西国三十三ヵ所 第25番札所 御嶽山 播州清水寺へ
9月18日(日)は、3連休の真ん中で本来なら観光客が多いでしょう。ただ、台風14号が自転車並の速度で北上し、九州鹿児島に接近してました。大型の台風で、遠く離れた関西でも風は強かったです。ただ雨は降ってません。前日に友人から、「予定が空いているので何処か行きませんか?」とお誘いを受けたので、二人で出掛けることにしました。
天気予報を入念に調べると、降水確率が低いのは兵庫県でした。それで目的地は兵庫県の北部と決め、目的地の候補を友人に伝えると、「お任せします」と連絡あり、当日は我が家を7時に出発することとし、最初に向かうのは西国三十三ヵ所 第25番札所 御嶽山 播州清水寺と、ナビに入れて貰い出発。前途したとおり風は強かったけど雨は降りそうにも無い空模様の中出発しました。
車は、大原野ICから京都縦貫道に入り大山崎JCTから名神高速道路に入りました。高槻市、茨木市、宝塚市など通り、吉川JCTから中国自動車道に入ります。そこからほぼ北上し三田ICで高速を降り、あとはナビの誘導に任せて進むと播州清水寺登山口に8時38分に着きました。この自動車専用の登山道は寺力で造られたものです。その入口で拝観料500円を納め約3㌔の登山道を登り、6分ぐらいで「仁王門」前の駐車場に着きました。
高速道路で渋滞も無かったので8時42分に着きました。2007年(平成19年)2月12日以来、久しぶりの訪問です。
この仁王門(楼門)は以前は旧参道の頂上にありました。しかし、1965年(昭和40年)の台風23号により倒壊、1980年(昭和55年)にこの地に新宿再建されました。
「金剛力士像」は1921年(大正10年)奈良の仏師菅原大三郎氏の遺作です。
仁王門をくぐり階段を上がると、まっすぐ続く参道を緩やかに登って行きます。
開山法道(ほうどう)仙人はインドの僧で、中国、朝鮮半島を経由して、第12代景行天皇の御代の時に日本へと渡ってきて、播州にとどまり仏教を広めた。播州から丹波にかけて法道仙人開基の寺が点在している。清水寺に来た法道仙人は625年(推古天皇35年)第33代推古天皇の勅命により根本中堂を建立。十一観音をご本尊とし脇侍に毘沙門天、吉祥天を安置した。その後、725年(神亀2年)第45代聖武天皇が行基に勅願し大講堂を建立し千手観音をご本尊とした。白河法皇の后・祇園女御が多宝塔を、後白河法皇が常行三昧堂を、平清盛の義母・池禅尼が薬師堂を建立。寺域を拡大していったが戦火により焼失してまった。花山法皇西国御順拝の時、ここを訪ねられ御詠されて以来、西国二十五番の礼堂と称するようになりました
ここから江戸時代中期の石垣が続きます。
8時47分に、ようやくお堂が見えるエリアに来ました。
手水舎の向かいにあったのが「薬師堂」です。ご本尊は薬師如来。平安時代末期の建立も現在のお堂は1984年(昭和59年)の再建です。
御朱印は、「大講堂」でいただくことを想い出しました。今から向かいます。
大講堂の前には「放生池」があって、こちらの木は「沙羅の木」です。平家物語に出てきますね。
「大講堂」は、登録有形文化財に指定。現在の建物は1917年(大正6年)の再建。京大武田五一の設計です。
堂内に納経所があるので、御朱印いただきました。御朱印は「西国三十三ヵ所草創1300年」の印入りです。散華もいただきました。
内陣に入るのに100円納めます。十一面千手観世音菩薩の目の前まで行けるので入って良かったです。
大講堂を出て、次に階段を上がります。遠路来たので行ける所まで行くつもり。
「地蔵堂」です。以前は後白河法皇が創建した常行行堂がありました。1937年(昭和12年)創建。ご本尊は地蔵菩薩でした。
地蔵堂から大講堂を見ています。
こちらが「根本中堂」です。創建時は推古天皇の勅願で金堂でした。本尊は十一面観世音菩薩、脇侍に毘沙門天王、吉祥天女です。
次に根本中堂の右手を進みます。
何の石碑かなぁ・・・と「八志路幼稚園祈念碑」と見てみる、以前播州清水寺が幼稚園を経営されていたようです。今は閉園しているそうです。
次の石碑は「安田青風歌碑」で「空をゆく雲を うつして沼はあり くもに選べる みずくらの花」と書いてあります。
こちらの祈念碑は、明治維新で播州清水寺の山林が没収されたのを行政訴訟で取り戻した記念碑だそうです。
この先の予定を考えると、次の石段はしんどいけど頑張って登ります。
「宝篋印塔」です。3333巻の般若心経の写経を納めてあるそうです。
以前大塔が建っていた「大塔跡」です。仁王門と同様、台風により倒壊してしまいました。
看板が出ていて、ここから100㍍先に清水寺の名の元になった「おかげの井戸」があるそうで、行きませんでした。
戻りは迂回して降りて行きます。理由は鐘楼があらです。
「聖観世音菩薩」があったので寄りました。1930年(昭和5年)11月建立です。
参道を歩いて行くと、「荼枳尼天尊(だきにてんそん)」(稲荷社)がありました。
先の荼枳尼天尊から石段を降りると「鐘楼」があったので、迂回して見に来た訳です。1913年(大正2年)焼失、1920年(大正9年)再建。この鐘の音は丹波、摂津の国に響き渡るそうです。
ここから根本中堂に至る階段に出てきます。階段、ゆっくり降りました。
駐車場に戻る途中の左手に「赤松氏範切腹石」があったので寄りました。1386年(南朝 元中3年/北朝 至徳3年)山名・細川の軍勢に追われ、子息ら一族郎党100余名と共に清水寺にて自害したとありました。
右が「芭蕉翁発句塚」、左句碑で「名月や どの山見ても 皆低き」朗霞庵古谷の作。
行きの時も気づいてましたが、ここには「フジバカマ」が綺麗に咲いてました。フジバカマと言えばアサギマダラでしょう。この蝶は、多分違います。
9時20分頃に播州清水寺の駐車場を出て行きました。
台風が近づいているので風は強いです。勢力が強いので心配ですが、雨は心配しなくてすみそうです。
天気予報を入念に調べると、降水確率が低いのは兵庫県でした。それで目的地は兵庫県の北部と決め、目的地の候補を友人に伝えると、「お任せします」と連絡あり、当日は我が家を7時に出発することとし、最初に向かうのは西国三十三ヵ所 第25番札所 御嶽山 播州清水寺と、ナビに入れて貰い出発。前途したとおり風は強かったけど雨は降りそうにも無い空模様の中出発しました。
車は、大原野ICから京都縦貫道に入り大山崎JCTから名神高速道路に入りました。高槻市、茨木市、宝塚市など通り、吉川JCTから中国自動車道に入ります。そこからほぼ北上し三田ICで高速を降り、あとはナビの誘導に任せて進むと播州清水寺登山口に8時38分に着きました。この自動車専用の登山道は寺力で造られたものです。その入口で拝観料500円を納め約3㌔の登山道を登り、6分ぐらいで「仁王門」前の駐車場に着きました。
高速道路で渋滞も無かったので8時42分に着きました。2007年(平成19年)2月12日以来、久しぶりの訪問です。
この仁王門(楼門)は以前は旧参道の頂上にありました。しかし、1965年(昭和40年)の台風23号により倒壊、1980年(昭和55年)にこの地に新宿再建されました。
「金剛力士像」は1921年(大正10年)奈良の仏師菅原大三郎氏の遺作です。
仁王門をくぐり階段を上がると、まっすぐ続く参道を緩やかに登って行きます。
開山法道(ほうどう)仙人はインドの僧で、中国、朝鮮半島を経由して、第12代景行天皇の御代の時に日本へと渡ってきて、播州にとどまり仏教を広めた。播州から丹波にかけて法道仙人開基の寺が点在している。清水寺に来た法道仙人は625年(推古天皇35年)第33代推古天皇の勅命により根本中堂を建立。十一観音をご本尊とし脇侍に毘沙門天、吉祥天を安置した。その後、725年(神亀2年)第45代聖武天皇が行基に勅願し大講堂を建立し千手観音をご本尊とした。白河法皇の后・祇園女御が多宝塔を、後白河法皇が常行三昧堂を、平清盛の義母・池禅尼が薬師堂を建立。寺域を拡大していったが戦火により焼失してまった。花山法皇西国御順拝の時、ここを訪ねられ御詠されて以来、西国二十五番の礼堂と称するようになりました
ここから江戸時代中期の石垣が続きます。
8時47分に、ようやくお堂が見えるエリアに来ました。
手水舎の向かいにあったのが「薬師堂」です。ご本尊は薬師如来。平安時代末期の建立も現在のお堂は1984年(昭和59年)の再建です。
御朱印は、「大講堂」でいただくことを想い出しました。今から向かいます。
大講堂の前には「放生池」があって、こちらの木は「沙羅の木」です。平家物語に出てきますね。
「大講堂」は、登録有形文化財に指定。現在の建物は1917年(大正6年)の再建。京大武田五一の設計です。
堂内に納経所があるので、御朱印いただきました。御朱印は「西国三十三ヵ所草創1300年」の印入りです。散華もいただきました。
内陣に入るのに100円納めます。十一面千手観世音菩薩の目の前まで行けるので入って良かったです。
大講堂を出て、次に階段を上がります。遠路来たので行ける所まで行くつもり。
「地蔵堂」です。以前は後白河法皇が創建した常行行堂がありました。1937年(昭和12年)創建。ご本尊は地蔵菩薩でした。
地蔵堂から大講堂を見ています。
こちらが「根本中堂」です。創建時は推古天皇の勅願で金堂でした。本尊は十一面観世音菩薩、脇侍に毘沙門天王、吉祥天女です。
次に根本中堂の右手を進みます。
何の石碑かなぁ・・・と「八志路幼稚園祈念碑」と見てみる、以前播州清水寺が幼稚園を経営されていたようです。今は閉園しているそうです。
次の石碑は「安田青風歌碑」で「空をゆく雲を うつして沼はあり くもに選べる みずくらの花」と書いてあります。
こちらの祈念碑は、明治維新で播州清水寺の山林が没収されたのを行政訴訟で取り戻した記念碑だそうです。
この先の予定を考えると、次の石段はしんどいけど頑張って登ります。
「宝篋印塔」です。3333巻の般若心経の写経を納めてあるそうです。
以前大塔が建っていた「大塔跡」です。仁王門と同様、台風により倒壊してしまいました。
看板が出ていて、ここから100㍍先に清水寺の名の元になった「おかげの井戸」があるそうで、行きませんでした。
戻りは迂回して降りて行きます。理由は鐘楼があらです。
「聖観世音菩薩」があったので寄りました。1930年(昭和5年)11月建立です。
参道を歩いて行くと、「荼枳尼天尊(だきにてんそん)」(稲荷社)がありました。
先の荼枳尼天尊から石段を降りると「鐘楼」があったので、迂回して見に来た訳です。1913年(大正2年)焼失、1920年(大正9年)再建。この鐘の音は丹波、摂津の国に響き渡るそうです。
ここから根本中堂に至る階段に出てきます。階段、ゆっくり降りました。
駐車場に戻る途中の左手に「赤松氏範切腹石」があったので寄りました。1386年(南朝 元中3年/北朝 至徳3年)山名・細川の軍勢に追われ、子息ら一族郎党100余名と共に清水寺にて自害したとありました。
右が「芭蕉翁発句塚」、左句碑で「名月や どの山見ても 皆低き」朗霞庵古谷の作。
行きの時も気づいてましたが、ここには「フジバカマ」が綺麗に咲いてました。フジバカマと言えばアサギマダラでしょう。この蝶は、多分違います。
9時20分頃に播州清水寺の駐車場を出て行きました。
台風が近づいているので風は強いです。勢力が強いので心配ですが、雨は心配しなくてすみそうです。
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