物部氏の総氏神を祀る石上神宮(いそのかみじんぐう)へ
長谷寺の駐車場を出て、行きと同様に国道165号線を西に走り、桜井警察署の交差点を右折し国道169号線を北上。箸墓古墳など、古墳群を見ながら北上すると大和神社前交差点を右折し、天理市を目指し県道を北上。天理市内に入った所で、目的地が右手に見えました。私は知りませんでしたが、石上神宮(いそのかみじんぐう)に12時40分頃に着きました。なお、駐車場は満車状態でしたが無料です。
駐車場から参道まで田園風景です。まもなく稲穂が実りそうですね。
石上神宮は、日本有数の古社で、武門の棟梁である物部氏の総氏神を祀る。鎮座地は、大和盆地の中央東寄り、龍王山(りゅうおうざん)の西の麓、標高266㍍の布留山(ふるやま)の北西麓の高台に鎮座し、境内は鬱蒼とした常緑樹に囲まれ、神さびた自然の姿を今に残している。北方には布留川が流れ、周辺は古墳密集地帯として知られている。健康長寿・病気平癒・除災招福・百事成就の守護神として篤い崇敬を集め、古くは「石上社」「布留社」とも呼ばれ、古典には「「石上振神宮(いそのかみふるじんぐう)」「石上坐布都御魂神社(いそのかみにますふつのみたまじんじゃ)」と記されてた。現在の拝殿は、当宮崇敬されていた第72代白河天皇が平安時代後期に宮中の神嘉殿(しんかでん)を寄進されたものと伝わる。大神神社と並び日本最古の神社の一つであった石上神宮は、記紀神話にある、熊野の神の毒気にあたって動けなくなった神武天皇の東征軍を救ったとされる神剣をご神体とする社。伊勢神宮と並び、神宮号を許されるほど隆盛を極めたが、中世に入ると、興福寺の荘園拡大や守護権力の強大化により、朝廷による祭祀から遠ざかる。戦国時代になると織田尾張勢の乱入により社頭は破却され、神領も没収され衰微していった。しかし、明治を迎え、神祇の国家管理が行われるに伴い、1871年(明治4年)官幣大社に列し、1883年(明治16年)には神宮号復称が許された。
この「社号標」は、1928年(昭和3年)11月に行われた昭和天皇の即位の礼と大嘗祭を奉祝して建てられたもの。
次に「大鳥居」をくぐります。1928年(昭和3年)11月に行われた昭和天皇の御大典を記念し、台湾の檜を使用して建立されたもの。
この鬱蒼とした参道を歩いて行くと、何処からか鶏の鳴き声が・・・?。
境内には放し飼いされているニワトリが鳴いてました。40年ほど前に奉納され自生しているそうです。
楼門前には「花手水」があって、綺麗でした。今流行ですよね。
神仏分離令以前は、鐘が吊されした「楼門」は重要文化財に指定されています。1318年(文保2年)の建立と記録が残っているそうです。
楼門を入ったら正面に拝殿が、そこで参拝です。
日本最古のの「拝殿」は、1081年(永保元年)に第72代白河天皇が宮中の神嘉殿(しんかでん)を寄進されたものと伝わっています。
本殿は禁足地にあるので見ることはできません。御祭神は主祭神に、布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)、布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)、布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)。配祀神に、宇摩志麻治命(うましまじのみこと)、五十瓊敷命(いにしきのみこと)、白河天皇(しらかわてんのう)、市川臣命(いちかわおみのみこと)とありました。
石上神宮には本殿がなく、拝殿後方の禁足地を御本地と称し、その中央に主祭神が埋斎され、諸神は拝殿に配祀されていました。1874年(明治7年)に菅政友(かんまさとも)大宮司により禁足地が発掘され、御神体の出御を仰ぎ、1913年(大正2年)に本殿が造営されました。
参拝のあと、授与所に行き御朱印いただきました。2種類ありました。
右、真ん中に石上神宮と書かれ、石上神宮の印が押されています。左、七支刀の御朱印は、真ん中に七支刀が描かれ、石上神宮の印が押されています。
七支刀(しちしとう)は、石上神宮の神庫(ほくら)に伝世した古代の鉄剣で、国宝に指定されています。全長74.8㌢で剣身の左右に段違いに3本ずつの枝刃を持ち、剣身に金象嵌の銘文が表裏60余字記されています。日本書紀の記述にある、神功皇后摂政52年に百済から献上された「七枝刀(ななつさやのたち)」にあたると考えられています。
「楼門」を出ました。このあと境内社を見て行きます。
最初は、摂社「出雲建雄神社(いずもたけおじんじゃ)」から。延喜式内社で、草薙剣(くさなぎのつるぎ)の荒魂(あらみたま)である出雲建雄神(いずもたけおのかみ)が祀られています。
お隣は末社「猿田彦神社」です。主祭神は、猿田彦神で、 底筒男神(そこつつのおのかみ)、 中筒男神(なかつつのおのかみ)、 上筒男神(うわつつのおのかみ)、 息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)、 高靇神(たかおかみのかみ)を配祀神として祀られています。
その向かいには国宝「出雲建雄神社拝殿」がありました。元来は内山永久寺の鎮守の住吉社の拝殿でしたが、1914年(大正3年)に現在地に移築されました。
その拝殿から「楼門」を見ています。まだもう少しあるので散策します。
お参りされている方が居るので遠目から。摂社「天神社」です。御祭神は、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)、神皇産霊神(かみむすびのかみ)の二柱です。
その奥には、摂社「七座社」で、御祭神が、左から大直日神(おおなおびのかみ)、御膳都神(みけつかみ)、魂留産霊神(たまつめむすびのかみ)、生産霊神(いくむすびのかみ)、足産霊神(たるむすびのかみ)、大宮能売神(おおみやのめのかみ)、辞代主神(ことしろぬしのか)の七柱です。
駐車場に戻る途中にあった「神牛像」です。牛が伏せるような姿の銅像で、丑年の崇敬者によって奉納されたものです。
古くは石上池と呼ばれていた「鏡池」です。奈良県の天然記念物の鯉科のワタカという名の淡水魚が生息しているみたいです。
13時頃に駐車場に戻り、帰路につきました。天理市を国道169号線を北上すると、渋滞しています。Twitter情報では奈良公園周辺が渋滞しているようですが、帰り道がこちらのため仕方ありません。それなら西国三十三ヵ所の札所である興福寺南円堂に行けるかなぁ・・・と。それで、興福寺の駐車場の前を通ると1台だけ空きがでたと係の方が言ってるので、13時30分頃ここで車を止めることにしました。しかし・・・?。
興福寺南円堂です。ここの御朱印がいただける納経所を見ると、ざっと50名ぐらいの人が並んでいます。それで断念。
ただ、ここに来るまで知らなかったことで、国宝五重塔の初層が特別公開されています。まもなく修復工事に入られるためだそうで、拝観料1000円でした。
その特別公開のチケット売場を見ると、ここもざっと100名ぐらいの人が並んでいます。日曜日の昼から、やっぱり奈良観光は無理でしたね。
せっかく駐車場に車を止めたので、阿修羅観音を見に「国宝館」だけ入って出て行きました。
車は木津ICから京奈和自動車に入り、久御山JCTで京滋バイパスに入り、大山崎JCTで京都縦貫道に入りました。そして大原野ICで高速道を降り、国道9号線経由で帰路につきました。
駐車場から参道まで田園風景です。まもなく稲穂が実りそうですね。
石上神宮は、日本有数の古社で、武門の棟梁である物部氏の総氏神を祀る。鎮座地は、大和盆地の中央東寄り、龍王山(りゅうおうざん)の西の麓、標高266㍍の布留山(ふるやま)の北西麓の高台に鎮座し、境内は鬱蒼とした常緑樹に囲まれ、神さびた自然の姿を今に残している。北方には布留川が流れ、周辺は古墳密集地帯として知られている。健康長寿・病気平癒・除災招福・百事成就の守護神として篤い崇敬を集め、古くは「石上社」「布留社」とも呼ばれ、古典には「「石上振神宮(いそのかみふるじんぐう)」「石上坐布都御魂神社(いそのかみにますふつのみたまじんじゃ)」と記されてた。現在の拝殿は、当宮崇敬されていた第72代白河天皇が平安時代後期に宮中の神嘉殿(しんかでん)を寄進されたものと伝わる。大神神社と並び日本最古の神社の一つであった石上神宮は、記紀神話にある、熊野の神の毒気にあたって動けなくなった神武天皇の東征軍を救ったとされる神剣をご神体とする社。伊勢神宮と並び、神宮号を許されるほど隆盛を極めたが、中世に入ると、興福寺の荘園拡大や守護権力の強大化により、朝廷による祭祀から遠ざかる。戦国時代になると織田尾張勢の乱入により社頭は破却され、神領も没収され衰微していった。しかし、明治を迎え、神祇の国家管理が行われるに伴い、1871年(明治4年)官幣大社に列し、1883年(明治16年)には神宮号復称が許された。
この「社号標」は、1928年(昭和3年)11月に行われた昭和天皇の即位の礼と大嘗祭を奉祝して建てられたもの。
次に「大鳥居」をくぐります。1928年(昭和3年)11月に行われた昭和天皇の御大典を記念し、台湾の檜を使用して建立されたもの。
この鬱蒼とした参道を歩いて行くと、何処からか鶏の鳴き声が・・・?。
境内には放し飼いされているニワトリが鳴いてました。40年ほど前に奉納され自生しているそうです。
楼門前には「花手水」があって、綺麗でした。今流行ですよね。
神仏分離令以前は、鐘が吊されした「楼門」は重要文化財に指定されています。1318年(文保2年)の建立と記録が残っているそうです。
楼門を入ったら正面に拝殿が、そこで参拝です。
日本最古のの「拝殿」は、1081年(永保元年)に第72代白河天皇が宮中の神嘉殿(しんかでん)を寄進されたものと伝わっています。
本殿は禁足地にあるので見ることはできません。御祭神は主祭神に、布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)、布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)、布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)。配祀神に、宇摩志麻治命(うましまじのみこと)、五十瓊敷命(いにしきのみこと)、白河天皇(しらかわてんのう)、市川臣命(いちかわおみのみこと)とありました。
石上神宮には本殿がなく、拝殿後方の禁足地を御本地と称し、その中央に主祭神が埋斎され、諸神は拝殿に配祀されていました。1874年(明治7年)に菅政友(かんまさとも)大宮司により禁足地が発掘され、御神体の出御を仰ぎ、1913年(大正2年)に本殿が造営されました。
参拝のあと、授与所に行き御朱印いただきました。2種類ありました。
右、真ん中に石上神宮と書かれ、石上神宮の印が押されています。左、七支刀の御朱印は、真ん中に七支刀が描かれ、石上神宮の印が押されています。
七支刀(しちしとう)は、石上神宮の神庫(ほくら)に伝世した古代の鉄剣で、国宝に指定されています。全長74.8㌢で剣身の左右に段違いに3本ずつの枝刃を持ち、剣身に金象嵌の銘文が表裏60余字記されています。日本書紀の記述にある、神功皇后摂政52年に百済から献上された「七枝刀(ななつさやのたち)」にあたると考えられています。
「楼門」を出ました。このあと境内社を見て行きます。
最初は、摂社「出雲建雄神社(いずもたけおじんじゃ)」から。延喜式内社で、草薙剣(くさなぎのつるぎ)の荒魂(あらみたま)である出雲建雄神(いずもたけおのかみ)が祀られています。
お隣は末社「猿田彦神社」です。主祭神は、猿田彦神で、 底筒男神(そこつつのおのかみ)、 中筒男神(なかつつのおのかみ)、 上筒男神(うわつつのおのかみ)、 息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)、 高靇神(たかおかみのかみ)を配祀神として祀られています。
その向かいには国宝「出雲建雄神社拝殿」がありました。元来は内山永久寺の鎮守の住吉社の拝殿でしたが、1914年(大正3年)に現在地に移築されました。
その拝殿から「楼門」を見ています。まだもう少しあるので散策します。
お参りされている方が居るので遠目から。摂社「天神社」です。御祭神は、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)、神皇産霊神(かみむすびのかみ)の二柱です。
その奥には、摂社「七座社」で、御祭神が、左から大直日神(おおなおびのかみ)、御膳都神(みけつかみ)、魂留産霊神(たまつめむすびのかみ)、生産霊神(いくむすびのかみ)、足産霊神(たるむすびのかみ)、大宮能売神(おおみやのめのかみ)、辞代主神(ことしろぬしのか)の七柱です。
駐車場に戻る途中にあった「神牛像」です。牛が伏せるような姿の銅像で、丑年の崇敬者によって奉納されたものです。
古くは石上池と呼ばれていた「鏡池」です。奈良県の天然記念物の鯉科のワタカという名の淡水魚が生息しているみたいです。
13時頃に駐車場に戻り、帰路につきました。天理市を国道169号線を北上すると、渋滞しています。Twitter情報では奈良公園周辺が渋滞しているようですが、帰り道がこちらのため仕方ありません。それなら西国三十三ヵ所の札所である興福寺南円堂に行けるかなぁ・・・と。それで、興福寺の駐車場の前を通ると1台だけ空きがでたと係の方が言ってるので、13時30分頃ここで車を止めることにしました。しかし・・・?。
興福寺南円堂です。ここの御朱印がいただける納経所を見ると、ざっと50名ぐらいの人が並んでいます。それで断念。
ただ、ここに来るまで知らなかったことで、国宝五重塔の初層が特別公開されています。まもなく修復工事に入られるためだそうで、拝観料1000円でした。
その特別公開のチケット売場を見ると、ここもざっと100名ぐらいの人が並んでいます。日曜日の昼から、やっぱり奈良観光は無理でしたね。
せっかく駐車場に車を止めたので、阿修羅観音を見に「国宝館」だけ入って出て行きました。
車は木津ICから京奈和自動車に入り、久御山JCTで京滋バイパスに入り、大山崎JCTで京都縦貫道に入りました。そして大原野ICで高速道を降り、国道9号線経由で帰路につきました。
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