西国三十三ヵ所 第33番満願霊場 谷汲山 華厳寺へ
昨日、奈良に行って国宝五重塔の初層を特別拝観し帰ってきたところ、友人から「明日行けるから」と連絡入りました。9月25日奈良の札所を回ったときに、28日(水)予定が空いてたら、「谷汲山華厳寺に行かないか?」と誘ったところ返事が保留になっていました。明日の東海地方の天気予報は良く無かったけど、せっかく行ってくれるなら、こんな有難いことは無いので、明日6時30分に待ち合わせて行くことになりました。
当日、京都は曇り空で、少し涼しい朝でしたね。予定どおりなら8時30分頃には目的地に着く予定でしたが・・・?。目的地には高速道路を利用します。京都南ICか京都東ICから名神高速道路に入りますが、京都東ICから入ることにし、車は三条通りから山科区に入りましたが、何故か渋滞しています。ノロノロの原因は名神高速道路京都東ICから大津IC間の渋滞で、その入口である京都東ICの入口から三条通りまで渋滞していたわけです。結局、高速に乗ったのが8時前、予定より大幅な遅れました。ただ、この渋滞の要因は分かりません。
京都東ICから名神高速道路に入り、道なりに東に走り養老JCTから東海環状自動車道に入り北上します。大野神戸ICで高速は終わり、引き続き県道を北上し9時24分に西国三十三ヵ所 第33番満願霊場 谷汲山 華厳寺に着きました。
寺の草創は第50代桓武天皇の798年(延暦17年)で開祖は豊然上人、本願は奥州会津の黒川郷に済む大口大領(おおぐちたいりょう)で、観音堂の建立を発心したことに始まります。奥州の文殊堂に祈願し、大木を授かり、それを京のに運び観音像を造り、京の都から観音像を奥州へ運んでいこうとすると、美濃赤坂あたりまで来ると、観音様が急に重くなり動けなくなりました。大領は、赤坂の北五里の山中に観音所縁の霊地があるというお告げを受け、大口大領は修行中の豊然上人とともに同地に草庵を建立。そのとき、堂近くの岩穴より油が滾々と湧き出し尽きることが無いので、以後数百年仏前の燈明に困ることが無かったといいます。後に、この不思議な話を耳にされた第60代醍醐天皇から谷汲山の山号を賜り、華厳寺の扁額を下賜されました。
車は、谷汲山華厳寺の仁王門の西側にある無料駐車場に入れました。
少し戻って・・・こちらは帰りに撮りました。「仁王門」は宝暦年間(1751年~64年)に再建されたものだそうです。
門前の道路です。まだ、お店は開いてまんせんが、ここを通って来ました。


仁王門には仁王像が睨みをきかせ、奉納されたのでしょうか大きな草鞋が吊されてました。
車から降りると、少し肌寒い気候でした。小雨が降ってますが、傘がいるかどうか微妙な天気です。私らは傘を差しません。

鬱蒼とした木立の中参道を歩いて行きます。朝早いので空いています。
参道の両脇には塔頭寺院が並んでいます。こちらは「十王堂」(右)、「羅漢堂」(左)です。

次に参道の左手には「明王院」がありますが、寄りません。
参道の中程まで来ると「焼香堂」まで、やってきました。
その前に「手水舎」があって、コロナウイルスの感染予防から柄杓はありません。
こちらが「焼香堂」です。
突き当たりの本堂まで、最後に石段を登ります。
その前に右手に「英霊堂」がありました。
左手には「経堂」が。名札には一切経堂と書いてあります。
再び右手には「三十三所堂」です。入口にある境内図に確認しました。
石段の中程で、「踊地地蔵」(右)、「勢至・観音大菩薩」(左)にありました。

やっと「本堂」に着きました。本堂が工事中は知らなかったです。
現在の本堂は、1879年(明治12年)に再建さ、ご本尊の十一面観世音菩薩(秘仏)、脇侍に運慶作と伝わる不動明王、菅原道真作の毘沙門天(重文)が安置されています。944年(天慶7年)には、第61代朱雀天皇から華厳寺を鎮護国家の道場として勅願寺に定められ、寺領・仏具を賜り、提灯や内陣の幕などで見られる「菊の御紋」を使うことを許された。また本堂正面の左右の柱には「精進落としの鯉」と呼ばれる青銅製の鯉が打ち付けられています。これは巡礼満願となった巡礼者が最後にこの柱の鯉を撫でるとことで、巡礼を終えるという古くからの習わしがあります。


本堂の右手に「納経所」があります。誰も居ないので、お参りのあと御朱印をいただきました。
御朱印は「西国三十三ヵ所草創1300年」の印入りです。散華もいただきました。谷汲山では、御朱印は3種です。上から「現世(本堂)」「過去世(満願堂)」「未来世(笈摺堂)」でした。
本堂が工事中で、そのまま奥に進みます。
最初に見るのは「聖天堂」です。詳しいことは分かりません。
先程、御朱印をいただいた「笈摺堂」です。花山法皇が禅衣(笈摺)、杖、および三首のご詠歌を奉納したとされます。この堂には今日も西国三十三所巡礼を終えた人々が奉納した笈摺、朱印帳等が置かれ、多数の千羽鶴が奉納されています。
お隣の「子安堂」です。本尊は子安観音。安産・子宝祈願などの身体健康などの願い事を記したたくさんのよだれかけが奉納されています。
ここまで来たら満願堂まで行ってみます。



先程御朱印をいただいた「満願堂」まで登って来ました。
ご本尊は十一面観世音菩薩(平安時代)で、両脇には当寺の開祖である豊然上人、本願の大口大領の木像が安置されています。西国巡礼の満願札所である当寺では、本堂・満願堂・笈摺堂の三箇所をお参りします。またお堂のまわりにある狸像は、巡礼満願した者は他の者より優れる(他を抜く)という意味が込められています。

降りて来て、今度は本堂の反対側に行ってみます。

こちらは名札から「持経観音(じきょうかんのん)」と分かりました。
こちらは「愛染明王」と分かりました。

こちらは「阿弥陀堂」です。ただ、この階段を上がる元気が無かったです。
「鐘楼」です。こちらも工事中のようです。


このあと、工事中の本堂を抜け、石段を降りて行きました。谷汲山華厳寺は天台宗でした・・・その理由は、このあと分かります。

本堂を降りて行くと、西に行ける石段があったので降りていくと、そこには「元三大師堂」がありました。
元三大師(がんざんだいし)は、比叡山の高僧であり、荒廃していた比叡山諸堂の復興など数多くの功績を上げられたことから比叡山中興の祖と知られています。比叡山は天台宗ですね😊。
こちらは境内図により「内仏客殿」と分かりました。
その奥には「庫裏」と「玄関」です。

このエリアを「中門」から抜けると、行きに寄った「三十三所堂」の前に出て来ました。


9時50分頃に、駐車場に戻り出て行きました。
次は、子供の頃に行った思い出の地です。
当日、京都は曇り空で、少し涼しい朝でしたね。予定どおりなら8時30分頃には目的地に着く予定でしたが・・・?。目的地には高速道路を利用します。京都南ICか京都東ICから名神高速道路に入りますが、京都東ICから入ることにし、車は三条通りから山科区に入りましたが、何故か渋滞しています。ノロノロの原因は名神高速道路京都東ICから大津IC間の渋滞で、その入口である京都東ICの入口から三条通りまで渋滞していたわけです。結局、高速に乗ったのが8時前、予定より大幅な遅れました。ただ、この渋滞の要因は分かりません。
京都東ICから名神高速道路に入り、道なりに東に走り養老JCTから東海環状自動車道に入り北上します。大野神戸ICで高速は終わり、引き続き県道を北上し9時24分に西国三十三ヵ所 第33番満願霊場 谷汲山 華厳寺に着きました。
寺の草創は第50代桓武天皇の798年(延暦17年)で開祖は豊然上人、本願は奥州会津の黒川郷に済む大口大領(おおぐちたいりょう)で、観音堂の建立を発心したことに始まります。奥州の文殊堂に祈願し、大木を授かり、それを京のに運び観音像を造り、京の都から観音像を奥州へ運んでいこうとすると、美濃赤坂あたりまで来ると、観音様が急に重くなり動けなくなりました。大領は、赤坂の北五里の山中に観音所縁の霊地があるというお告げを受け、大口大領は修行中の豊然上人とともに同地に草庵を建立。そのとき、堂近くの岩穴より油が滾々と湧き出し尽きることが無いので、以後数百年仏前の燈明に困ることが無かったといいます。後に、この不思議な話を耳にされた第60代醍醐天皇から谷汲山の山号を賜り、華厳寺の扁額を下賜されました。






















現在の本堂は、1879年(明治12年)に再建さ、ご本尊の十一面観世音菩薩(秘仏)、脇侍に運慶作と伝わる不動明王、菅原道真作の毘沙門天(重文)が安置されています。944年(天慶7年)には、第61代朱雀天皇から華厳寺を鎮護国家の道場として勅願寺に定められ、寺領・仏具を賜り、提灯や内陣の幕などで見られる「菊の御紋」を使うことを許された。また本堂正面の左右の柱には「精進落としの鯉」と呼ばれる青銅製の鯉が打ち付けられています。これは巡礼満願となった巡礼者が最後にこの柱の鯉を撫でるとことで、巡礼を終えるという古くからの習わしがあります。



御朱印は「西国三十三ヵ所草創1300年」の印入りです。散華もいただきました。谷汲山では、御朱印は3種です。上から「現世(本堂)」「過去世(満願堂)」「未来世(笈摺堂)」でした。









ご本尊は十一面観世音菩薩(平安時代)で、両脇には当寺の開祖である豊然上人、本願の大口大領の木像が安置されています。西国巡礼の満願札所である当寺では、本堂・満願堂・笈摺堂の三箇所をお参りします。またお堂のまわりにある狸像は、巡礼満願した者は他の者より優れる(他を抜く)という意味が込められています。













元三大師(がんざんだいし)は、比叡山の高僧であり、荒廃していた比叡山諸堂の復興など数多くの功績を上げられたことから比叡山中興の祖と知られています。比叡山は天台宗ですね😊。







次は、子供の頃に行った思い出の地です。
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