山陰(ふじわらのやまかげ)は「大化の改新」で功績のあった藤原鎌足から数えて8代目。平安時代の承和年間(834~848)に山陰の父越前守高房が九州太宰府へ赴任する途中、漁師に捕まった亀に出会い、可愛そうに思った高房は漁師から買い取り水中に放してやった。そして、その翌日、山陰は継母によって水中に投げ捨てられるが、観音菩薩に祈ったところ、以前助けた亀が現れ、亀の背に乗り生還した。この時、山陰は観音様の造立と伽藍の建立を決意します。
勝尾寺(箕面市)と久安寺(池田市)のみに見られる均等の取れた楼門形式の外観「山門(仁王門)」(茨木市指定文化財)は建築技法から元禄年間(1688~1702)の建立が考えられています。
山門の左右には「金剛力士像」があって、鎌倉時代後期~南北朝時代にかけての作だと思われます。
山門を入って正面に「本堂」があります。1699年(元禄12年)の再建当初に、この本堂も復元されたようです。ご本尊は千住観世音菩薩で秘仏です。
7時56分にお参りしました。納経所は8時からとあったので、このあと境内を散策します。
先ずは「金堂」(茨木市指定文化財)から。棟札から1649年(慶安2年)に四天王寺の大工により建てられたことが判明。本尊は薬師如来像坐像(鎌倉時代~南北朝時代の作)。
この前には、池があった庭園でした。天気が良すぎです。
鳥居があったので見に行くと「荒神社」(茨木市指定文化財)でした。江戸時代の1643年(寛永20年)に総持寺の中興法印隆慶により造営されました。
お隣の校倉造りの建物は「経蔵(宝蔵)」(茨木市指定文化財)でした。江戸時代の1643年(寛永20年)の建立です。
境内の北側に移動し「鎮守社」(茨木市指定文化財)です。大黒天、辨財天、青面金剛が祀られています。
こちらは本堂の裏手にあたり「普悲観音堂」があって、堂内には「普悲観音像」が祀られていました。
境内の東北まで来ると美濃真澄の句碑がありました。「一山の蝉一山の声となる」と書かれています。
境内の東にも門がありました。「東門」でしょうか?。
そろそろ納経所に向かいます。境内の東側にありました。
納経所を通過して「大師堂(護摩堂)」を見ました。堂内には弘法大師像が祀られているようです。
こちらは高野山奥之院遙拝所「一願大師」で、はるか南方の高野山の大師にお参りします。
境内の西側まで来て「開山堂(包丁式殿)」を見ました。2006年(平成18年)の再建です。内部は中納言藤原山陰卿が祀られています。
「地蔵尊」です。
池に浮かぶお堂は?。亀が泳いでいました。
最後は本堂前の「水天社」です。詳細はわかりません。
時計を見ると8時3分になったので、納経所に入ってみました。僧侶の方がお一人おられたので御朱印お願いしました。御朱印は「西国三十三ヵ所草創1300年」の印入りです。散華もいただきました。
納経所の前にあったのが「総持寺瓦窯跡」です。上から覗けますが暗いので殆ど見えないです。
8時10分に総持寺の山門から出て行きました。帰りも阪急総持寺駅を目指します。
帰りも総持寺駅を目指しましたが、道を間違えて・・・次の電車に乗ったのが8時26分 天下茶屋行きでした。真っ直ぐに行ったら、もう一本早いのに乗れたと思います。残念。でも、予定より早いです。
今日は三ヵ所回るので入念に電車の時間を考えました。その結果は・・・自宅から先ず市バスに乗って、阪急嵐山駅まで行きます。そこから阪急電車に乗り桂駅まで。桂駅で京都線に乗り換える訳で、今度は普通電車に乗り総持寺駅まで行きました。早く行くなら、桂駅で通勤特急で高槻市駅まで行き、そこで普通電車に乗り換え総持寺駅まで行く・・・これなら15分遅く家を出られますが、まず桂駅から総持寺駅まて座れないです。13年の大阪勤めの経験で分かってました。
阪急総持寺駅に7時45分に着いて、総持寺の入口に7時54分に着きました。総持寺駅西口から歩いて5分ぐらいでしょう、看板も出ているので迷うことはありません。
2006年(平成18年)8月17日以来、久しぶりの訪問で、入口も変わったなぁ・・・が実感です。
この「手水鉢」は、近づくと水が出るようになっています。感染予防&節水ですよね。
石段も山門も綺麗になりましたね。今日は天気が良すぎて朝から暑いです。
886年(仁和2年)創建。開山の中納言 藤原山陰(ふじわらのやまかげ)は「大化の改新」で功績のあった藤原鎌足から数えて8代目。平安時代の承和年間(834~848)に山陰の父越前守高房が九州太宰府へ赴任する途中、漁師に捕まった亀に出会い、可愛そうに思った高房は漁師から買い取り水中に放してやった。そして、その翌日、山陰は継母によって水中に投げ捨てられるが、観音菩薩に祈ったところ、以前助けた亀が現れ、亀の背に乗り生還した。この時、山陰は観音様の造立と伽藍の建立を決意します。
勝尾寺(箕面市)と久安寺(池田市)のみに見られる均等の取れた楼門形式の外観「山門(仁王門)」(茨木市指定文化財)は建築技法から元禄年間(1688~1702)の建立が考えられています。
山門の左右には「金剛力士像」があって、鎌倉時代後期~南北朝時代にかけての作だと思われます。
山門を入って正面に「本堂」があります。1699年(元禄12年)の再建当初に、この本堂も復元されたようです。ご本尊は千住観世音菩薩で秘仏です。
7時56分にお参りしました。納経所は8時からとあったので、このあと境内を散策します。
先ずは「金堂」(茨木市指定文化財)から。棟札から1649年(慶安2年)に四天王寺の大工により建てられたことが判明。本尊は薬師如来像坐像(鎌倉時代~南北朝時代の作)。
この前には、池があった庭園でした。天気が良すぎです。
鳥居があったので見に行くと「荒神社」(茨木市指定文化財)でした。江戸時代の1643年(寛永20年)に総持寺の中興法印隆慶により造営されました。
お隣の校倉造りの建物は「経蔵(宝蔵)」(茨木市指定文化財)でした。江戸時代の1643年(寛永20年)の建立です。
境内の北側に移動し「鎮守社」(茨木市指定文化財)です。大黒天、辨財天、青面金剛が祀られています。
こちらは本堂の裏手にあたり「普悲観音堂」があって、堂内には「普悲観音像」が祀られていました。
境内の東北まで来ると美濃真澄の句碑がありました。「一山の蝉一山の声となる」と書かれています。
境内の東にも門がありました。「東門」でしょうか?。
そろそろ納経所に向かいます。境内の東側にありました。
納経所を通過して「大師堂(護摩堂)」を見ました。堂内には弘法大師像が祀られているようです。
こちらは高野山奥之院遙拝所「一願大師」で、はるか南方の高野山の大師にお参りします。
境内の西側まで来て「開山堂(包丁式殿)」を見ました。2006年(平成18年)の再建です。内部は中納言藤原山陰卿が祀られています。
「地蔵尊」です。
池に浮かぶお堂は?。亀が泳いでいました。
最後は本堂前の「水天社」です。詳細はわかりません。
時計を見ると8時3分になったので、納経所に入ってみました。僧侶の方がお一人おられたので御朱印お願いしました。御朱印は「西国三十三ヵ所草創1300年」の印入りです。散華もいただきました。
納経所の前にあったのが「総持寺瓦窯跡」です。上から覗けますが暗いので殆ど見えないです。
8時10分に総持寺の山門から出て行きました。帰りも阪急総持寺駅を目指します。
帰りも総持寺駅を目指しましたが、道を間違えて・・・次の電車に乗ったのが8時26分 天下茶屋行きでした。真っ直ぐに行ったら、もう一本早いのに乗れたと思います。残念。でも、予定より早いです。
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